2021年11月21日 主日礼拝「ねたみによって」
礼拝式順序
礼拝前賛美
報 告
【ここからライブ配信】10時50分頃〜↑↑↑
開 祷
讃美歌 15番「我らのみかみは」
主の祈り 564番「天にまします」(参照)
使徒信条 566番「我は天地の」(参照)
讃美歌 249番「われつみびとの」
聖 書 ローマ人への手紙11章11〜15節
説 教 「ねたみによって」佐藤伝道師
讃美歌 389番「敵を愛せよとの」
献 金 547番「いまささぐる」
頌 栄 541番「父、み子、みたまの」
祝 祷
本日の聖書箇所
ローマ人への手紙11章11〜15節
説教題
「ねたみによって」
今週の聖句
そして、それによって何とか私の同国人にねたみを引き起こさせて、その中の幾人でも救おうと願っているのです。
ローマ人への手紙11章14節
訳してみましょう
2148 Let the morning bring me word of your unfailing love.
2149 Loving God, thank You for showing me how to believe in love and joy again. Help me to be a channel of that hope for others.
説教「ねたみによって」
ローマ人への手紙11章11〜15節
お祈り致します。
天の父なる神さま、御名を崇め賛美致します。今日まで私たち一人ひとりを、また教会を守り導いてくださり感謝致します。この朝も、このようにして私たちを御前に呼び集めてくださり、主に礼拝をお献げできる者とされていることをありがとうございます。様々な都合によって集えない方々もおられますが、それぞれの所で献げられる礼拝をどうぞ祝福してください。今朝もみことばを祝福して私たちにお与えください。みことばと共に働かれる聖霊様が満ちていてくださり、みことばを通して主と親しく交わり、それぞれに語りかけられる御声に聞くことができますよう、心と身体を聖めてくださいますようにお願いを致します。主が私たちのうちに、みことばの実を結ばせてくださいますようにお願いを致します。語るこの者の上にも臨んでくださり、罪を聖め、聖別してくださって、恵みとあわれみによってあなたの御用のためにお用いください。感謝して主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。
皆さんは、誰かにねたまれて、憎まれて、怒りを買ってしまったなどという経験はありますか。自分の知らない所で、あまり知らない人にねたまれたり、憎まれていたりしても、もしかしたらさほどダメージはないかもしれません。けれどもその相手が、自分と近い関係の人、自分の愛する人だったとしたらどうでしょうか。例えば友だちとか、もっと近い家族からねたまれ、憎まれ、それがもの凄い自分に対する怒りとなって、自分はムカつかれているのだ、嫌われているのだと、そう知った時の苦しみはいかばかりかと思います。悲しいことで、辛いことで、決して喜べるものではありません。もしかしたら中には、自分は人にねたまれるほど凄いのだと優越感に浸れる強靱な方がおられるかもしれませんが、普通は自分に対して怒っている人には、怒りを持って報復してしまうのが私たちではないでしょうか。それで関係がなおさらこじれてしまうのです。
今朝与えられましたみことば、ローマ書11章11節からのところでパウロは、「自分は異邦人への使徒であって、自分の務めを重んじている」と言っています。それはどのような意味なのでしょうか。今日の箇所はたった5節ですけれども、見て行くとなかなか深いものがあるところだと思わされます。パウロの深い考え、それは決してパウロが勝手に考え出したものではなく、聖霊によって示されたもので、またイエス・キリストの福音の光を当てて見る旧約聖書のみことばの証言から見いだした神さまのみこころでした。広くて長くて高い、そして深い神さまの壮大なみこころ、ご計画について、パウロはますます熱を帯びて語っていることが分かってきます。
11章11節 では、尋ねましょう。彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです。
11節は、原文をみると確かにこのように訳せる文法ではありますが、パウロが9章からここまでの長い文脈の中で言いたいことは、新共同訳の訳の方がより良く伝わると私は思います。
【新共同訳】
11章11節 では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。
ちなみに、イスラエル、ユダヤ人と言っていますが、これは以前にも触れたところですが、イスラエルは国家、国、国籍を表す時に使われます。そしてユダヤは、民族(人種)を表す時に使われます。ローマ書9章からはイスラエルについて語られていますが、ここでのイスラエルは、福音を信じていない、イエス・キリストを信じて救われていないユダヤ人を、一つの大きな集団として指す呼び方と考えても良いでしょう。
ユダヤ人の中にもわずかではありましたが、イエス様を信じる人たちがいました。しかしここではイスラエルが、ユダヤ人がつまずいて倒れてしまったと言われています。神さまは一つの大きな集団、共同体として私たちを見ておられる。これはとても重要なことです。イエス様は言われました。「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる」(マタ545)。また、私たちはからだ全体の一器官で、一部分が苦しむと全体が苦しみ、一部分が尊ばれれば全体がともに喜ぶのだとも言われています(Ⅰコリ1326)。私たちの信仰告白では「我は」と個人の信仰告白をしつつ、イエス様が教えてくださった主の祈りでは「我らの」と、共同体として祈ります。なぜでしょうか。これはとても重要なことですので、どこかで覚えておいていただきたいと思います。
脇に逸れてしまいましたが、11節からも、「ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか」と少し言い方を変えて、実はこれまでと全く同じ質問が繰り返されているのです。普通、倒れたらまた起き上がるものですが、ここでは「倒れたらもう二度と起き上がれない」という強い言葉が使われています。イスラエル、大半のユダヤ人はイエス・キリストを拒否した、神さまの福音をかたくなに拒否したということは、イスラエルが修復不可能なほどまでに倒れてしまったということなのか。その答えも同じで「絶対にそんなことはありません」です。決してそうではない! 彼らが倒れて、それでお終いなのでは決してない! 神さまの人類救済プログラムの通りに救いは完成に向かっている。実際に今、あなたたちはそれをその目で見ているのだと。すごい時代に、あなたたちは恵みによって生かされているのだよと、あなたたちと無関係ではないのだよと、そうパウロは読者に言っているようです。
その神さまの人類救済プログラムは11節後半になります。ユダヤ人がつまずく。それはメシヤ・救い主イエス・キリストの拒否。福音の拒否でした。それで福音が異邦人にもたらされ、異邦人が次々と救われる、神さまに義とされる結果になりました。神さまの義はイスラエルがこれまで必死に自分のものにしたいと頑張ってきたものです。それでイスラエルがねたみを起こします。今の時代はこのあたりでしょう。そして最終的にイスラエルが救われるのだというものです。この救済プログラムはすでに10章19節で明らかにされていました。パウロは旧約聖書の申命記(3221)から引用しており、この救済プログラムははるか昔から神さまによって立てられていたものに間違いはないのです。「わたしも、民ではないもので、彼らのねたみを引き起こし、愚かな国民で、彼らの怒りを燃えさせよう」。パウロは何度も神さまが示されたプログラムを確認するのです。何故でしょうか。わずかなユダヤ人クリスチャン、そして私たち異邦人クリスチャンにとっても、大変重要で大切なことで、私たちの救いにも大きく関わって来ることだからです。その答えはもう少し先になります。
さて、ここで思い起こしたいのは、ルカの福音書15章のイエス様がお話しされた「放蕩息子」のたとえ話です。ルカの福音書15章11節から始まる物語りです。ローマ書では何度も放蕩息子のところを思い起こしていますけれども、すでによくご存知の物語りですので詳しくは取り上げませんが、ある家族があって、兄弟がいて、弟の方は悪い子になってしまい、父親に反抗しました。父のもとを離れて異邦人の所へ行きました。そこでボロボロになって父のもとに帰って来た。父はそんな弟息子のすべてを無条件で受け入れました。そして肥えた子牛を屠って大宴会を開きました。一方の兄はずっと父親の側にいました。父のもとで一生懸命、真面目に額に汗して文句も言わずに働いていました。それに比べて、自由気ままに生きて、勝手にボロボロになって、それで帰って来て、そんな弟を父は喜んで迎え受け入れた。弟は父のために何もしていないのに。何一つ頑張っていないのに。兄は弟をねたんで当たり前でしょう。神さまとともにいながら、心は神さまから遠く離れていた人。なっていないと思っていた人が、あんなにひどい罪を犯した人が、神さまから遠く離れていた人が、何もせずにただ神さまに愛されて、赦されて、受け入れられている。神さまの一番近くで頑張っていた人が、ねたみに燃えてしまうことは想像に難くないと思います。
【ルカの福音書】
15章29節 しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちの楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。
15章30節 それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』
15章31節 父は彼に言った。『子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。
15章32節 だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」
この後、兄はどうなったのでしょうか。イエス様はその結末について語られていませんが、イエス様はここでは、いつか家族全員が救われるように、イスラエルが「全体として」救われるのだ、救われなければならないのだということをも教えてくださっているところです。神さまは救いをただ個人のものとはしておられません。同時に罪も個人のものとはしておられません。1匹の羊が囲いから出て行って行方不明になったら、主はその群れ全体が失われたものとして悲しまれ、いなくなった1匹を必死に探すのです。私たちの救いも個人の救いで終わるものではありません。神さまはすべての人が救われることを望んでおられるのです(Ⅰテモ24)。
放蕩息子の兄が、その後どのようにして父と和解していくのか、救われるのかは記されていません。同じように、イスラエル、救われていないユダヤ人のねがみがどのような過程を通って、どのように変えられて救いに導かれるのか。そのことについて聖書は語りません。きっと一人ひとり違った形で、神さまがあわれみをもってお取り扱いくださるのでしょう。救いは神さまの恵みによるものです。神さまは「ご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる」(ロマ828)お方。神さまは「人をみこころのままにあわれに、またみこころのままにかたくなにされる」(ロマ918)お方。この神さまが恵みによって、一人ひとりを救ってくださるのです。
「ねたみを起こさせる」というギリシャ語は「παραζηλῶσαι・パラゼーローサイ)」。パラとゼーローサイの合成語です。パラとは「側にいる」、ゼーローサイが「嫉妬させる」です。教会が、クリスチャンがイスラエルのすぐ側にいて、隣人のすぐ側にいて、彼らに嫉妬心を起こさせる。これも役割の一つのようです。私たち(私たちの心)は彼らのすぐ側にいるでしょうか。ちゃんと嫉妬心を起こさせているでしょうか。私たちが信仰による救い、恵みによる救いを心から喜んで、ちゃんと彼らにねたまれているでしょうか。私たちが彼らを、救われていない隣人を妬んでいるようでは駄目なのです。
11章12節 もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。
「世界」とは、神さまが創造され愛されているこの世界と、そこに住むすべての人。「富」というのは、物質的・精神的な豊かさ、豊かないのち、救われることです。また他に、「材料、種」という意味をも持つ語でもあります。何の材料、種なのか。それはやはり「救いの完成」のための材料、種でしょう。
イスラエルに住んでいた先生から聞いた話しです。ある友人のユダヤ人クリスチャンがこのようなことを言ったそうです。「私たちは選民になりたくてなっているのではありません。選民というと世界中の人が自分たちは特別扱いされていると、優遇されていると思っているけど、そうではなくて、むち打ちを受ける人たちがズラッと並んでいる中で、あなたたちはユダヤ人だから、まずはじめに鞭打たれなさいと言われる、それが選民なのだ。そしてそのユダヤ人がこれをしてこれをしてこれをしたから100発のむち打ちを受けて悲鳴を上げている姿を見て、あれをするのはやめましょうと思う。それがこの世の選民という意味だ」。
色々と考えさせられる深い言葉ではないでしょうか。「もし彼らの違反が世界の富(救いの材料、種)となり、彼らの失敗が異邦人の富(救いの材料、種)となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう」。パウロの同国人を思う愛を、私たちもいただきたいと思わされます。
そしてここで「完成」と訳されていますが、これは「満ちる」という意味の語です。満ちるというのは、救われるイスラエル人の数が全部満ちることです。それで新改訳2017では翻訳を修正して「彼らがみな救われること」と訳し直しています。イスラエルがみな救われること。「それがどんなにかすばらしいものをもたらすことでしょう」とパウロは言うのです。
11章13節 そこで、異邦人の方々に言いますが、私は異邦人の使徒ですから、自分の務めを重んじています。
パウロは、「そこで、異邦人の方々に言います」と、異邦人クリスチャンを名指して言うのです。これまでイスラエルについて、ユダヤ人の問題について主に語られてきました。もしかしたら、どこか自分とは深く関係していないことのように聞いていた異邦人クリスチャンの方に向き直って語り出すのです。異邦人クリスチャンはハッと目が覚まされる思いがしたことでしょう。
そこでパウロは言います。「私は異邦人の使徒ですから、自分の務めを重んじています」。重んじてと訳されていますが、本当は「栄光、光栄と思っています」となります。パウロは実際、異邦人に福音を届けることに重きを置いていました。それを光栄なことと思っていました。神さまから与えられた使命だったからです。異邦人が福音を聞いて、信じて受け入れて、次々と救われて永遠のいのちを得て行くことを喜びと感じていたことでしょう。14節では「そして」とあります。パウロの光栄はもう一つありました。
11章14節 そして、それによって何とか私の同国人にねたみを引き起こさせて、その中の幾人でも救おうと願っているのです。
パウロがイエス様に召された時のことを思い起こしてください。アナニヤという人に主はこう言われました。
【使徒の働き】
9章15節 しかし、主はこう言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。
9章16節 彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」
パウロは異邦人に遣わされるために召された使徒であり、同時にイスラエルの子孫に遣わされるために召された使徒であったことも忘れてはなりません。「彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりだ」と。パウロは何に苦しんだのでしょうか。パウロ自身がイエス・キリストを信じて救われこと、そして自分を救ったイエス・キリストの福音を異邦人の間に宣べ伝え広めようとしていることにより、愛する同国人に嫌われ、ねたまれることにおいて、もの凄く苦しんだのではないでしょうか。辛く堪えがたいものだったのではないでしょうか。それが神さまからの栄光、光栄だとパウロは言います。神さまの栄光とは非常に重いものです。パウロに重くのしかかっていたものでした。そしてパウロは「その中の幾人かでも救いたい」と願っています。それは、すべての人が救われるのは、やがてイエス様が再臨なさる終末の時であることを知らされていたからでしょう。イエス様が再臨なさる時、それは神さまによる救いの完成の時です。被造物全体が贖われる時です。その時のために、自分に出来ること、向き合うべき目の前の人にしっかり向き合って行こう。そんな謙遜で誠実な思いが感じ取れるように思います。今やっていることが直接的に目先の結果につながらなくても、かえって自分が苦しみ、辛い目に遭ってはいるけれども、神さまのご計画の中で見たら、必ず最後には自分のやっていることによって最高の祝福につながるのだという、そんな栄光に満ちた先を見据える視点があったのではないかと思います。イエス様から決して目を離さないパウロがいたのではないかと思います。私たちもパウロのような視点を持ちたいと思います。
皆さんは、クリスチャンになると言う時に、家族に喜ばれたでしょうか。家族みんなに「よくぞクリスチャンになった!」と喜ばれた方はおられるでしょうか。クリスチャンファミリーで育ってこられた方はもちろん大喜びされたでしょうが、大抵の方は喜ばれなかったのではないでしょうか。私は反対はされませんでしたが、喜ばれはしませんでした。牧師になりたい、会社を辞めて神学校に行きたいと言った時には、それは反対されました。父の心には怒りが満ちていたのではないかと思います。「家族を捨て、無責任にも仕事を放り出して、何がキリストだ、何が救いだ、何が牧師だ」と、私に、教会に、神さまに対して怒りとねたみに燃えていたのではないかと思います。けれども、怒りが、ねたみがどのように神さまによって取り扱われたのか私には分かりませんが、父は最後にイエス・キリストを信じて救われました。今、父は神さまのおられる天の御国に行って、すべてを知ってきっと喜んでいるはずです。パウロも、今は同胞のイスラエルからねたまれ、怒られ、嫌われていて本当に辛いけれども、苦しいけれども、必ず最後は自分が召され、自分が選んだ道が最高で、イスラエルにとっても祝福だったのだと皆が分かる時が来るのだと、このような視点があったのだと思います。私たちも信仰によって同じ視点を持てるように祈り求めたいと思います。
11章15節 もし彼らの捨てられることが世界の和解であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう。
「死者の中から生き返ることでなくて何でしょう」。サラッと読んでしまうと何となく分かったような気になってしまいますが、よく読むと何を言っているのか分かりません。パウロはここでとても重要なことを語っています。
「捨てられること」の本来の意味は、「投げつけられる、押し出される、拒否される、拒絶される」という意味で使われます。彼ら、つまりイスラエルは、神さまのみこころのままにかたくなにされ、福音を拒むことによって、神さまご自身によって投げつけられ、異邦人によって押し出され、神さまに拒否され拒絶されてしまうことになる。それが世界の和解となる。世界を創造された神さまと、その世界に住むすべての人々との和解となった。「和解」は「壊れた関係がもう一度築かれる」という意味で使われます。世界の和解を見てイスラエルにねたみが起こる。そのねたみが、神さまの恵み深いお取り扱いによって救いとなる。彼らがみな救われる時、イスラエルの数が満ちた時、神さまの世界の救いが満ちる時となる。救いが、神さまと世界との和解、壊れた関係がもう一度完全な形で築かれる時となる。その時というのが「死者の中から生き返ることでなくて何でしょう」とパウロは言います。つまりパウロは「イエス様の再臨の時」を言っているのです。パウロはここで「終末論」を語っているのです。
イスラエルが救われなければ、決して終末、神さまの救いの完成はないということでしょう。神の国は来ない、完成されないということでしょう。なぜなら、イスラエルが見捨てられることは決してないと、神さまが真実な約束をしてくださっているからです。ですから、イスラエルの救い、イスラエルの回心は、私たち異邦人クリスチャンにとっても非常に重要なことなのです。
私たちは終末の時代に、終末に向かって生きています。教会はイスラエルにねたまれています。怒りの対象とされています。私たちもまた、同国人、隣人、家族にねたまれています。怒りの対象とされているのかもしれません。
パウロは別のところでこう言います。
【コリント人への手紙第2】
5章18節 これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。
5章19節 すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。
主は私たちに、私たち教会に怒りを燃やす人々を責めること、対立することは求めておられません。和解のことば、イエス・キリストの十字架の福音を私たち教会にゆだねられたのです。恵みによって、ただイエス・キリストの十字架の福音を信じることに、信じさせていただくことによって主と和解した私たちは、この先の何を見据えて歩んで行くのでしょうか。私たちの救いの完成を、世界の救いの完成を目指して歩んで行きましょう。異邦人に福音が宣べ伝えられ、やがてイスラエルが救われる。その時、私たちは私たちに対する神さまの愛の完成、救いの完成を見ることになります。今日かも知れません。明日かもしれません。
「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです」(マタ544-45)。
今、イエス様の御声が、改めて深く響いて来るのではないでしょうか。
信仰の創始者であり、完成者であるイエス様から目を離さずに、私たちの前に置かれている道を忍耐をもって行きましょう。イエス様は、ご自分の視線の先に置かれた喜びのゆえに、栄光のゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。私たちは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えましょう。それは、私たちの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです(ヘブ121-3)。視線を高くし、主に励まされつつ、今週も歩んでまいりましょう。
お祈りを致します。
天の父なる神さま、御名を崇め賛美致します。みことばを感謝いたします。どうぞ私たちの目と心を、広くて長くて高い、そして深い神さまの壮大なプログラム、ご計画に向けさせてください。今、私たちの目に辛く苦しい状況があろうとも、やがて主の栄光へとあなたが必ず導いてくださることを信じ感謝致します。今週の歩みも、主の愛の完成、救いの完成へと向かう恵みの道、時の中を歩まされていることを信じます。主が私たちとともにいてくださり、私たちも主から目を離さずにいられますよう、お守りくださいますように。私たちの心を主の愛によって満たしてくださり、救いの完成を切望する心を与えてくださり、イスラエルとの対立、隣人との対立ではなく、イスラエルの救い、隣人の救いを心から求めることができますように。私たちのすべてのわざを聖めてお用いくださいますように。感謝して主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。