2017年6月11日 主日礼拝「聖霊降臨」

本日の聖書箇所

使徒の働き2章

説教題

「聖霊降臨」

今週の聖句

聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。

使徒の働き1章8節
 
 
訳してみましょう
1901 The power that compels us comes from the Spirit who indwells us.
(私たちを強くする力は、私たちの内に住む聖霊から来ます。)
1902 The power of God’s Spirit gives power to our witness.
(神の御霊の力は、私たちに証しの力を与えます。)
 
 

説教メモ

教会のカレンダーでは先週がペンテコステでした。私たちの教会では、今日、ペンテコステのメッセージをさせていただきます。
今週の聖句である使徒1章8節は、私は聖書の中で最も大切なみことばのひとつだと捉えております。皆さんにとってもそうであって欲しいと願っています。
先週はペテロのお話をしました。ペテロがイエス様を三度否認したこと。そのペテロに対し、イエス様がテベリヤの湖のほとりで三度「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」と迫ってくださったこと。それに対しペテロは感極まって涙ながらに「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」と答えたこと。
ペテロはペンテコステにあたって変化していきます。そのことを私たちは今日の箇所から見ることができます。あれほどペテロを変えたのは何だったのでしょうか。三年以上イエス様と一緒に伝道をし、多くの奇跡を目の当たりにしてきたペテロ。その彼が最後の場面において「私は知らない」とイエス様を否認した。背後にイエス様の祈りがあって彼は立ち直っていきます。その変わったペテロの姿を私たちはペンテコステの時に見ます。その原因はなんだったのでしょうか。それは聖霊の力です。

聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。
(使徒1:8)

皆さんはどのようにしてクリスチャンになったのでしょうか。絶望の中から求めたからでしょうか。一生懸命勉強したからですか。

ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。
(Ⅰコリント12:3)

私たちが一生懸命勉強しても、それでクリスチャンになれるわけではありません。神さまの御霊によるものなのです。自分の力ではありません。
ここで「力」と訳されているギリシャ語ですが、「Δύναμις(デュナミス)」となっています。ダイナマイトの語源となった言葉です。ダイナマイトとはどういうものでしょう。ものすごい爆発力、力があります。これが「聖霊の力」です。それによって私たちは変えられた。あの三度イエス様を否認したペテロが変えられたのです。そして力強いメッセージをしました。ペテロは聖霊の力によって変えられました。一生懸命勉強したからではありません。私たちがイエスは主であると告白できたのもそうです。中国のある共産党員は、クリスチャンを迫害するために聖書をすべて暗記するそうです。しかし知識があるからといってクリスチャンにはなりません。私たちが今クリスチャンであるのは、聖霊の力によるのです。
聖霊はどのようにして与えられたでしょうか。
イエス様が宣教のわざを弟子たちに託すにあたり、「助け主を送る」という約束をされました。三位一体の神さまの第三位格である聖霊、天地創造の始めから存在し、創造の御業に参画された聖霊。初めからおられ最後までおられる聖霊があった。
旧約聖書ではすべての人に聖霊が注がれていたのではありません。選ばれた特別な人物に注がれていました。それが新約の時代になり、今では「すべて望む者に聖霊が注がれている」のです。今は聖霊の時代です。
 

1.聖霊降臨のしるし

ペンテコステの時にこの聖霊が与えられました。
聖書を読んで行くと、聖霊が与えられた三つのしるしが記されています。

すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
(使徒2:2)

一つ目のしるしは「風」です。風と聞くと思い当たる聖書箇所があります。イエス様はかつてニコデモに対し「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」と仰り、ニコデモは「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」と答えました。それに対してイエス様は「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」とお語りになりました。

また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。
(使徒2:3)

二つ目のしるしは「炎」です。炎、火は神さまの御臨在を表す言葉です。モーセは燃える柴の中で主と会いました。シナイ山では主が火の中にあって山の上に降りて来られました。ペンテコステには聖霊なる神さまが弟子たち一人ひとりの上にお降りになりました。その結果、

すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。
(使徒2:4)

三つ目のしるしは「舌」「ことば」です。初代教会の弟子たちは一斉に他国の言葉で話し出しました。神さまのことばを自由に力強く語るのは聖霊の力です。ペテロが説教したのもこの聖霊の力によるものです。福音を語る力。証しする力。イエス・キリストを主と告白する力。無学な弟子たちに知恵あるメッセージを語らせたのも同じです。ペテロは神学校に行ったわけではありません。それなのにこれから見ますが、ヨエル書を引用したり、ダビデの言葉を引用したりと、立派な説教をしています。これは聖霊なる神さまが導いてくださったものです。
 
 

2.ペテロの説教

さて、「他国のことば」は異言とは違います。色々な地方からペンテコステのお祝いに来ていたユダヤ人たちがいました。地方に散らされていたために、ヘブル語やアラム語を話さないユダヤ人たちも多くいました。

私たちは、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、またメソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、
フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者たち、また滞在中のローマ人たちで、
ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレテ人とアラビヤ人なのに、あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。」
(使徒2:9〜11)

皆が驚きました。それぞれが分かる自分の国の言葉で語ったからです。
ところで、14節を見ると、
そこで、ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々にはっきりとこう言った。
(使徒2:14)
ペテロの説教と私たちは捉えていますが、ペテロだけではないのです。11人の弟子たちも語ったのです。
その後を見ますと、3000人が弟子に加えられたと書かれています。3000人の前でペテロ一人が語っても、全員が聞こえるでしょうか。拡声器もなかった時代です。ですから、ペテロだけではなく11人の弟子たちも人々の中に立って証しを語ったのでしょう。そして、弟子たちはあらゆる国から来ていた聴衆たちの、それぞれの国語で分かる言葉をもって語りました。弟子たちは自分たちが異国の言葉で語っていたことを分かっていたのか、分かっていなかったのか。それは私には分かりません。例えばペテロは、ヘブル語しか知らないのにこの時ローマの言葉で語っていたとしたら、ペテロ自身はは分かって語っていたのだろうかと思うのです。私はちょっと首をかしげます。神さまの聖霊がペテロをそのように導いてくださったのだと考えます。
 
14〜36節はペテロと使徒たちの説教の内容が書かれています。
 
聖霊のバプテスマはペンテコステの時に注がれ、イエス様が約束されていた通りに、確かに弟子たちに驚くべき力を与えました。あの日、捕らえられたイエス様を捨てて逃げてしまったペテロをはじめ使徒たち、そして弟子たち。イエス様との関係を探られ思わず否定してしまった弱いペテロ。そのペテロが堂々と人々の前に立って声を張り上げて説教をしました。そのように変えたのは聖霊の力でした。
 
ペテロはヨエル書を分かりやすく言い換えながら引用しました。ヨエル書は何を預言したかというと、すべての人に聖霊が注がれる時代が来るのだということでした。
これは、預言者ヨエルによって語られた事です。
『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。
その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。
また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。
主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。
しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』
(使徒2:16〜21)
終わりの日。それはイエス様がクリスマスの日にお生まれになってから、やがてイエス様が再臨されるその期間のことです。旧約の時代には、ある特定の人に特定の時に聖霊が注がれました。しかしこの時代にはすべての人に聖霊が注がれました。神の霊を受けた者は力が与えられ、そして語り出す。これが預言でした。
続いてペテロはイエス様の地上での働きを証しして、つい50日前に行われたイエス様の十字架の処刑と復活に言及していきます。そして、

神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です
(使徒2:32)

そこからイエス様の昇天について進めていきます。
 
イエス様が昇天されたからこそ、この時聖霊が注がれました。数々の証拠を述べて聖霊が降ることを説明したうえで、

ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
(使徒2:36)

と、ペテロは聴衆に迫っていくわけです。この言葉ひとつとっても、聖霊の力がペテロをいかに強くされたかが分かります。
4〜50日前、ペテロはイエス様を否定してしまいました。弱いペテロが急激に変わりました。人間的にそんな急激には変われません。それは聖霊の力でした。これを私たちは大切にしていかなければなりません。
私たちがクリスチャンになったのは、聖霊の力によるものです。「イエスは主である」と、聖霊の力によって告白できたのです。すべての人がそうなのです。それを気付いていないでクリスチャンになる方も多くいるかもしれません。
神さまは私たち人間の先祖、アダムをつくられたときに、「いのちの息吹を吹き込まれた」と創世記に記されております。それで人間は生きる者となったのです。他の被造物に対してはそのようなおことばは語られていません。人間にのみです。人間は生まれながらに霊的な存在として創造されました。人間だけが神さまを礼拝できます。神さまの霊を受け継げる力が与えられています。もともと霊的な生き物なのです。ただ悲しいことに、罪の力により内住する神さまの御霊が表に出てこないのです。イエス様を救い主として受け入れる、そこまで来ていません。多くの場合そうなのです。それが繋がるとき、その時聖霊が働かれる時なのです。神さまの聖霊と私たちが繋がる時、「イエスはキリストである」と私たちが告白できるその時なのです。そう意味で私たちは初めて生きる者へと変えられます。それが私たちの証しの力です。「デュナミス」ダイナマイトの力です。同じ聖霊の力がペテロに与えられてペテロは素晴らしい説教をしました。
 
 

3.エルサレム教会の誕生

37節からはエルサレムに教会が誕生する様子が記されています。
罪の悔い改めをしてバプテスマによって信仰を告白する者には賜物として聖霊が与えられる。この説教を受け入れた人、3000人がこの日弟子に加えられました。この3000人も一人ひとりが御霊によってイエス様の十字架と復活の証人となりました。
彼らは何をしていたのでしょうか。

そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。
(使徒2:42)

初代教会の特徴のひとつは、財産を共有していたことです。

信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。
(使徒2:44)

これは決して強制されたことではありません。救い主に対する信仰によって一つとされたという、自覚と喜びに基づく霊的一致がもたらした自発的な共同体でした。彼らはそれぞれの家で新しい契約を覚えてパンを裂き、礼拝の場としている宮の外庭にそうソロモンの廊にいた(使徒5:12)と書かれています。
感謝と賛美に満ちた生きた信仰は、当然のことながら周囲の人々に好感を与え、主は毎日救われる人々を仲間に加えてくださいました。
教会の誕生日でした。
 

霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。
(使徒1:8)

紆余曲折はありましたが、神さまの福音はこの地上の多くの国々に宣べ伝えられました。もう少しで地球上のすべての国々、全部族が自分たちが理解できる言葉で聖書を読めるときが来ます。

この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。
(マタイ24:14)

こうして終わりの日が来ます。ですから、もうしばらくで終わりの日が来ます。イエス様の再臨がそこまで来ていることを感じます。それまで私たちは証人として、神さまの霊、聖霊によってに励まされて行きましょう。そして「地の果てにまで、イエス様の証人になる」のです。これは皆さんが意気込んでしようとすることではありません。神さまの御霊に委ねていくことです。神さまの御霊が導いてくださるままに、私たちは証しをしていくのです。

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