2022年6月19日 主日礼拝「最後の奨励」

礼拝式順序

礼拝前賛美
報 告

開 祷
讃美歌  545番「父の御神に」
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  15番「我らの御神は」
聖 書  ローマ人への手紙16章17〜27節
説 教  「最後の奨励」佐藤伝道師
讃美歌  338番「主よおわりまで」
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷

本日の聖書箇所

ローマ人への手紙16章17〜27節

説教題

「最後の奨励」

今週の聖句

しかし、私は、あなたがたが善にはさとく、悪にはうとくあってほしい、と望んでいます。

ローマ人への手紙16章19b節

今週の祈り

みなしごの父……は聖なる住まいにおられる神。
(詩篇68:5)

父なる神よ、私には側を離れない、良い父、真の父が必要です。私は、あなたがその父になってくださると信じています。

説教「最後の奨励」

アウトライン

1)偽の教えと偽教師(異端)についての警告

  • 「あなたがたが学んだ教え」とは?
  • 彼ら(偽教師)とは誰のこと?
  • 【へつらいのことば】“賛美、祝福、尊い贈り物、口車”。
    【だます】“外に引き出して欺く”
  • 善には【さとく】“熟練した、賢い、学問のある、耕された”
    悪には【うとく】“無垢、あどけない、すなお”
  • サタンの存在(エペ611−12)、神の完全勝利の約束(原福音創315

2)再びあいさつへと戻る

  • 民族、性別、階級を超えたキリストにある聖徒の交わり、御霊、神の愛による真の平和、一致のお手本が示される(神の国、教会のあるべき姿)

3)三位一体の神への頌栄、祝福の祈り

  • ギリシア語本文「あなたがたを堅く立たせることができる方」で始まり「知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって栄光がとこしえまでにありますように」で終わる
  • 「あなたがたを堅く立たせることができる方」とは?

まとめ)

  • ローマ書全体から学んだことは?
  • 「パウロが書いた順序に従って次のことを勧める。第一に、神の律法において自分自身を誠実に見つめ、そこにあなたの裁きを見よ。第二に、あなたの目をキリストに向け、そこに圧倒的なあわれみと最も深く愛してくださる父なる神を見よ。第三に、キリストは、その贖いによって、あなたが再び神を怒らせることのないようにされたことを、心に留めよ。また、あなたをきよめたのは、古い泥の中に戻るためではない。新しく創造された者として、肉の思いではなく、神のみこころに従って新しい人生を生きるべきである。勤勉であれ。自らの怠慢と感謝のない心によって、この愛とあわれみを再び失うことのないためである」

 今日は父の日ということです。母の日に比べたらどうしても影が薄い印象があります。父と言えば私も父ですが、子ども、特に息子に対してはつい小言が多くなってしまう傾向があるようです。妻は私に「娘には甘いのに、息子には厳しい」と言います。その自覚はあります。褒めるつもりが次第に注意喚起にかわり、不機嫌にしてしまう。しかしそれも、男親の心だと理解して頂きたい。同じ男として厳しい社会を生き抜く知恵を与えたいと思い、子を思ってついつい厳しい口調になってしまうのです。親の心子知らずです。いや、親の心を伝えるのが下手なのでしょう。皆さんのご家庭ではどうでしょうか。父親が息子に、あるいは母親が娘に特に厳しいという傾向はないでしょうか。

 これまで1年10ヶ月にわたって見てまいりましたローマ人への手紙も、本朝でいよいよ終わりとなります。パウロがローマの教会に宛てて書いた手紙を通して、聖書は今の私たちも語りかけ、普遍的な、時代も民族も超えた大切なことが教えられ、時にはもやっとさせられながらも、そこで考えさせられて来たと思います。それは教会が肉によってではなく、御霊によって一致し建て上げられるため。整えられるため。また私たち一人ひとりの内と外、信仰と日々の生活が肉によってではなく、御霊によって一致し、真に建て上げられるため、整えられる(網のほころびを繕う)ためにです。

 前回はいよいよパウロの締めのあいさつが始まり、これで終わりかなと思いきや、突然17〜20節で、偽の教えと偽教師についての警告をし始めます。これまでの親愛の情にあふれたことばが一変して、きびしい調子で警告と勧めをするのです。これまでの流れからは、ここでこの警告を記した理由を見つけ出すのは困難です。そのために、この警告がローマの教会の実際の状況に対する警告なのか、あるいはこれから起こることが予想される状況に対する警告なのかについての論争があります。どちらかに断定することは容易ではありません。しかし初代教会はどこでも偽教師によって分裂を引き起こされる危険をはらんでいました。それはローマの教会も例外ではありませんでした。また私たちの教会も例外ではありません。誤った教え、また党派心、自分の気に入った仲間を造り上げようとか、自分に有利な、自分に都合の良いグループに仕立て上げようとか、そのような欲望によって純真なキリスト者をつまずかせたり、教会の交わりを分裂させるような者はどこにでもいるからです。教会は誰のものなのか。改めて覚えたいと思います。牧師のものでしょうか、役員のものでしょうか。違います。では信徒のものでしょうか。教会はキリストの教会です。パウロが自分のいのち、生涯を捧げるほどに愛するキリスト、そのキリストの教会に入り込む誤った教え、党派心、分裂分派。「キリストが代わりに死んでくださった、そのような人を、あなたの食べ物のことで滅ぼさないでください」(ロマ1415)。キリストが愛し、最後まで愛される教会、そしてキリスト者をつまずかせ、滅びに至らせようとする誤った教え、党派心。パウロはそれらのことでいつも苦しめられてきました。そしてローマの教会にもその危険を鋭く感じ取ったのでしょう。いわば生まれたての子どものように、力なく、従順で純真な教会に対してパウロは、あいさつの途中でどうしても警告しなければならないと突然思い立ったのではないかと思います。

 パウロは非常な心配をしながら、改まった調子でローマのキリスト者たちに勧めます。

16章17節 兄弟たち。私はあなたがたに願います。あなたがたの学んだ教えにそむいて、分裂とつまずきを引き起こす人たちを警戒してください。彼らから遠ざかりなさい。

 「あなたがたの学んだ教え」。それはすなわち、教会がキリストと使徒によって伝えられた教えの内容です。十字架の福音です。また、これまで使徒パウロがこの手紙の中に書いてきたことです。罪の悲惨さ。そこから私たちはどのようにして救われたのか。行いではなくキリストを信じる信仰による義。神はユダヤ人だけでなく異邦人も義と認められること。神の恵みと憐れみによって義とされた者、救われた者がどのように生きるべきか。神を愛し、隣人を愛し、さらに神が私たちを愛されたように、私たちも敵でさえも偽りなく愛することによって互いに認め、受け入れ合うこと。それらに反することを教えてキリスト者を誘惑する者。教会内に分裂とつまずきを引き起こす者たち。それが「偽教師」で、偽教師による誤った教え、それは私たちが「異端」と呼ぶものです。パウロは彼らを警戒するように言います。そして彼らから遠ざかるように言います。「警戒する」とは、よく目を留めて注意することを意味します。彼らの言っていることの本質と本性をはっきりと見抜いて注意しなさいということです。そして彼らから遠ざかりなさいと。旧約聖書のヨブという人は「義人(ただしい人)」と呼ばれていました。なぜかというと、ヨブにはまったく罪がなかったというのではなく、悪から遠ざかっていた、神を信じ、意識的に悪に近づかないように避けて生きていたので、聖書はヨブを「義人」と言うのです。悪から遠ざかること、罪人と同じ座(ステージ)に着かないこと。逃げるが勝ちではないですが、十分に訓練されていない人は異端から逃げること、同じ座に着かないことが最も安全なのかもしれません。異端の方々に救われて欲しい。その思いはとても大切です。しかし、自分の信仰の力量を過信しては危険です。祈りつつ、十分に訓練された方々にお任せするのが良いでしょう。

16章18節 そういう人たちは、私たちの主キリストに仕えないで、自分の欲に仕えているのです。彼らは、なめらかなことば、へつらいのことばをもって純朴な人たちの心をだましているのです。

 警戒する、よく目を留めて注意する。彼ら偽教師の言っていることの本質と本性をはっきりと見抜いて注意する。私たちが見抜くべきことは、彼らの言葉の中に、果たしてキリストに仕えているのか、それとも自分の欲に仕えているのかをしっかり見分けることです。偽教師はキリストの弟子の仮面をかぶってやって来るのです。イエス様も教えておられます。「偽預言者たちに用心しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、内側は貪欲な狼です」(マタ715)。彼らはなめらかなことば、へつらいのことばをもって、教会の中の純朴な人、純真無垢な神の子どもたちの心をだますのです。

 【へつらいのことば・εὐλογία】は、おもに“賛美、祝福、尊い贈り物”を意味するのですが、まれに否定的に用いられ、18節のように“口車”の意味で使われることもあります。そして【だます・ἐξαπατάω】は、“外に引き出して欺く”ことを表しています。彼らは賛美、祝福のことば、また尊い贈り物を携えて、巧みな口車に乗せて、純朴な人たちを教会の外に、また神の支配の中から外に引き出して、そして欺くのです。そこに罪がこっそり入り込み、知らぬ間に伝染し、やがて分裂とつまずきをもたらし、破滅へと導くのです。

 なぜだまされてしまうのでしょうか。純朴だからです。素直だからです。信仰にはそれらは大切でしょう。しかし、純朴、素直さだけでは十分ではないと言うことです。

 ところで、“彼ら(偽教師、異端)”、その彼らとは誰のことか思い巡らしてみた時に、教会の外から入り込む彼ら、教会の中に潜む彼ら、あるいは、自分の中にいる彼らをも指しているのではないかと思わされ、ハッとさせられます。その背後にはやはり、巧妙な手口を用いるサタンの存在があるのではないでしょうか。

16章19節 あなたがたの従順はすべての人に知られているので、私はあなたがたのことを喜んでいます。しかし、私は、あなたがたが善にはさとく、悪にはうとくあってほしい、と望んでいます。

 ローマのキリスト者たちの多くは素朴で従順だったようです。信仰に対して疑うことを知らない人たちだったようです。素朴で従順。先ほども申しましたが、信仰においてそれは美徳とされるものです。しかしまた欺かれやすい危険もあります。それだけに、パウロはローマのキリスト者たちの素朴で従順な信仰を喜びながらも、彼らが欺かれることをとても心配していました。それでパウロは言うのです。「しかし、私は、あなたがたが善にはさとく、悪にはうとくあってほしい」と。

 「善には【さとく・σοφός】」これは“熟練した、賢い、学問のある、耕された”という意味があります。また「悪には【うとく・ἀκέραιος】」には、“無垢、あどけない”という意味があります。善に対しては熟練した賢い学問のある人のように向き合う。十分に耕すように。つまり、善に対しては一生懸命追い求めなさいということでしょう。悪に対してはどうか。無垢で、まっさらで、あどけない幼子のように。力を持たない者のように。しかし人間の赤ちゃん、また動物の赤ちゃんは生まれたてであっても苦い、酸っぱいの味は見分けることができるそうです。苦かったり酸っぱかったりするものが口に入って来たら、ペッと吐き出すのです。毒や腐ったものを体内に入れないためです。この苦みは何か、酸っぱさは何かと味わって探求することはしないのです。死んでしまうからです。そのような知恵、力が備わっているのですから不思議です。神が知恵によってそのように造られたからでしょう。そのように悪を感じたら、幼子のようにペッと吐き出してしまうのが良いのです。

 またここでもイエス様が言われたことを思い起こすのではないでしょうか。「ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい」(マタ1016)。実はイエス様が言われた「すなおでありなさい」は、パウロが言う「うとくありなさい」と同じ語が使われています。パウロは悪に対しては賢く利口そうにふるまうのではなく、自分の無力さを素直に認め、教会と自分の信仰を何としても守りなさい、彼ら偽教師のもっともらしい言葉に欺かれないようにと、ローマのキリスト者たちに注意喚起をするのです。私たちに対しても、彼らのもっともらしい言葉に欺かれないようにと、注意喚起をしているのではないでしょうか。

 私たちは永遠のいのちを持ってやがて天の御国に入るまで、この世にあってしばらくは生きて行かなくてはならないのですが、この世にあって正しい信仰を守り通し、この世にあって真のいのちを持ち続けることができるために、イエス様は今も「彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします」(ヨハ1715)と、このようにとりなし祈ってくださっています。

16章20節 平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。

 聖書は、この世はサタンによる霊的な支配があることを明確に教えています。サタンの巧妙な策略にさらされていることを教えています。私たちの悪に対する格闘、激しく、難しい戦いというのは、血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです(エペ611−12)。20節においても、教会に、また私たち自身の内側に分裂や滅びをもたらす彼ら・偽教師との戦いの背後にはサタンの存在があることが示されています。しかし平和の神、平和の源である神、教会に、また私たち自身の内に、御霊による平和、平安、一致をもたらす神は、すみやかに、私たちの足でサタンを踏み砕いてくださいます。「私たちの足で」と訳されていますが、原語に忠実に訳すなら「私たちの足の下で」です。神に依り頼むならば、神がご自身の偉大な知恵と力、権威によって、私たちの足の下でサタンを踏み砕いてくださるのです。私たちの力でではありません。

 また、ここでの表現は、創世記3章15節の原福音を思い起こさせるのではないでしょうか。ここに登場してくる蛇、サタンはなめらかなことば、へつらいのことばをもって、神がもっとも良く創造された純真無垢な人間をだまし、罪をもたらしました。このサタンに対して神は、ご自身の完全な勝利を宣言し、約束されたのです。パウロがここで強調して読者に伝えたいことは、神はご自身の約束と力によって、私たちに悪に対する完全な勝利を与えてくださるのだ、それも“すみやかに”という希望と確信です。神は約束通りに必ず勝利を与えてくださるという確信。すべての出来事、人生、その初めから終わりに至るまで、神が守ってくださり、完全な勝利を約束してくださっている。その希望と確信が、たとえこの世で私たちの身に様々な難しい問題が起こったとしても、必ず乗り越えられる、解決される、私たちは完全に勝利するのだという希望、確信の礎となっているのです。この世の創造の初めから約束されていたことが、今私たちが堅く立つことのできる礎となっていること、原福音であることを改めて覚え、私たちも今、御霊によってこの勝利の確信をいただきたいと思います。そしてパウロの確信は、祝福と祈りにまで高められています。確信が喜びとなり、パウロの内側から自然に溢れ出た祝福の祈りとなりました。私たちも御霊に満たされて、パウロと同じ祝福の祈りをささげる者とならせていただきたいと思います。

 突然の警告と忠告のことばから、再びあいさつへと戻ります。パウロの仲間たちからのあいさつです。同労者テモテに続いて3人のユダヤ人信徒の名が挙げられます。次にこの手紙を筆記しているテルテオが自らあいさつに加わります。パウロが主にあるあいさつするように勧めたのでしょう。彼はその名前からして、もともと奴隷であったと考えられます。続いてコリントでパウロに導かれ、自分の家を開放して集会を持っていた「家の教会」の家主であるガイオ。エラストは市の有力者でした。クワルトはいわゆる“ただの人”であるのに名が連ねられています。このようにパウロは、最後のあいさつの中に、肉の思いによるのではない、民族、性別、階級を超えたキリストにある聖徒の交わり、御霊、神の愛による真の平和、一致のお手本を示しているのです。素晴らしい教会の姿、それはまさに「神の国」です。

 あいさつが終わって、いよいよ最後の頌栄に入ります。三位一体の神に栄光を帰し、その御名をほめたたえる賛美をもってこの手紙を締めくくります。25〜27節は、切れ目のない一続きの文章で、密度が濃く、迫力のある表現です。パウロの熱量が伝わって来るところです。それ故に複雑です。複雑なところですが、その中心は三位一体の神への賛美となっています。

 この頌栄はギリシア語本文によると、「あなたがたを堅く立たせることができる方」で始まり、「知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって栄光がとこしえまでにありますように」で終わっています。残りの部分がその間にあって、「あなたがたを強くすることができる方」を修飾しているのです。

 さて、この「あなたがたを強くすることができる方」とは、どなたのことでしょうか。その方は、私たちが信じ、この方によって私たちは救われ今も生かされている三位一体の神。父なる神、御子イエス・キリスト、そして聖霊・御霊です。

 先週も見たところですが、私たちは神の息、神の霊が吹き込まれて生きる者とされました。そしてイエス様が来られて、このように言われました。「あなたがたは、水と御霊によって生まれなければ神の国に入ることはできないのだ」(ヨハ35)と。つまり水と御霊によって生まれるならば、神の国に入ることができる、永遠に活き活きと生き続けることができる、救われるということです。水はユダヤ人の清めの儀式に使われていた水のこと。水は汚れを洗い清めるためのものでした。人は罪に汚れたままでは神の前に出ることはできない。ユダヤ人は旧約聖書からそのことをたくさん教えられてきました。それで一生懸命儀式を守ってきました。イエス様が来られて、実は水を浴びることは形とか儀式だけではなく、真の悔い改めを意味していることを教えてくださいました。悔い改めるということは、神に背を向けた生き方を反省して、神の方に向きを変えることです。ですからイエス様が「水によって生まれなければ神の国に入ることはできない」と言われたのは、人は悔い改めて罪をきよめられなければ神の国に入ることはできないということです。しかし自己中心で頑なな私たち。うなじがこわばっていて、なかなか素直に神にごめんなさいと頭を下げることができない私たちが、どうしたら悔い改めることができるのでしょうか。御霊・聖霊によってです。そしてイエス・キリストを通してです。御霊、神の霊、神の心、私たちを思う親心に満たされる時、私たちは本当に悔い改めて、神の方に向きを変えて「ごめんなさい」と頭を下げることができるのです。御霊が私たち一人ひとりに罪を自覚させ、唯一私たち罪人を赦し、救うことができる救い主イエス様を指し示してくださり、イエス・キリストにおすがりし、イエス・キリストを信じて新しい永遠のいのちを受けることができるように助けてくださるのです。この御霊によって私たちは新しく生まれて、新しい永遠のいのちをいただいて、行いではなくただ恵みによって救われ、神の国に迎え入れていただけるのです。人間がどんなに良い行いをしようとも、それでは全然ダメだからです。神の救いの規準には追いつけないからです。それはユダヤ人ばかりでなく、異邦人であっても。全世界のすべての人がイエス・キリストを信じる信仰によって救われる。背いてきた父なる神に赦されて、怒りがまったくなだめられて、聖く見なされて、本来の神との平和な関係をいただくことができる。それが福音です。

 それらはイエス様が来られるまで、いくつもの時代を超えて長い間隠されていたものでしたが、今や「私の福音」、つまりパウロが信じ宣べ伝えている福音、イエス・キリストの十字架の福音によって。またイエス様ご自身の宣教、イエス様がことばと生き様をもって示された福音、それはつまり聖書のみことばによる証言によってはっきり現されました。イエス様がそのご生涯の中で語られた一言一言、そのご生涯のなかでなされたみわざ。地上のご生涯の最後に、十字架の上で語られたお言葉、そして私たちに示された御姿。両腕を広げ、十字架に釘づけられたその御姿。ここに私たち罪人に対する神の愛が示されました。この世の現実を目の当たりにして、戦争、貧困、災害、疫病。本当に神はおられるのか。本当に神は我らの味方なのかと、誰もが信じることのできないないようなところに、神の愛がずっと注がれていたことが示されました。その確かな証拠として聖霊が注がれ、聖霊を通して神の愛が注がれたのです。

 神はこの福音によって私たちをご自身ももとに呼び、召してくださり、近づかせてくださり、この福音によって私たちを義と認め、救って、新しく造りかえてくださいます。ただ我が子を助けたい、救いたいと願われる神。父、子、聖霊なる三位一体の神。この方はその愛によって私たちを強く、かたく立たせることがおできになるお方。先週も触れましたが、私たちが知るべきなのは、私たちはそのような三位一体の愛に包まれて、守られて生きているのだということです。悪魔のひとやを打ち砕き、この世の闇路を照らし、しぼめる私たちの心の花を咲かせられる力ある神。その素晴らしい全知全能の神に、私たちは心から感謝し、賛美せずにはいられないのではないでしょうか。素晴らしい神さまの栄光から、私たちは目を離すことができないのではないでしょうか。もっと知りたい、もっと体験したいと願うのではないでしょうか。「善にはさとく」です。

 私たちはローマ書から、罪の悲惨さ、そこからの救い。どのようにして救われたのかということ。全人類に今もなお注がれる神の愛と憐れみ。その神に応答してどのように生きて行くべきかを教えられたと思います。そしてパウロが手紙の最後の最後に「善にはさとく、悪にはうとくありなさい」という、私たち教会、また私たち一人ひとりのこれからの歩みにおいての願い、勧めを聞きました。「悪」は教会、また私たち自身の内側で起こる分裂とつまずき、そして滅びをもたらすものです。その源は何だったでしょうか。反対に「善」とは何でしょう。善は教会、また私たち自身の内側の一致と平和、そして永遠のいのちを与えるものです。神の国の姿です。その源は神のほかありません。私たちの中に全き善はないのですから、私たちにないもの、足りないものは、神からいただきましょう。善を追い求め、学び、耕されるようにして熟練し、賢いものとしていただきましょう。そして悪に対してはうとく、無垢であどけない幼子のように、力のない者のように。悪に対する自分の無力さを知り、対抗できない悪からは遠ざかること。つまずき、倒れ、滅んでしまわないように。この世にあって、悪の誘いの声は私たちの内からも外からも聞こえてきます。なめらかなことば、へつらいのことばが聞こえてきます。耳に心地よい賛美、祝福のことば。いかにも美味しそうで目に慕わしい木の実、贈り物。そういったもので私たちを外に引き出してそこで欺き、そこに罪が入り込み、分裂させ、つまずかせ、破滅へと導こうとする力が働いています。そのような悪には目もくれるな。反対に、福音と神の国、イエス・キリストに対してはいつも敏感で、そのためにはいのちをかけなければならないのだと。ローマ人への手紙にはパウロのその情熱が込められています。パウロはその熱量をもって三位一体の神をほめたたえ、祈りをもってこの手紙を終わります。「あなたがたを強くすることができる方、知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって、御栄えがとこしえまでありますように。アーメン」。

 ローマ人への手紙を終わるにあたり、ある神学者がローマ人への手紙を紹介する序文のところでされた勧めの言葉を紹介します。

 「さて、読者の方々、パウロが書いた順序に従って、次のことを勧める。第一に、神の律法において自分自身を誠実に見つめ、そこにあなたの裁きを見よ。第二に、あなたの目をキリストに向け、そこに圧倒的なあわれみと最も深く愛してくださる父なる神を見よ。第三に、キリストは、その贖いによって、あなたが再び神を怒らせることのないようにされたことを、心に留めよ。また、あなたをきよめたのは、古い泥の中に戻るためではない。新しく創造された者として、肉の思いではなく、神のみこころに従って新しい人生を生きるべきである。勤勉であれ。自らの怠慢と感謝のない心によって、この愛とあわれみを再び失うことのないためである」。

 お祈りをいたします。
 愛と憐れみに満ちておられるイエス・キリストの父なる神さま、尊い御名を崇め賛美致します。みことばを感謝致します。1年10ヶ月にわたって見てまいりましたローマ人への手紙でしたが、本朝をもって終えることができました。途中、難しさを覚えたり、迷い出そうになってしまいましたが、聖霊に励まされ、注がれた愛に強められ、最後まで守られましたことを心から感謝致します。パウロが手紙の最後の最後で書き加えるようにして記した勧め。この世に生きるにあたり、激しい霊的な戦いがあることを覚えます。私たちを守りたいという熱い神の御心を覚えます。イエス様は今もとりなしてくださっています。私たちがこの世から取り去られるのではなく、この世にあって悪い者から守ってくださるようにと。今、ローマ人への手紙全体を思い起こし、今ある私たちの幸いに心を留め、御霊によって注がれている神の愛と憐れみによって励まされ、強く立たせていただき、御霊によって、御霊に導かれつつ、あなたのみこころの通りに生きていくこと、生かされていくことができますように守り導いてください。これからの歩み、善であるあなたから目を離すことなく、神の子とされたこと、救われた喜び、そして楽しみを味わいつつ歩んでいけますようお守りください。神に愛されている者として、隣人に神の愛を証しできますように。感謝して主キリスト・イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

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