2022年6月12日 主日礼拝「聖霊とどまる」

礼拝式順序

礼拝前賛美
報 告

開 祷
讃美歌  546番「聖なるかな」
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  112番「もろびとこぞりて」
聖 書  イザヤ書65章1〜2節
説 教  「聖霊とどまる」佐藤伝道師
讃美歌  500番「みたまなるきよき神」
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷

本日の聖書箇所

イザヤ書65章1〜2節

説教題

「聖霊とどまる」

今週の聖句

神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。

ローマ人への手紙8章14節

今週の祈り

「それは主の過越のいけにえだ。……主はエジプトにいたイスラエルの子らの家を過ぎ越して、私たちの家々を救ってくださったのだ。」
(出エジプト記12:27)

愛する神よ、私のために成された全ての御業に感謝します。頑張り続ける希望が必要なとき、あなたに集中する力をください。

説教「御霊とどまる」

アウトライン

はじめに)

  • 御霊(聖霊)に満たされた経験は?
  • 「聖霊とどまる」【とどまる・καθίζω】=「座る、座に着く」

1)霊、聖霊

  • 【霊・נֶ֫פֶשׁ、רוּחַ、πνεῦμα、ψυχή】= 「霊、魂、いのち、心、知性、息、風」。また、そこは感情が占める座であると説明される
  • 人はどのように生きるものとされたか(創27

2)「みことば」と「イエス・キリスト」に現される神の御姿、神のこころ

  • 神の声「わたしはここだ」、神の御姿「手を差し伸べる」
  • 【手を差し伸べた・פָרַשׂ・ἐκπετάννυμι】=「外に思いっ切り広げる」。両手を広げるとは、“赦しと恵みを施す”あるいは“戻って来ることを嘆願する”を意味する慣用句。神のあわれみは、逆らう民にも両手をいっぱい広げ、それをやめられないことにも示される

3)親心に包まれて

  • 子どもはいつも抱えられる腕を通して感じる親心、声を通して感じる親心に包まれている。子どもを私たちとするならば、お母さんは天の父、お母さんの手と声がイエス・キリスト、お母さんからあふれ出て子どもをあたたかく包む親心が、聖霊
  • 親心は常に一方的、普遍的、絶対的。そのような親心に気づいているか

まとめ)

  • 一日、一週間、一年、一生。初めがあり終わりがある。主によっていのちが与えられ、送り出され、励まされ、それぞれの終わりにはすべてのわざを終え、両腕を一杯に広げて私たちを迎え入れようとまっておられる主の元に帰る。そこで“いこい”(復活のいのち)を得る。
  • 「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」(ロマ55)。「神の御霊(聖霊)に導かれる人はみな、神の子どもです」(ロマ814

 皆さんは、御霊、聖霊に満たされた経験をされていると思います。私も、今思うとあれが聖霊に満たされた経験かなと思い起こすことがたくさんあります。たとえば、教会に来始めの頃、聖書のみことばによって神さまのことを知り、こんな私も神に愛されているのだということを知った日のことです。救われた人の証しで「空が青く見える」という証しを前に聞いたことがあったのですが、まさにあの日、私も同じ経験をしました。空が高くて真っ青に見えて、いつもの道の曲がり角が希望に溢れて、光輝いて見えました。嬉しくて走り出したくなりました。あの時、聖霊に満たされたのだと思います。それからも、みことばが心に突き刺さったり、説教、讃美歌に涙したり、心燃やされたり。難題が次から次へと襲って来た時、苦しくて悲しくてたまらなかった時、ふと「神さまはどこまでも神さまなんだな」という思いが与えられた時、なんだかホッとして、問題は何も解決していませんでしたが、ホッとして、心が温かくなって、大丈夫と思えた時。その時はまだ信仰も幼くて「神さまはどこまでも神さまなんだな」なんて子どものような信仰でしたが、それは今では「真実な神」、真実な神は私たちがどのような状況にあっても、決して見放されることなく、約束を反故にしたりすることのないお方であるのだということが分かるのですが、信仰が幼いながらもそのような思い、信仰がふっと与えられて平安に満たされたのも、聖霊に満たされた経験だと思います。使徒たちのようにいきなり外国語を話すようなことはなくとも、聖霊に満たされる経験は、私たちの日常の中に常にあるものではないでしょうか。

 先週は「ペンテコステ」を記念する礼拝が献げられました。北村牧師より使徒の働き2章のみことばから「聖霊下る」と題した説教をいただきました。今朝は、聖霊が下られた。そして「ひとりひとりの上に“とどまった”」ところを覚えたいと思います。ちなみに「とどまる」1と訳された語ですが、これは「座る、座に着く」という興味深い意味の語です。

 先ほどは、クリスマスの讃美歌121番を賛美しました。なぜ今? けれどもその歌詞を味わいますと、これは聖霊なる神をほめたたえる賛美でもあることに気づかされます。当然と言えば当然。私たちは「父なる神、御子イエス・キリスト、聖霊」三位一体の神を信じています。その聖霊なる神が今、常に私たちとともにいてくださる。聖霊は力ある神、悪魔を打ち砕き、罪の奴隷(捕虜)とされている者を解放し、この世の闇路を照らし、しぼめる心の花を咲かすことのできる、真に力ある神。聖霊はイエス・キリストが語られたみことば、つまりそれは父なる神の声(ヨハ14242、そして父なる神の御心を思い起こさせてくださる神。聖霊はこの世が与えるのとは違う平安を与えてくださる神(ヨハ1426−273。神ご自身である聖霊が私たちの内にとどまっておられる。座に着いておられる。なんと心強く、なんと幸いなことかと思わされます。

 霊とは何でしょうか。霊という語を聖書の原語4で見ると、いのち、心、魂という意味があります。その心や魂というのは感情(誰かを愛するなど)が占める座であると説明されています。また面白いことに、息、風という意味もあります。

 人間はどのように生きるものとされたのか。聖書の創世記には「神が人を地のちりから形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった」(創27)とあります。神が人間を生きるものとするためにいのちの息、フーッと風を吹き込まれたのです。神の霊が吹き込まれたのです。神の心、魂、感情、いのちが吹き込まれた。それで人は生きるものとなったのです。生きるものとされるのです。動物的な生命維持装置のような命ではありません。活き活きと生きるいのちです。私たちに吹き込まれたもの。私たちを真に生かすもの。それが神の霊であり、つまり聖なる霊、聖霊なのです。息や風のように目には見えませんが、木々の葉を揺らしたり、ヨットが帆に風を受けて進むように、フーッと吹き付けられた相手を確かに動かすことのできる力あるお方です。ローマ人への手紙には「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれた」(ロマ55)とあります。聖霊が与えられ、聖霊によって神の愛が私たちの心に注がれた。心とかいのちとか愛というもの、また息とか風も私たちの目には見えません。けれども私たちは、それらが確実に存在していて、それは力あるものであることは知っています。

 ところで、私たちは良く「心を寄り添わせる」「心を通わす」「離れていても、心はあなたとともにあります」などと言います。前々回のローマ書で学んだ「よろしく」です。恐れや不安の中、私たちの労苦がすべて覚えられている、忘れられていない。そして愛する誰かの心がすぐそばにあることを感じる時、私たちの心は温かな何かで満たされるのではないでしょうか。それは困難を乗り越える力となるのではないでしょうか。

 「神は霊である」と聖書にはあります。私たちの親であり、私たちの目には見えない神さまは、私たちの目に見えない心、私たちに対する愛を、イエス・キリストという私たちの目にはっきり見える形で現してくださいました。それはおよそ2000年前のこと。今は聖書のみことばを通して、私たちの目にはっきり見える形で現してくださっています。ことばというのもまた霊的なものです。息や風のように人を動かす力を持つものです。私たちは聖書のみことばを良く見る時、私たちは神のお姿、感情、神がどのようなお方であるのか、神は私たちに対してどのようなお心をお持ちなのかというものをはっきりと知るのです。私たちは聖書のみことばを通して神とお会いし、神の心を知り、信仰によって私たちの心、霊、感情の座に、神の心、聖霊を満たすのです。神の心、魂、感情が私たちの霊、感情の座に注がれ、フーッと息が吹き込まれて、私たちは生きるものとされるのです。私たちを生きるものとする神の霊にますます満たされるために、私たちには聖書のみことば、神のみことばが必要なのです。どうぞいつも聖書のみことばに親しんでください。

 今朝与えられましたみことば、イザヤ書65章1〜2節にも、父なる神の実際のお姿、そしてお心、感情、愛を見ることができます。

65章1節 わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを探さなかった者たちに、見つけられた。わたしは、わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、「わたしはここだ、わたしはここだ」と言った。
65章2節 わたしは、反逆の民、自分の思いに従って良くない道を歩む者たちに、一日中、わたしの手を差し伸べた。

 1節の「わたしに問わなかった者たち」というのは、契約の民であったイスラエル以外の民、異邦人。すなわち私たちです。私たちは以前、神のことを知らされておらず、それゆえに神を知らない者たちでした。神を知らず、自分の思いに従って良くない道を歩み、その歩みの中で転び、傷つき、その痛みや悲しみ、苦しみの中で人はようやく天を仰ぐ者です。「神さま」と神を求める、救いを求めるのです。そんな私たちに神は「わたしはここだ、わたしはここだ」と仰ってくださる。そして一日中、私たちに手を差し伸べられる。私たちは聖書のみことばを通して、このような父なる神の愛と憐れみに満ちておられるお姿、感情、心を見て知るのです。同時に、ああ私は神を見ようともせず、神の声を聞こうともしなかった、父なる神に逆らう悪い子だったのだなぁと知るのです。

 「一日中、わたしの手を差し伸べた」5。このみことばに現されている神のお姿、感情、心。このことも以前ローマ書10章の学びの中で見たところですが、覚えておられるでしょうか。「手を差し伸べた」という言葉を聖書の原文で見ると、そこには鳥が空を飛ぶときに羽を思いっ切り広げるという意味があります。つまり神は、その両腕を思いっ切り、力いっぱい広げておられるということ。それは一日中であると。それをやめられないということです。「手を差し伸べる、両手を広げる」。それは聖書の中で「赦しと恵みを施す」あるいは「戻って来ることを嘆願する」という意味で使われる表現、慣用句です。

 イエス・キリストは十字架の上でどのようなお姿を私たちに見せられたでしょうか。両腕をいっぱいに広げられ十字架に釘付けにされたではありませんか。イエス・キリストは十字架の上で一番最初に何を語られたでしょうか。神はイエス・キリストを通して何を私たちに聞かせたかったのでしょうか。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ2334)。それは私たちの罪を赦し、永遠のいのちを与え、恵みを施すためでした。罪とは人殺しとか盗みとかではありません。人が神に背を向けて、神を無視して自分勝手な道に出て行ってしまうことです。その先で転んで、傷ついて、痛くて泣いて悲しみ苦しむことです。活き活きと神の御心の通りに生きられないことです。そのような人間がご自身の元に立ち返って、悔い改めて戻って来ることを、一日中両腕をいっぱいに広げて願い待っていてくださる。そのような神の姿です。罪人が立ち返って、方向転換をしてご自分の元に戻って来ることを心から願い、今か今かと待っておられる。「わたしはここだ、わたしはここだ」と言われ、そして御腕を差し伸べられる。一日中、両腕を力いっぱい広げておられる。そのような神の心、私たちに対する愛、憐れみが示されているのです。神は私たちに、イエス・キリストを通してご自身の声を聞き、イエス・キリストを通してご自身の両腕の中に飛び込んで来るようにと心から願ってくださっているのです。

 私は聖霊のことを説明しようとする時に、いつも「親心」を持ち出します。何度も申し上げていると思いますが、お許しください。

 これはある先生が語られたたとえです。このような光景を思い浮かべてみてください。小さな子どもが道で転んで泣き出しました。どうやら、足をすりむいてしまったようです。かわいいひざ小僧に血が滲んでいます。すぐにお母さんが駆け寄り、我が子を抱き起こして、優しい声で語りかけます。「おお、よし、よし。あらあら、痛かったねえ。ほらほら、もうだいじょうぶよ。痛いの、痛いの、飛んで行けー!」。お母さんの腕に抱き上げられて、すぐに子どもや泣き止みました。お母さんが耳元で何かをささやくと、途端に笑顔になりました。子どもはいつだって、抱えられる腕を通して感じる親心、声を通して感じる親心に包まれているのです。この幸いな子どもを私たちとするならば、お母さんは天の父、お母さんの手と声がイエス・キリスト、お母さんからあふれ出て子どもをあたたかく包む親心が、聖霊です。

 冒頭でも申し上げましたが、父、子、聖霊なる三位一体の神。先ほどの母親と子どものたとえ話で考えてみましょう。お母さん自身と、お母さんが伸ばした手と声、そしてその親心は一つであって分けることができません。すべてをもって一人です。そこにあるのは、ただ子どもを助けたいという純粋な思いだけなのです。天の父とキリストと聖霊は、ひとりの神として存在するのです。純粋な一つの愛として存在するのです。いつも転んで泣いている私たちが知るべきなのは、私たちはそのような三位一体の愛に包まれて生きているのだということです。そして神の愛が、聖霊が、神ご自身が私たちの霊にとどまって離れないということです。凄い事だと思われないでしょうか。何と幸いなことでしょうか。

 冒頭の創世記のところでも申し上げました通り、私たちはだれもが天の父から生まれました。父なる神に息が吹き込まれ、霊が吹き込まれ、神の愛が、親心が吹き込まれて生きるものとされました。生きるものとされています。天の父が望んだから生まれてきたし、天の父が愛してくださっているから、今ここに存在し生きているのです。自覚がなくともそれが事実なのです。そして私たち子どもはその親心を知らないのです。知らないから、まるで自分ひとりで生まれてきて、そして生きているかのように思い込み、親に背を向けて、親から離れて出て行ってしまう。声を聞こうともせず、心を理解しようともしない。その先で、いつも孤独に悩み、転んでは傷つくのです。今、私たちの周りにある世界を見ると、あちらこちらから泣き声が聞こえるのではないでしょうか。戦地から泣き声が聞こえてくる。攻撃する方とされる方、双方から途方に暮れた泣き声が聞こえて来ます。凶悪な事件の現場からも聞こえてきます。被害者の泣き声とともに、自分が何をしているのかさえ分からない加害者の泣き声も聞こえて来ます。時には一番安心できるはずの家庭から聞こえて来る泣き声もあります。先日も幼児虐待のニュースがありました。どうしてこんなことが起こるのだろうか。私たちは加害者を責めることは簡単ですが、加害者の泣き声に耳を傾けることは難しく感じます。けれども、加害者と同じ心が、黒くて残酷な心、平気で人を憎み、恨み、妬み、そして傷つけようとする心が私たちの内にあることにも気づいているのではないでしょうか。

 神はすべてをご存知のお方です。凶悪な犯罪者であっても、そうではないと思っている私たちも、等しく罪人であるすべての人間を愛するお方です。自分で自分を救えない子どもたち。私たち。そんなわが子に、天の父は語りかけるのです。自らの手を伸ばすのです。一日中、手を差しのばすのです。十字架の上で両腕を一杯に広げて、「ほら、お母さんはここよ、もうだいじょうぶよ」と、赦しと恵みを施そうと待っておられるのです。

 その神の心、親心、聖霊は、愛は、いのちは、こちらから頼んだからもらえるとか、特定の人だけもらえるとかいうような、そのようなものではありません。一方的で、普遍的(いつでも、どこでも、誰にでも与えられるもの)で、絶対的な(なにものにも制限されない)ものです。親が子を生み、語りかけ、救うのはあたりまえのことです。それによってのみ子は存在し、生きて行けるのです。それはあくまでも親が自ら望んでそうしているのであって、子の方には一切の条件や資格が必要ありません。むしろ、子が何も持たず、完全に無力であるからこそ、親は子を愛おしく思い、語りかけ、手を差し伸べるのです。さらには、子が苦しんでいるときこそ、いつにもまして子を愛し、抱きしめるのです。子にできることは、ただただこの親心にすがって、苦しみが深ければ深いほど、「ほら、だいじょうぶよ、お母さんはここよ」と語りかけてくださる神をただ信じることだけなのです。ただ信じることだけ。唯一私たちに求められていることであり、唯一私たちができることであり、唯一私たちがすべきことです。

 そして、親に抱き起こされた子どもは、やがてそのかけがえのない経験によって、愛されている自分を信じるようになるでしょう。つまり、親心が子どものうちにとどまり、決して離れることのない日が来るのです。その親心さえとどまっていれば、どれほど不幸な体験をしても、神に愛されている私は幸いだ、と言えるのです。いかに困難な状況にあっても、神は必ず救ってくださると信じられるのです。神の愛を知らずに苦しんでいる人に、たとい敵であっても、神はあなたを愛していると宣言できるのです。それこそ私たちを真に生かすいのち。世界を生かすいのち、平和を作り出すいのち、いきいきと生かす力なのです。

 神は言われました。「わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はいない」(イザ446)。イエス・キリストは言われました。「わたしはアルファであり、オメガである」(黙18)。何事にも始まりがあり終わりがあります。一日もそうです。今日という一日は、神、主によっていのちが与えられ、送り出され、主の声に励まされ、一日のわざを終えて両腕をいっぱいに広げて私たちを迎え入れようと待っておられる主の元に帰るのです。一日の終わりに“いこい”を得るのです。いこいです。覚えておられますか。“いこい”とはリフレッシュ、復活です。新しい朝にはまた復活のいのちが与えられ、新しい一日へと送り出されるのです。何と幸いなことでしょうか。一週間もそうです。日曜日の礼拝を通して新しいいのちが吹き込まれ、送り出され、主の声に励まされ、一週間のわざを終えて両腕をいっぱいに広げて私たちを迎え入れようとまっておられる主の元に、礼拝に帰るのです。いこいを得るのです。そして新しい一週間へとまた送り出される。私たちの人生もそうです。生まれ、愛され、送り出され、人生の中で常に主の声に励まされ、助けられ、守られ、導かれ、一生のわざを終える時には両腕をいっぱいに広げて私たちを迎え入れようとまっておられる主の元に駆け寄るようにして帰るのです。人生の歩みの中でどうしても足は汚れ、罪を犯してしまい、傷つき泣く私たち。そのような私たちを憐れみ、「わたしはここだ、わたしはここだ。もう大丈夫」。赦しと恵みを施そうと心から願い、快く迎え入れようと待ってくださっている主の元に駆け寄るようにして帰ることができるのです。いこいを得るのです。そしてその時は、永遠に天の御国に生きるようになるのです。私たちの目の涙はすっかりぬぐい取られ、もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。永遠に主とともに、天の御国で生きるものとされる、その約束がされているのです。約束が確かであるという証印として聖霊がそそがれ、とどまっておられます。何と幸いなことでしょうか。「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」(ロマ55)。

 「神の御霊(聖霊)に導かれる人はみな、神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます」(ロマ814−15)。私たちに注がれた聖霊、親心を知って、私たちは子どもが無邪気に父親を呼ぶように、安心しきって、聖霊によって「アバ、父。神さま」と呼び求めることができるのです。皆さんは何かの時に「神さま」と呼び求めておられるでしょうか。父なる神に助けを求めておられるでしょうか。それは皆さんに聖霊が注がれ、神の子とされていることの証しです。そして父なる神は常に、イエス・キリストを通して、十字架の上で両腕をいっぱいに広げておられるイエス・キリストを通して、本当に皆さんを神の子としたいのだと、赦しと恵みを施したいのだと、心から願われています。「わたしはここだ、わたしはここだ」と常に声をかけられ、一日中手を差し伸べておられます。この神の愛にどうぞ応えていただきたい、恵みを恵みとして喜んで受け取っていただきたい。信じて、腕の中に飛び込んでいただきたい。真に生きる者となっていただきたい。心からそう願います。

 私たちは、私たちに注がれている聖霊なる神を覚えましょう。また聖霊なる神は私たちのうちにとどまり、決して離れることのないことを覚えたいと思います。聖霊によって生かされている幸いを覚え、今日からの歩み、天に続き、天の向こうにまで続く道を、神のみことば、聖書のみことばを通して、また礼拝を通してますます聖霊に満たしていただき、神の愛に満たされ励まされ、活き活きと生きることのできるいのちを与えられて、賛美と喜びをもって歩ませていただきましょう。

 この後、墓前礼拝、そして北澤兄、桐野兄の納骨式が持たれます。私たちはいこいの水のほとりに伴われる羊飼いなる主、神の声、神の腕であるイエス・キリストに、そして聖霊に守られ導かれ、そして今、すべての労苦をご存知である主が、「わたしはここだ。もう大丈夫」と両腕をいっぱいに広げて迎え入れてくださった。主のおられる所でいこいを得られた、新しいいのちを得られた。信仰の先達の方々を覚え、そこから慰めと励ましをいただき、また神をほめたたえ、賛美し、礼拝を献げたいと思います。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

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