2021年4月18日 主日礼拝「自覚と決意」

本日の聖書箇所

ローマ人への手紙6章1〜11節

説教題

「自覚と決意」

今週の聖句

それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。

ローマ人への手紙6章1節

訳してみましょう

2086 God’s tender mercy reaches beyond our ability to fathom and meets us in surprising places.

2087 Loving God, O thank You that one day You’ll wipe every tear from my eyes because You’re greater than every heartache or difficulty I’ll ever face.

礼拝式順序

開 祷
讃美歌  9番「ちからの主を」
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  151番「よろずの民よろこべや」
聖 書  ローマ人への手紙6章1〜1節
説 教  「自覚と決意」佐藤伝道師
讃美歌  199番「わが君イエスよ」
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷


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説教「自覚と決意」

ローマ人への手紙6章1〜11節

 お祈りします。

 天の父なる神さま、御名を崇め賛美致します。今朝もこのようにして礼拝に招かれ、その招きに応える者としてくださり感謝いたします。みことばを祝福してお与えください。今日語られるみことばから、お一人お一人、様々な状況の中におられますが、主はそのすべてをご存知でおられます。そして全能なる御力、イエス・キリストにあって父の愛の心をもって親しく臨んでくださっておられることを信じます。お一人お一人に本当に必要な、それぞれに対する御心を主がお示しくださいますよう、聖霊様が守り導いてくださいますようお願いをいたします。感謝して主キリスト・イエス様の御名を通してお祈り致します。アーメン

 現在、世界ではおよそ1,100万人の人が刑務所に収監されているそうです。世界で最も囚人が多い国がアメリカで、220万人にも上るそうです。毎日なんと73万人もの人が刑務所に入り、同じくらい罪をきちんと償って毎日釈放される人も大勢いるわけですが、残念なことに釈放された人の75%もの人は5年以内に再び刑務所に戻ってしまうのだそうです。聖書は人の罪に大小はないと言っています。私たちはたまたま刑務所に入れられていないだけなのかもしれません。法的に大罪を犯さなくとも、誰かの心を傷つけてしまったり、誰かの大切なものを盗んでしまったり。イエス様がマタイの福音書5章あたりで言われるには、それもさばきの対象なのです。さらに今見ているローマ書でも「すべての人は罪人である」と言っています。私たちもかつては罪人。現在は罪を赦されて、イエス・キリストが私たちに代わって罪を償ってくださって、自由になって新しいいのちを歩み出した者たちです。75%もの人が5年以内に再び刑務所に戻ってしまう。また罪の生活に戻ってしまう。アメリカの具体的な統計結果は、私たちに考えさせるものがあるのではないでしょうか。

 先週私たちは、アブラムとロトのところを通して、恵みの支配について確認しました。罪赦され、神の子とされ、神さまとの平和を頂き、神さまの恵みが私たちを支配している、神さまの恵みが私たちの人生の全体において、私たちを支え配慮してくださっている。だから私たちは行くべき道に関して選択を迫られる時、主との親しい交わりに止まっているならば、主が私たちの思いも行動も導いてくださるのだと信頼しているならば、どの方向に進もうとも、たとえ間違ってしまったとしても、全知全能なる主はそれさえも益として用いてくださる。その道の先ですでに主が祝福しようと待っておられ、迎えてくださる。まさに私たちの人生において、ますます恵みが増し加わって行くのです。それはやがて私たちが天の御国に迎え入れられるまで変わらないのです。それがイエス・キリストを通して神との平和を賜った者の幸いな姿です。その幸いな中をただ恵みによって歩まされているにもかかわらず、その恵みがいつしか当たり前のようになってしまうと、人というのは何やら悪いことを考え出してしまうようです。例えばアダムとエバのように、そこが神さまが用意してくださった最良の場所であっても、そこで神さまのみことばに背いてしまうのです。そしていつの時代であっても変わらずに聞こえてくる声があるのです。神さまの御心、神さまの祝福、神さまの約束を疑わせるような声が聞こえてくるのです。例えばそれはすでに3章でも言われていることですが、「善を現すために、悪をしようではないか」などという開き直り。「私がした悪は、善を現すために必要だったのだ」などという言い訳。

 信仰生活を重ねて行く中で、神さまの恵み、憐れみや赦しの経験をたくさん重ねていく中で、この声が一度も聞こえてこなかったと言える人は、果たしているのでしょうか。たとえかすかな小さな声であったとしても、その声に知らずして聞き続けてしまうならば、せっかく釈放された人の75%が再び罪の生活に自ら戻って行こうとしてしまうように、私たちもせっかく解放された罪の悲惨の生活に自ら戻って行こうとしてしまう、そのような者になってしまいます。イエス・キリストのいのちを犠牲にしてまでも私たちを罪から贖ってくださった神さまの愛に背くもの。私たちが進む道を祝福してくださろうとする神さまに背くもの。神さまを本当に悲しませてしまうことになるのではないでしょうか。私たちが再び罪によって苦しみ、悲しみ、痛みを覚え、涙を流してもがく姿。その姿を憐れみ、神さまはお心を痛めるのではないでしょうか。パウロは私たちが再び罪の悲惨な生活に戻ってしまうことのないように、そして神さまを悲しませることのないようにと、私たちに自覚と決意を促すのです。

6章1節      それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。

 絶対にそんなことはないのだと、強い口調できっぱりと退けています。汚れた服を洗うと気分が良くなるので、そのためにわざと大切な服を汚そうなどと愚かな考え方をする人はほとんどいないでしょう。

 「罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう」。訳し方を変えると、「生きるべきでしょうか」との私たちに対する問いかけとなります。それに答えるためには、2節に出てきた「罪に対して死んだ私たち」「私たちは罪に対して死んだ者である」ということについてもう一度確認し、そしてはっきりと自覚しなければなりません。

6章3節      それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。

 バプテスマとは何でしょうか。私たちは良く知っています。「あなたがたは知らないのですか」「受けたのではありませんか」とパウロが手紙の読者に問うていますが、当時の教会でもバプテスマ、洗礼がどういった方法によるものであって、どういった意味が込められているのかは良く知られていました。しかしここでパウロは重ねて確認するように説明するのです。

 「キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たち」。原文を直訳すると「キリスト・イエスへとバプテスマされた私たち」です。不思議でどこか神秘的な言い回しです。「キリスト・イエスへとバプテスマされた私たち」というのは、私たちはキリスト・イエスの中へと深く沈められたということ。つまりキリストと一体とされたということです。ローマ書のプロトタイプであるガラテヤ書ではこのように言われています。「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです」(ガラ327)。まさに神秘、神さまの秘技、神さまが人を罪から完全に救うために定められた方法、神さまにしか出来ないみわざです。人知を超える出来事、目に見えない霊的な出来事ですから、人間はただ信仰によって、また聖霊なる神さまの助けをいただいて受け取るしかないのです。

 キリストの中に深く沈められ、キリストと完全に一体とされた私たちの身に何が起こったのか。キリストの死がそのまま私たちの死となりました。
 十字架上で苦しまれ死なれたのはキリストおひとりでした。私たちまでが実際に十字架上で一緒に苦しみ死んだのではありません。キリストが私たちすべての者のために代わって死んでくださったのです。私たちがまだ罪人であったとき、その罪の悲惨さを本当に理解していなかった私たちに代わって、罪と真っ向から戦われ、血を流し苦しまれるほどに罪と戦われ、死なれたのです。私たちはイエス様が味わわれた全く同じ苦しみ、死を経験したでしょうか。私たちはキリストの死にただ与った者たちです。ただ恵みによって救われた幸いな者たちです。

6章4節      私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリスト・イエスが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。

 私たちはバプテスマされ、キリストと一体とされたことにより、キリストの死にあずかり、キリストとともに葬られた、つまり完全に死んだ者とされました。
 なぜ完全に死ななければならなかったのでしょう。私たちが罪に完全に死ぬことによって、神さまによって完全に新しいいのちが与えられ、完全に新しい歩みをすることができるようになるためです。罪の子、暗闇の子であった私たちが完全に死んで、神の子、光の子としてまったく新しく創造され、生まれ、生きる者とされて、全く新しく歩み出す。

 自分を変えたい、全く新しい自分となって歩み出したい。恐らく信仰に入られた方々は、最初はみなそう願われていたのではないでしょうか。もしかしたら人生観を変えたり、社会に対する生活の仕方を変更したい、その程度にしか考えていなかったのかもしれません。しかし神さまは神さまを求める者の本当の求めというものをご存知です。私たちが考える以上に罪の影響力が大きいこと、罪がもたらす悲惨さをご存知です。私たちが考える以上のはるかに素晴らしい救い、罪からの解放、イエス・キリストによる救い、永遠のいのち、全く新しい人生を与えてくださいました。私たちはそのような人生をすでに歩かせて頂いているのです。そのような者なのです。

 3節、4節は、私たちが覚えておくべき、自覚しておくべき、私たちの身にすでに起こった目に見えない霊的な出来事が記されました。5節からは、今、そしてこれからの歩みにおいて何よりも大切なこと、目に見えない霊的な出来事、自覚しておくべきことが記されているように思います。

 5節に、キリストに「つぎ合わされて」とありますが、その意味を調べると「一緒に成長する」「団結する」となっていました。これはヨハネの福音書15章のみことばを思い起こさせます。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」。そして「もし」と仮定しています。もし私たちがキリストとしっかりと団結しているなら、私たちはキリストにあって成長していくのです。

 成長はゆっくりとしたもの、また時間の経過というものを思い起こさせます。私たちは新しく歩み出したその道で、ゆっくりと時間とともに成長させられ、良い実を結んでいくのです。けれどもその道の途中で、私たちはキリストとつぎ合わされていてようやく成長してきたのに、その恵みを忘れてまるでひとりで成長したかのような、一人でうまくやってきたかのような、やっていけるのではないかという勘違いを起こして失敗してしまう者です。しかし慰めがあります。私たちはキリストの死と同じようになっている、罪に対しては死んでいるのですから、必ずキリストの復活とも同じようになるのです。完全な復活は終わりの日です。それまでに何度も失敗し倒れそうになるけれども、何度でもそこから立ち上がり、生き直す、やり直すことができる力に与っているのです。

 6節には「滅びて」とありますが、これは「無力、無能にされて」という意味です。また罪というのは、一つ一つの違反ではなく、力、影響力といったものです。その罪の力、影響力はすでに私たちに対して無力、無能とされています。私たちを罪の奴隷として縛り付けておく能力はなくなっているのです。私たちは再び罪を犯してしまうかもしれません。しかし罪にいつまでも縛り付けられなくても良いのです。私たちは罪を犯さなくても良い自由が与えられているのです。「死んでしまった者は、罪から解放されている」からです。

 ここに「解放」というところに法律用語が使われています。それは牢獄からの解放、刑務所からの釈放を思わせないでしょうか。

6章8節      もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。

 パウロは「信じます」と自らの強い決意を述べているように見えます。

 最初に釈放された75%もの人が5年以内に再び刑務所に戻ってしまうことを言いましたけれども、例えば任侠映画で、親分の出所に子分たちが刑務所の玄関前にずらっと並んで、「お勤めご苦労さまです」と挨拶して、出所した親分が子分たちと一緒に罪の生活に戻っていく。そんな定番シナリオがありますが、私たちの場合はどうなるでしょうか。罪を犯し、死刑宣告を受け、刑務所の中で執行を待っていたところ、突然無罪とされて釈放された。玄関に迎えに来ているのは、私たちを無罪とし釈放させるために、身代わりに罪を負い処刑された方、復活の主。一度は死んだも同然、けれども奇跡のような恵みによって釈放された私たちは、このお方とともにそこから全く新しい人生を歩んで行くのです。

 私たちが主の贖いによって死刑を免れ釈放されたのは、私たちが実際に死ぬことなくキリストの死に与り、新しいいのちまでも与えられた、そのような恵みが注がれたのは、決して罪の生活に戻るためではなく、正しい生活をするためなのです。罪の悲惨な人生ではなく、恵みに満ちた幸いな人生を生きるためです。イエス様と一緒に歩む幸いな、祝福された、恵みが支配する道が目の前に開けているのに、どうしてまた罪によって苦しみ、悲しみ、痛めつけられ、もがく、そんな道に自ら進むことなどできるでしょうか。

 パウロは8節で「信じます」と自身の決意を紹介し、9節からこれまでの結論を述べ、そして読者である私たちに対して「思いなさい」と勧めています。新しい訳では「認めなさい」となっています。私たちが判断し、そして認めなさい、賛成しなさい、信じなさい、信仰によってアーメンと答えなさいと。

 キリストの死と復活が、私たちの新しいいのちの基礎であることを認めましょう。私たちはキリストの死に与り、罪に対しては死んだ者となった。私たちはキリストの死者からの復活に与り、新しい永遠のいのちが与えられ、全く新しくされ、神に対しては生きる者とされている。キリストによって死に、キリストによって生かされている。それは決して当たり前のことではなく、大きな愛と犠牲の上に成り立っているのだということを自ら覚えて認めるのです。信仰をもって心から認める時、感謝する時、私たちは再び悲惨で恐ろしい罪の奴隷としての人生に戻ってしまうことはないでしょう。幸いな歩みを続けることができるのです。私たちはそのような幸いな人生を歩むのだと、決意するのです。アーメンと応えるのです。「アーメン」は私たちの信仰告白です。信じますということです。アーメンと認めることによって、自分自身を倒れないようにしっかりと支えるのです。しっかりと信仰に立たせるのです。神さまの約束のみことばの上にしっかりと立ち続けるのです。日々、主と親しく交わり、弱さを告白して、今、私はどれほど幸いな中にいるのかを覚えさせていただきましょう。最後には聖霊なる神さまに助けていただいてアーメンと認め、日々自分自身をしっかりと支え、幸いな人生、神さまに喜んでいただける正しい道を歩み続けるのだという決意表明をさせていただきましょう。そのようにして実際に、主に導かれ、祝福される幸いな道を歩み続けさせていただきましょう。

 お祈りを致します。
 天の父なる神さま、御名を崇め賛美致します。みことばを感謝いたします。今の私たちが置かれている幸いな状況を覚えます。イエス様によって罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。しかし神さまの恵み、祝福が当たり前のようになってしまう時、私たちはその思いが薄れてしまいます。日々あなたとの親しい交わりの時間の中で、恵みを一つ一つ数え確認し、また自分の弱さをも認め、幸いな道を脇道にそれることなく歩み続けることができますようにお守りください。神さまを悲しませるのではなく、喜んでいただける歩みができますように。感謝してキリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。

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