2021年4月25日 主日礼拝「手足を神にささげる」

礼拝式順序

礼拝前賛美
(賛美をもって神の前に進み、礼拝へと心を整えましょう。)
 ※伴奏&歌詞の動画あり↓↓↓
報 告

【ここからライブ配信】10時40分頃〜↑↑↑
開 祷
讃美歌  6番「われら主を」
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  365番「わが主イエスよ」
聖 書  ローマ人への手紙6章12〜14節
説 教  「手足を神にささげる」佐藤伝道師
讃美歌  391番「ナルドの壷ならねど」
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷


本日の聖書箇所

ローマ人への手紙6章12〜14節

説教題

「手足を神にささげる」

今週の聖句

むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。

ローマ人への手紙6章13b節

訳してみましょう

2088 Have you eaten from the tree that I commanded you not to eat from?

2089 Father, don’t let me forget the price it cost Your Son to undo the curse we set in motion way back in the garden of Eden. All I can say is thank You. All I can give You is my life.

説教「手足をささげる」

ローマ人への手紙6章12〜14節

 お祈り致します。

 天の父なる神さま、御名を崇めて賛美致します。過ぐる一週間も私たちを恵みによって支え配慮してくださり、守り導かれてまいりましたことを感謝いたします。そして今朝もこうして主を礼拝するために御前に集めてくださり感謝致します。コロナ禍にあって、再び以前とは違う集められ方となってはおりますが、それでも私たちを教会として、主のからだとして、憐れみをもって、また喜びをもって見てくださっておられることを信じ感謝致します。この会堂で、またインターネットを通して、時を同じくして信仰をもって御前に集っておられるお一人お一人をどうぞ祝福してください。みことばに教えられ、みことばに慰められ励まされ、そしてますます主が用いられる器として私たちを整えてくださいますように。あなたを褒め称え、賛美する者となって、またそれぞれに任された場所場所へと送り出してくださり、その場その場で豊かに自分自身と、また隣人の内に良い実を結ばせる者としてくださいますようにお願いを致します。感謝して主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。

 前回は、イエス様を信じ、その賜物として、恵みによってイエス様と完全に一体とさせられているあなたがたは、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい、認めなさいと言われたところでした。アーメンと認めて、その信仰によって自分自身をしっかりと支えなさいと、パウロを通して神のみことばである聖書は私たちに命じたと申しますか、強く勧めたのでした。

 今日の箇所では、さらに具体的な勧めがされています。注意しておきたいところは、前回の勧めもそうですが、今朝のところもまた、決して私たちが救われるための条件ではないということ。私たちの良い行いでは決して救われることはありません。救いはただイエス・キリストを通して与えられる神さまからの恵みの賜物です。その救いという素晴らしい恵みの賜物、びっくりするほどのプレゼントをいただいた者に対する勧めです。「だから、私たちはこうしましょう、こう生きて行きましょうよ」という、神さまの愛に応えようとするパウロの溢れんばかりの思いが込められて、そんな強い思いが強い勧めに、命令のようになってしまったのでしょうか。それは私たちに向けた具体的な励まし、そして神さまを愛することへの強い招きではないかと思います。命令のように駄目とか、しろとか、しなさいなどと言われるとつい反発したくなるのが人間ですが、そうではないのだということを覚えつつ、みことばに聞きたいと願います。

6章12節      ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。

 「死ぬべきからだ」とあります。私たちは永遠のいのちがすでに与えられており、永遠に生きる者とされているのではありませんか。それなのにここで「死ぬべきからだ」と言われています。この地上にあっては、私たちは死に定められています。この世にあっては、いつかは必ず死ぬからだです。ですからここは、この世でのいのち、この地上での限られた人生ということでしょう。この世でのいのちの積み重ね、それが毎日の地上での生活の積み重ねであって、それが人の生「人生」ということです。私たちの人生を罪の支配にゆだねてはならない、わが身を罪に任せてしまってはならないのです。私たちは自分自身の性格を見ると気付かされます。常に罪に傾きやすい者ではありませんか。罪から解放されているにもかかわらず、油断するとつい罪に引きつけられてしまう者ではありませんか。油断とは油が断たれると書きます。聖書で油は聖霊を指しています。私たちはいつも聖霊に満たされて、聖霊によって教えられ、思い起こさせられて、認め続けていないと、ついつい罪にわが身をゆだねてしまうものです。罪に目が奪われ、そしてサッと心までも奪われてしまうのです。その結果、情欲に従ってしまうのです。

 情欲というと、何か性的な満足を得るための肉体的な欲望といったものを思い起こすかもしれません。確かに情欲という言葉の意味にそれがあります。けれどもここではもう一つの意味として、誰もが持っている世俗的な欲望、世間一般に見られる欲望、この世的な欲望のことを言っています。私たちは以前ホセア書で学びましたが覚えておられるでしょうか。心の欲望、もっともっとという欲、不足を感じてこれを満たそうと強く望むその心、この世間一般に見られる貪りはそのまま偶像礼拝、霊的姦淫なのです。旧約聖書では、例えば豊穣の神バアル礼拝。豊穣を願う神々は私たちの周りにもたくさんあります。貪り、霊的姦淫は本当に気をつけるべきことです。

 ヨハネのことばに聞きましょう。

【ヨハネの手紙第一 2章15〜17節】
2章15節      あなたがたは世も世にあるものも、愛してはいけません。もしだれかが世を愛しているなら、その人のうちに御父の愛はありません。
2章16節      すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。
2章17節      世と、世の欲は過ぎ去ります。しかし、神のみこころを行うものは永遠に生き続けます。

 弱い私たちは常に聖霊に満たされていなければなりません。終末を生きる私たちは、あの花婿を迎える賢い乙女たちのように、聖霊の油を絶やしてはならないのです。どうすれば良いのでしょうか。パウロはさらにもう一つのことを強く勧めます。

6章13節      また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。

 少し言葉の説明になってしまうのですが、重要なところですので細かく見てみたいと思います。まず「手足」とありますが、新共同訳は「五体」と訳しています。五体満足の五体です。頭と両手両足。転じて体全体という意味にもなります。私たちは頭で考えて、手を動かして何かをしますし、足を使って自分の思う方向に進んでいきます。次に「器」とありますが、こちらも新共同訳、さらに新改訳2017でも「道具」と訳されています。そして「ささげる」と訳されている語ですが、これは「提供する」「与える」ということです。すると13節はこのようにも訳せると思います。「あなたがたの体を不義、正しくないことを考え行うための道具として、罪に提供してはいけません。罪のために使わせてはならない。むしろ、キリストとともに死者の中から生かされた者として、あなたがた全てを正しいことを考え行うための道具として神に提供しなさい。神に用いていただきなさい」。パウロは別の手紙でもこのように言ってます。「あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい」(Ⅰコリ1031)。

 キリストの死に与り、キリストの復活に与った私たちの体は神さまに提供するのが一番良いのです。罪に傾きやすい私たちの考え、そして実際の行動というのは、私たちの能力によっては正しく使いこなすことができません。ですから、神さまに委ねて、お任せして、神さまに正しく使っていただくのが私たち自身にとっても一番良いことなのです。最善なのです。

 それは何故かと申しますと、神さまは私たち一人ひとりをご計画をもって救い、生きる者とされ、ご自身のものとして召してくださいました。私たちに御心をお持ちなのです。K兄がいつも私たちに示してくださるみことばがあります。「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」(エレ2911)。この御心を私たち一人ひとりにお持ちなのです。すべて最善をご存知なのです。この神さまに私たちのすべてを委ねて、お任せして、用いていただくのが私たちにとって一番良いのです。この神さまの御心に抵抗する時、逆らう時に、私たちは神さまと戦っている訳ですから疲れ切ってしまいます。平安もありません。もし今、お疲れであるならば、重荷を負っていると感じておられるならば、パウロの勧めに従って神さまに私たちのすべてを提供、差し出してみてはいかがでしょう。

 さらにこの「ささげる」と訳されている語なのですが、他に「横に置く、そばに立つ」などという意味をも持つ語なのです。ここにも重要な勧めがあります。私たち人間というものは、私たちのすぐ近くにあるものに引きつけられ、そのことばかり考えてしまったり、また実際にそれを用いたりしてしまうものではないでしょうか。「あなたがたの手足を不義の道具として罪の横に置いてはいけません。罪のそばに立ってはいけません」。

 以前テレビの何かの番組の中でこのような実験が行われていました。学生を集めて3つのグループに分けて集中力をはかるというものでした。Aグループはスマホを伏せて机の上の脇、試験中も見える所に置いておいたグループ。Bグループはスマホをポケットに入れておいたグループ。Cグループはスマホを隣の部屋に置いておいたグループ。それで同じ数学のテストを行いました。結果は明らかでした。最も集中力がなかったのはAグループ。最も集中力を発揮したのはCグループ。スマホがふっと視界に入ってしまったら、またたとえ自分の視界に入れないよう努力したとしても、脳がスマホを感じてついつい気にしてしまうそうです。そしてそれはスマホが近くにあると思えば思うほど顕著なのだという実験結果でした。スマホを隣の部屋に置いた人は、試験中に取りに行けないと諦めたからテストに集中できたのかもしれません。

 また、健康を気遣って甘いものを断っていたとしましょう。目の前に大好きなケーキが視界に入って来たらどうしますか。ケーキをじっと見つめながら「主よ、私がこれを食べないようにしてください」と祈るでしょうか。それも大切かもしれません。けれども「1個くらい」とか「明日から」とか「たまには甘いものを食べなければ体に悪い」「神さまもそう仰っているだろう」などという考えがふっと頭をかすめて、気がつけばケーキの方に近づいて行って、手に取って口に運んでしまうなんてことは良くありそうなことです。ケーキならまだ良いですが、それが罪だとしたら。

 そんな誘惑に勝つにはどうすれば良いのでしょうか。一番確実なのは、出来るだけ遠ざけてしまえば良いのです。近づかなければ良いのです。逃げてしまえば良いのではないでしょうか。これが不義の器、道具として手足を罪にささげてはいけない、罪を横に置いてはならない、そばに立ってはいけないということです。

 けれども同時に私たちは、私たちの体を義の器、道具としてささげることができます。私たちの手足、五体、頭と両手両足を神さまの横に置く、神さまのそばに意識的に立たせるのです。そうすれば私たちのからだを神さまが良いことのために用いてくださる。私たちも神さまから良い影響を受けて、罪の支配、誘惑に打ち勝つことができます。罪がもたらす苦しみや痛み、悲しみ、それこそ自分は死んでしまうのではないだろうかと思ってしまうほどのこと、すべてから守られます。

 さらにもう一つ、「器」という語に関してですが、これには「楽器」という意味があります。この「楽器」、そして「ささげる」という礼拝用語を感じさせる語を聞いて、思い起こす詩篇があります。楽器がたくさん登場します。どの詩篇か分かりますか。

【詩篇150篇】
150篇3節   角笛を吹き鳴らして、神をほめたたえよ。
150篇4節   タンバリンと踊りをもって、神をほめたたえよ。緒琴と笛とで、神をほめたたえよ。
150篇5節   音の高いシンバルで、神をほめたたえよ。鳴り響くシンバルで、神をほめたたえよ。
150篇6節   息のあるものはみな、主をほめたたえよ。ハレルヤ。

 ここでは色々な楽器を用いて賛美するように勧められています。ではローマ書6章13節では何と言っているでしょう。「楽器、賛美を罪にささげてはいけません。神さまにささげなさい」。

 イエス・キリストの十字架と復活によって、神さまのもの凄い犠牲、愛によって罪から救われた、罪から解放された私たちは、どの相手を賛美するのでしょうか。誰を褒め称えるべきでしょうか。誰を慕い求め、誰を愛するべきでしょうか。罪でしょうか。もちろん神さまでしょう。「むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい」(ロマ613b)と言われている通りです。

 死者の中から生かされた者。罪に悩まされ、苦しめられ、まるでほとんど死んでいた私たちが、イエス・キリストの十字架の死と復活に与り、再び生きる者とされたのです。

 大病を患って、もう助からないと思っていた人が奇跡的に癒やされて、再び生かされた時、何て言うでしょうか。あるいはもう助からないほどの大きな事故に遭ったにもかかわらず、奇跡的に命拾いした人は、何て言うでしょうか。「せっかくもう一度与えられた人生だから」とか、「おまけのような人生だから」などと言って、人生を謳歌しよう、世のため人の為に生きようと決意したなどという話しを良く聞くのではないでしょうか。その台詞は、救われた私たちこそ言うべき台詞ではないでしょうか。せっかくもう一度与えられた人生だから謳歌しよう、神さまの栄光を現すために生きようと言うのではないでしょうか。せっかくもう一度与えられた人生。それはおまけのような人生ではありません。ご褒美の人生です。神さまからの賜物、プレゼントです。私たち自身、神さまのために何も良いことなどしていないのに、イエス・キリストを信じるただその信仰によって、新しい人生がプレゼントされたのです。この人生を、私たちは感謝して、喜んで、主にお仕えするものとしようではありませんか。主とともに歩き、色々な楽器、道具を用いて主を賛美し、歌いつつ歩んで行こうではありませんか。罪に満ちたこの世です。そこでの歩みです。「主よ。私はイエス様とともに十字架につけられ、罪ある私は死にました。残された人生を、この手足を義の器としてささげます」と、日々心から祈りながら、どうぞ神さまからの賜物、ご褒美の人生を歩まれてください。これがパウロを通して語られる、主からの私たちに対する強い勧めです。

 その確かな根拠として、パウロはこう言います。

6章14節      というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。

 そうです。私たちの人生は、神さまの恵みが支配しているのです。神さまの恵みが私たちを支え、配慮してくださっているのです。今、苦しみ悲しまれているかもしれませんが、それは私たちが罪を犯した罰ではなく、神さまの恵みの中で起こっていることを覚えたいと思います。私たちは今の目の前のことしか見えません。苦しい現実の中で神さまの恵みが分からない時は、どうぞ神さまのすぐそばに自分を置いて、立たせて、「恵みが分かるようにしてください」と祈ってみてください。主は私たちと同じ所に立って、そして私たちの手をとって色々なことを優しく教え、導いてくださいます。

 お祈り致します。
 愛する天の父なる神さま、御名を崇め心から賛美致します。神さま、あなたから与えられたこの地上での人生、ご褒美の人生を、主とともに歩み、主とともに喜び、主の栄光を人々の間で輝かせていく幸いなものとしてください。そのようなものとすでにされていることを感謝致します。聖霊様がいつも私たちに満ちていてくださって、霊的に目を覚まし、神さまから目を離して罪に心を奪われてしまうことがないようにお守りください。感謝して主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

コメントを残す