2017年1月29日 主日礼拝「カナの婚礼」

本日の聖書箇所

ヨハネの福音書2章1〜11節

説教題

「カナの婚礼」

今週の聖句

イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。

ヨハネの福音書2章11節
 
訳してみましょう
1863 Prayer is not preparation for the work, it is the work.(Oswald Chambers)
(祈りは仕事〈行い〉に対する準備でありません。それは仕事〈行い〉です。)
1864 Times of trouble are times for trust.
(問題のある時は、信じる時である。)
 
説教メモ

1.終末時計30秒縮まる

このニュースをお聞きになった方はおられますか。
終末時計のことを過去に三回ほど、ここから語ったことがあります。正確には「世界終末時計」といい、英語ではDooms day clockと言います。終末をしらせる「深夜0時」まで、残り何分かを示す時計です。これは定期的(何か重大なことがあると)に調整されます。先日、残り3分だった時計が30秒縮められて、残り2分30秒となりました。要因としてアメリカトランプ大統領選挙の勝利による世界の核兵器拡大への懸念、そして地球温暖化に対する軽視発言、シリヤやウクライナをめぐる国際問題や北朝鮮による核実験などが挙げられ、それらの理由によって残り時間が縮められました。30秒しか針が進められなかった要因として、まだトランプ大統領が就任して間もないからだとされています。つまりもっと進められるかもしれないということです。これまでは米ソ冷戦時代の「2分」が最高でしたが、現在、それからわずか30秒遅れではありますが、しかしこれまでの歴代二番目の残り時間の短さになります。
アメリカも日本も民主主義で生きてきました。民主主義は現在ある主義主張の中でそれなりの良さがあると思います。大多数の意見で物事を決めていきます。しかし、大きな影響力を持つ発言者によって大多数が影響され賛成する、また、それに対する反対意見が必ずいるということも覚えておかなければなりません。日本の政治も同じです。日本の政治は本当に民主主義でしょうか。小選挙区で立候補者が1名だけ当選します。しかし地域ごとに得票数が違いますし、他の選挙区で落選した人が、他の選挙区で当選した人よりも得票数が多いということがあります。アメリカの大統領選で言えば、トランプ氏よりもクリントン氏の方が全体の得票数は多かったと言われています。それは選挙の結果が必ずしも大多数の意見となっていないかもしれないということ。反対意見の方が実際は多いことだってもしかしたら考え得ることだということです。
私たちクリスチャンはこの世のあてにならない主義主張によって生きているわけではありません。「聖書は何を言っているか」がクリスチャンの指針です。何度も語っておりますアモス書の「おもりなわ」です。おもりなわの先端は「聖書」を指しています。私たちは世の中の「民主主義的な主義主張」に流されてはいけません。
 

2.ジョン・ウェスレイ

彼はイギリス人で「メソジスト運動」と呼ばれる信仰覚醒運動を指導した人物です。この運動から生じたのがメソジスト派というプロテスタント教会であり、アメリカ合衆国・ヨーロッパ、アジアで大きな勢力をもつに至りました。特にアメリカではプロテスタント系で信徒数第2の教派です。聖化を強調し、『キリスト者の完全』を唱えました。これはウェスレー派のメソジストときよめを強調するホーリネスに継承されています。
ジョン・ウェスレイは今からおよそ300年前に生まれました。父は牧師のサムエル、母はスザンナで、両親は信仰に篤い人でした。なんと19人兄弟の11番目です。
厳格に育てられた彼はとても几帳面でした。その性格が後のメソジストへと繋がっていくことになります。
彼はオックスフォード大学で学ぶようになりました。29歳の時にはその大学の助教授となり、さらにイギリス国教会の司祭になりました。その頃、13番目の弟にチャールズ・ウエスレーがいるのですが、彼は多くの賛美歌を作っています。ジョンはこの弟と一緒に大学で新生クラブを始めました。毎週同じ時間、同じ場所に集まって祈り、自分たちが出来ることは何なのだろうかを話し合い、刑務所伝道、貧民に対する奉仕などを行いました。彼の几帳面な性格から周囲の人々に「几帳面・メソジスト」というあだ名がつけられ、そう呼ばれていました。
彼は1735年にアメリカのジョージア州(植民地)に宣教師として遣わされました。3年間働きましたが、その宣教はうまくいきませんでした。失意の中イギリスに戻りました。戻る船の中で彼は、自分に足りないものは何なのかと真剣に祈り求め、アメリカへ渡る船の中でモラビア(キリスト教の新しいグループ)の人たちの信仰を学ぶためにある町へ行きました。そこでの交わりや学びによって彼は変わりました。そこでのある礼拝に出席したとき、宗教改革をしたルターが著したローマ書講解の序文が読まれました。その時、彼の心の中にあたたかなものがこみ上げてきました。それは「人間の良い行いや厳格さとかではなく、ただキリストの恵みによって救われるのだ」という確信が与えられました。それがジョン・ウェスレーの回心の時となりました。それから88歳で召されるまで、4万2000回の説教をし、35万㎞の伝道旅行をしました。信仰書も50冊以上書いています。彼はとても忙しかったようです。そしてこのように言っています。「私はあまりにも忙しいので、一日6時間以上は祈らずにはいられなかった」彼は当時の移動手段であった馬に乗っているときでさえ祈っていました。
フランス革命は血が流された革命でした。しかしイギリスはフランスのように流血の改革に至らなかったのはウエスレー兄弟のリバイバル(信仰復興)の働きの結果だと評価されています。彼らの働きは用いられました。そしてメソジスト派の教会が増えていきました。
 

3.水が葡萄酒に変わるしるし

今週の聖句です。

「イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。」
(ヨハネ2:11)

「栄光を現す」とは、原語で「δόξα(ドクサ)」。栄光という意味ですが、元々の意味は「重い」です。そこから威厳とか光栄を意味することばになっていきました。
場所はガリラヤのカナン。カナンは弟子の一人ナタナエルの出身地でもありました。結婚式は、春の麦の収穫が終わった時期、そして秋のぶどうの収穫が終わった時期、この二つの時期が結婚式が行われる時期でした。結婚式は一週間続きました。花婿が正装をして花嫁の家に行きます。そして花嫁を連れて自分の家に連れて帰ります。マタイの福音書には「かしこいおとめ」の例えがあります。その箇所は当時の結婚式の様子が良く分かる箇所だと思います。この結婚式で葡萄酒が足りなくなってしまう。これは主催者側としてはとても恥ずかしいことでした。その中で今回の出来事が起こりました。
イエス様の母が登場しています。

ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません。」と言った。
(ヨハネ2:3)

これは主催者側の落ち度でした。マリヤの責任でもなければイエス様の責任でもありません。しかしその時、イエス様の母のマリヤには、息子のイエスに対して何かしらの期待があったようです。

すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」
(ヨハネ2:4)

イエス様はぶっきらぼうに言います。注意して下さい。イエス様はこれまで母マリヤに育てられ、バプテスマのヨハネの洗礼をもって公生涯を始められました。これから神の子としての伝道活動を始めようとされていた、その最初の出来事です。
イエス様はご自分の母に「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。」と仰いました。
関係はあったでしょう。マリヤに育てられたのですから。今の私たちにはなんと愛のない言い方かと思いますが、当時ではそうでもなかったようです。当時は母のことを「女の方」という言い方が普通だったようです。そして「わたしの時はまだ来ていない。」と仰いました。
しかしイエス様の中ではわたしの時が「来つつある」と感じておられました。そしてそれは、マリヤにとって子離れしなければならない時でした。マリヤのその心に留めていたイエスの誕生からこれまでの様々な出来事を思い起こしつつ、いよいよ十字架に向けて「心備え」が必要な時となりました。
その時、マリヤは自分の息子を「あの方」と言い、「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」と言いました。
そこには水がめが6つ置いてありました。日本でもそうでしたが、当時は水道なんてなく、台所には水を溜めておく水がめが置いてありました。その水がめを水で満たすように指示されました。

イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。《彼らは水がめを縁までいっぱいにした。
イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。
宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、――しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。――彼は、花婿を呼んで、
言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」
(ヨハネ2:7〜10)

世話役は花婿を褒めました。

イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。
(ヨハネ2:11)

弟子たちもこのことの目撃を通して、イエス・キリストという人を今まで以上に知ることとなりました。受け止めることになりました。今まで「主よ。先生。」と言ってイエス様に付き従ってきた彼らでしたが、しかし半信半疑でした。その思いをこの奇跡、イエス様が神の子であることのしるしを目撃することによって新たにされたことでしょう。
ここは奇跡というよりも、イエス・キリストが神の子であることの「しるし」でした。それをイエスの母も、弟子たちもここでイエス様が神の子であることを学んでいくわけです。
イエス様はこれから十字架に向けて、マリアから離れていくことになります。マリアにとっては、そういったことに対する心備えが必要な時となりました。

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