2023年7月23日 主日礼拝「心の倉を良いもので満たそう」

礼拝式順序

賛  美
前奏(黙祷)
招  詞  イザヤ書40章27〜31節
讃  美  讃美歌9「ちからの主を」
信仰告白  使徒信条 讃美歌566  
主の祈り  讃美歌564
祈  祷  
讃  美  讃美歌90「ここもかみの」
聖書朗読  マタイの福音書12章22〜37節
説  教  「心の倉を良いもので満たそう」佐藤隆司牧師
讃  美  讃美歌324「主イエスはすくいを」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 マタイの福音書12章35節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

マタイの福音書12章22〜37節

説教題

「心の倉を良いもので満たそう」

今週の聖句

良い人は良い倉から良い物を取り出し、悪い者は悪い倉から悪い物を取り出します。

マタイの福音書12章35節

説教「心の倉を良いもので満たそう」

マタイの福音書12章22〜37節

人間とは黙っていられる時があるのでしょうか。口では黙っていても、頭の中では絶えず自分の声がうるさいくらいに聞こえているように思います。特に先週、床に伏せっていた時に痛感しました。何も考えないようにしようとしても無理です。「だめだめ、何も考えないようにしよう」というものや、あまり人には聞かれたくないような声が聞こえてきます。この声が何なのか、合理主義が当たり前の今の世では科学的な説明もなされるのでしょうが、これは昔から「心の声」などと呼ばれる霊的なものではないでしょうか。そもそも「心」というのは不思議な存在です。体の中のどこにあるのか誰も知りませんが、しかし確実に存在しています。辞書で「心」という語をある辞書で調べて見ると、「体に対し(しかも体の中に宿るものとしての)知識・感情・意志などの精神的な働きのもとになると見られているもの。また、その働き」とありました。これを聖書の原語であるヘブル語あるいはギリシヤ語に置き換えるならば、「霊・魂」となるのです。そしてこの「霊・魂」は「風・息」という意味をも持っています。目には見えないけれども、フーと風や息がかかると木々の葉が揺れるように、確実に存在し、しかも吹き付けたものを動かす力を持っている。それが風・息であり、霊・魂なのです。ひと言で風と言っても、優しい穏やかな風、涼しさをもたらし人を生き返らせる風もあれば、人に害を加えてしまうような暴風もあります。では、神の霊、聖霊、御霊はどちらの風でしょうか。いずれにしても私たちの心、霊、魂というのは本当に重要なところです。本朝もそこを聖霊、御霊に満たしていただき、みことばに聞いてまいりたいと思います。

前回のところで、パリサイ人たちは片手の萎えた人を群衆の前に連れだしてイエス様を試しました。結果はご存知のとおりです。彼らの内にイエス様に対するねたみ、怒り、憎しみ、色々な悪い感情がますます満ちていったようです。それなのに彼らはイエス様の後をつけ回すことをやめませんでした。

そのような中で、今度は悪霊につかれて目が見えず、口もきけない人が連れて来られました。

12章22節    そのとき、悪霊につかれて目が見えず、口もきけない人が連れて来られた。イエスが癒やされたので、その人はものを言い、目も見えるようになった。

恐らくこの人は、友だちや親しい人に連れて来られたのではないかと思います。イエス様はこの時も友と本人の信仰を喜ばれ、受け入れら、その人を癒やされました。そのような神への信仰、隣人愛に満ちた麗しい光景を、苦虫を噛みつぶしたような(不機嫌そうな)表情で一部始終を見ていた人たちがいました。イエス様にねたみを燃やすパリサイ人たちでした。

イエス様は悪霊につかれて目が見えず、口もきけない人を癒やされました。それはつまり、権威をもって悪霊を追い出したということです。イエス様は4章の荒野の誘惑において、すでに悪魔、悪霊の頭に勝利しておられます。その権威をもってここでも悪霊を即座に追い出されたのです。

12章23節    群衆はみな驚いて言った。「もしかすると、この人がダビデの子なのではないだろうか。」

群衆は驚きました。この「驚く」とは「正気を失わせる」というほどの衝撃を表します。英語ではamazed、アメージング・グレイス、神の恵みは正気を失わせるほど素晴らしい良いものです。そして群衆は興奮して言いました。「もしかすると、この人がダビデの子なのではないだろうか」。つまり、旧約聖書の預言者がその現れを預言していたメシア救い主ではないかと興奮して言ったのです。またもや苦虫を噛みつぶした表情でその言葉を聞いていた人たちがいました。

12章24節    これを聞いたパリサイ人たちは言った。「この人が悪霊どもを追い出しているのは、ただ悪霊どものかしらベルゼブルによることだ。」

私たちは同じような光景を前にも聖書から見たことがあります。9章32〜34節で、この時も人々はイエス様のもとに、悪霊につかれて口のきけない人を連れて来ました。イエス様が悪霊を追い出されると、口のきけない人がものを言うようになりました。群衆は驚いて、「こんなことはイスラエルで、いまだかつて起こったことがない」と言いました。しかしパリサイ人たちは、「彼は悪霊どものかしらによって悪霊どもを追い出しているのだ」と言いました。この時からも、彼らはイエス様のあとを付け回したおかげで、イエス様を通して表される父なる神の愛とあわれみ、そして数々の素晴らしいしるし、驚くばかりの恵みを目の当たりにして来ながらも、彼らの心は信仰や喜びではなく、イエス様に対する妬みが積もりに積もっていったのです。彼らはモーセの律法を新しく解釈したイエス様の山上の説教も、イエス様が律法を成就されるということも、罪人たちと親しくすることも受け入れることができませんでした。そこに癒やしと悪霊の追い出しまでが加わり、「この人がダビデの子、メシアなのではないだろうか」と群衆が熱狂し、群衆がイエス様をメシアとして受け入れる可能性が見えたことが、パリサイ人たちの神経をさらに逆なでしたのです。そして以前と同じようなことが起こった今日の箇所では、イエス様を通して力あるわざをなさる、その力の源なるお方を「悪霊どものかしら」と言うにとどまらずに、なんと「ベルゼブル」とまで言ってしまったのです。

もし彼らが「悪霊どものかしら」と言っただけならば、悪魔の力を借りて魔術を行う事は石打ち刑に処される罪でしたから、うまくいけばイエス様を殺せると、彼らはそう考えたのだろうと、私はそう思います。しかし彼らはつい口がすべってしまったのでしょうか。「ベルゼブル」と言ってしまった。「ベルゼブル」とは、悪霊中の悪霊、悪魔と呼ばれるサタンを意味する当時の俗語ですが、文字そのままの意味では「ハエ大王、汚物大王」です。彼らは素晴らしい癒しのみわざをなさる力の源なるお方をほめたたえるのではなく、汚い俗の言葉で貶(おとし)めた、見下して、蔑んだのです。揶揄した(からかった)のです。そんな彼らの思いが「ベルゼブル」と呼んだ言葉の中に表れているような気がします。

12章25節    イエスは彼らの思いを知って言われた。「どんな国でも分裂して争えば荒れすたれ、どんな町でも家でも分裂して争えば立ち行きません。

主は人の心の思いをすべて聞き取られご存じのお方です。イエス様は彼らの思い、心の内を見抜いて言われました。「どんな国でも分裂して争えば荒れすたれ、どんな町でも家でも分裂して争えば立ち行きません」。どんな国でも、どんな町でも、どんな家族でも、どんな会社でも、どんな教会でも、そこに分裂が起こると争いが起こり、立ち行かなくなってしまう。続けて行くことができなくなる。その実例を私たちも色々と見て来て知っているのではないでしょうか。

12章26節    もし、サタンがサタンを追い出しているのなら、仲間割れしたことになります。それなら、どのようにしてその国は立ち行くのですか。

心に留めたいのは、「神の国(神を王とする、神が支配する王国)」と同様に、「悪霊の国(サタンを王とする、サタンが支配する王国)」悪もあるということです。神の国はあなたがたのただ中にあるとイエス様は言われました。と言うことは、悪霊の国も私たちのただ中にあるということでしょう。聖書もそれを否定していません。「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです」(エペ612)とエペソ書で言われているとおり、神の国に属する私たちは、悪霊がいまだ支配するこの世にあって色々な戦いにさらされているのです。未だ悪霊の国と思しき世の現実があります。イエス様は悪霊と対峙されるお方であり、仲間ではありません。イエス様は悪霊と戦い、私たちを、国を、町を、家庭を、また教会を助けてくださる、守ってくださる、救ってくださるお方です。悪霊が仲間割れしてくれればそれに越したことはありません。勝手にその国、支配は立ち行かなくなるのですから。しかし悪霊どもは堅く結束して、絶えず賢く、国や町や家庭や教会に疑いやつまずきをもたらし、争いをもたらし、神から離れさせ、勝手に滅んで行くように仕向けているのです。

12章27節    また、もしわたしが、ベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているとしたら、あなたがたの子らが追い出しているのは、だれによってなのですか。そういうわけで、あなたがたの子らが、あなたがたをさばく者となります。

「あなたがたの子ら」は、「あなたがたの仲間たち」ともとれる語です。使徒の働きでは「ユダヤ人の巡回祈祷師」なる人たちが登場し、悪霊につかれている人たちから悪霊どもを追い出していたようです。ユダヤ人巡回祈祷師が病気を癒やしていました。そしてパリサイ人たちは彼らを認めていました。それならば、あなたがたの仲間、同胞でありその働きを認めている彼らがしていることは、何によるのか。その力の源は何であるのか。悪霊のかしらベルゼブルか。ハエ大王、汚物大王か。もちろん彼らは違うと答えるでしょう。では何だと言うでしょう。

12章28節    しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。

とても重要なことを言われています。イエス様が悪霊どもを追い出す、人のあらゆる病、わずらいを癒やすという働きは、神の御霊によるのだということです。

神の御霊、神の聖なる霊、聖霊、神の心。それは神の愛、あわれみ、父なる神が子に注がれる親心です。もし神の御霊によって悪霊が追い出されているのならば、「悪霊の国(サタンを王とするサタンが支配する国)」は打ち破られ、「神の国(神を王とする神が愛とあわれみをもって支配する国)」がすでにあなたがたのところに来ているのです。そしてあなたがたがその目で見ている通り、その通りのことが起こっているのです。

12章29節    まず強い者を縛り上げるのでなければ、強い者の家に入って家財を奪い取ることが、どうしてできるでしょうか。縛り上げれば、その家を略奪できます。

私たちにはピンと来ないかもしれませんが、29節はイザヤ書49章24〜25節の引用です。「……まことに、主はこう言われる。『捕らわれ人は勇士から取り戻され、奪われた物も横暴な者から奪い返される。あなたが争う者と、このわたしが争い、あなたの子らを、このわたしが救う」(イザ4924-25)。

強い者とはサタンのことです。そして強い者と争い、強い者を縛り上げるお方は神の御霊とともに働かれるイエス様。そして「家財」とありますが、これは家にある財産という意味の他に、「容器(それもただの容器ではなく慈悲の器、神があわれみを注がれる器)」という意味もある語です。それはつまり、サタンに捕らわれた人、神があわれみを注がれる人、「我が子よ」と呼ばれるその人のことでしょう。聖霊、そしてイエス様はサタンを縛り上げ、父なる神があわれみを注がれる器、捕らわれ人を奪い返すことのできるお方です。イエス様は働きに先立って、聖霊に導かれて荒野に行き、サタンの試みにあわれました(41-11)。その時イエス様を自分に従わせようとしたサタンの試みは失敗しました。イエス様はサタンを縛り上げられたのです。すでにサタンに完全勝利されているのです。それでサタンはイエス様には直接対抗できないのです。それで弱い人を攻撃してくるのです。しかしサタンはイエス様に「この人から出て行け」と言われれば、出て行かざるを得ないのです。私たちは常に目に見えない霊的な世界において悪霊の誘惑にさらされ失敗してしまうような者、弱さを覚える者であっても、このような権威によって、愛とあわれみのうちに常に守られていることに目を留め、覚え、感謝したいと思います。

12章30節    わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしとともに集めない者は散らしているのです。

味方と敵、集める者と散らす者。ここに真逆の立場があります。パリサイ人はイエス様に対する敵対心を明確にしました。それを聞いて、どちらにつこうかと迷っている人に対して、どっちつかず、中立の立場はないのだとイエス様はここで語られているのです。決断を迫られるのです。「私は、いのちと死、祝福とのろいをあなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためである。まことにこの方こそあなたのいのちである」(申3019-20)。

イエス様はパリサイ人たちの暴言を例に取り、彼らはじめここにいるすべての人々に対して改めて語り始められます。どんな罪も赦されるけれども、明らかに聖霊のわざとわかることを悪霊に帰するような、神の御霊、神の心、愛に対する冒瀆は永遠に赦されないと警告されます。

12章31節    ですから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒瀆も赦していただけますが、御霊に対する冒瀆は赦されません。
12章32節    また、人の子に逆らうことばを口にする者でも赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、この世でも次に来る世でも赦されません。

マルコの福音書ではこのように言われています。「まことに、あなたがたに言います。人の子らは、どんな罪も赦していただけます。また、どれほど神を冒涜することを言っても、赦していただけます。しかし聖霊を冒瀆する者は、だれも永遠に赦されず、永遠の罪に定められます」(マコ328-29)。

冒涜とは、悪口を言ったり、根拠のない嘘やでたらめを言って名誉を傷つけたり、乱暴な言葉、口汚い言葉をはくこと、また神聖なものを汚すことを言います。

すべての人はどのような罪も赦していただけます。そしてイエス・キリストの十字架と復活を信じるならば、その信仰のゆえに、すべての罪、過去・現在・未来の罪はすべて赦していただけます。また、どれほど神を、そして人の子(イエス・キリスト)を冒瀆することを言っても赦していただけます。神に対して、イエス様に対して、何かの誤解から悪口を言ってしまったり、無知のゆえに根拠のない嘘やでたらめを言って名誉を傷つけてしまったり、乱暴な言葉、口汚い言葉を言ってしまっても赦していただけます。何かの誤解から「神さまのわからずや、イエス様の馬鹿」と言っても赦されるのでしょう。しかし、明らかにイエス様が御霊を通して働かれることをその目で目撃したのに、それを故意に否定して、御霊を冒瀆すること、聖霊に逆らうことを言うことは絶対に赦されないのだと、イエス様は教えておられます。父なる神が、イエス・キリストを通して愛とあわれみ、ただ子を愛する親心によってなしてくださる恵みのみわざ。そこに込められている神の心を悪く言ったり、口汚く罵ったりすることは、決して赦されないのです。

私も一つの例を上げてお話しするなら、昔の若かりし頃の私は、両親が一生懸命していること、仕事のこと、家庭のことを馬鹿にしたりしました。でもそれはすべて子を思う親心のゆえのものでした。だだをこねる子のためにしてやりたいことがあっても、事情によって出来なかったこともあったと思います。その時の親の悲しさ、悔しさ、そのような親心もあったでしょう。親を馬鹿にしても良い。親のしていることをののしっても良い。けれども、子を思う親心を知っていながら、それを冒瀆してはいけない。子に対する親の愛、あわれみ、心を知っていながら、それを見下してはいけない。その愛が真実であればあるほど、その愛を冒瀆するならそれは赦されないことなのです。それだけは神がさばかれるのです。「両親を敬いなさい。あなたの日々が長く続くようにするためである」(申2012)と十戒で言われているのは何か関係がありそうです。子を思う父なる神の思い、神の感情、神の心、神の霊、御霊、聖霊を冒瀆してはならないのです。

パリサイ人たちは、妬みに燃えて、理性を失い、つい口がすべってしまい、力の源なるお方、神の心、御霊、聖霊に対して「ベルゼブル、ハエ大王、汚物大王」と言ってしまったのでしょうか。冒瀆してしまったのでしょうか。そうではないと、イエス様は警告されます。

12章33節    木を良いとし、その実も良いとするか、木を悪いとし、その実も悪いとするか、どちらかです。木の良し悪しはその実によって分かります。

立派に枝を伸ばし、その枝には青々とした緑の葉っぱをたくさん付けていて、見るからに素晴らしい木であったとしても、その木に実る実が問題となるのです。実は人目に付かないところで密かに木によって育まれ、時が来ると実がなるのです。もちろんこれはパリサイ人を喩えたものです。パリサイ人のように、いくら自分を宗教的に美しく立派に着飾ったとしても、心は表に現れてくるもの、あなたがたが結ぶ実によって証明されるということです。パリサイ人たちが御霊を冒瀆し逆らうのは、彼らの心は善であるのに、神学的な無知や誤解があったからではありません。その逆でした。

12章34節    まむしの子孫たち、おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えますか。心に満ちていることを口が話すのです。

彼らが御霊を冒瀆し逆らうことを言うのは、彼らが悪い心を持っていて、その心に満ちていることを口が話すからなのです。

12章35節    良い人は良い倉から良い物を取り出し、悪い者は悪い倉から悪い物を取り出します。

当時、倉というのは家の中で唯一鍵のかかる場所であり、大事にしているものをしまっておく所でした。これもまた喩えです。倉は私たちの心です。誰にも分からないように秘密にしておきたい思いを保管している所です。本当の自分がそこに密かにしまわれているのです。これまで見て来たこと、聞いてきたこと、経験してきたこと、色々なことを通して育まれてきた様々な知識・感情・意志などが大切にしまわれている所です。そしてその人の口から出る言葉というのは、良くも悪くも話す人の心を反映しているものとなるのです。パリサイ人たちが口にした御霊に対する冒瀆。それはつい口からポロッと出てしまったかもしれない悪い言葉は、その人の心というところから出て来たものであり、突然口から飛び出したものではなく、ずっと心にあったものなのです。実はそれが本当の彼らなのです。パリサイ人たちが聖霊に逆らうことを言うのは、「ベルゼブル、ハエ大王、汚物大王」とくだらない子どもじみた皮肉、それゆえにまったく無害に思えることばであったとしても、それが間違いなく彼らの悪の心の反映であり、神はそれを厳しいさばきの根拠、判断材料となさるのです。

そしてこの原則は、この一つの例を通して、もっと広い範囲にまで適用されます。

12章36節    わたしはあなたがたに言います。人は、口にするあらゆる無益なことばについて、さばきの日に申し開きをしなければなりません。
12章37節    あなたは自分のことばによって義とされ、また、自分のことばによって不義に定められるのです。」

イエス様は日常で不注意に言ってしまう言葉も含めて、すべての言葉がさばきの対象になると言われます。「申し開き」とは「清算する」という意味の語です。明らかに終わりの日の神の御前に立つさばきを表しています。私たちは終わりの日に、自分が話したすべての言葉について神にさばかれるのです。このイエス様の警告の意味は何なのでしょうか。それは、心を良いものでいつも満たしていなさいということではないでしょうか。

パリサイ人たちはイエス様が悪霊につかれた人を神の御霊によって癒やされたみわざを見て、イエス様に敵対心を燃やすあまり、それは悪霊のしわざだと言って攻撃しました。彼らはイエス様を最初は疑う程度でしたが、数々のしるしを目撃するごとに、イエス様を信じ、イエス様を通して現される神の愛とあわれみをほめたたえるどころか、やがて敵対心をあらわにし、露骨に攻撃するようになっていきました。彼らは罪人があわれまれ、行いによらずただ神の愛とあわれみ、恵みによって癒やされ、救われ、喜びに満たされていることが気に入らなかったのでしょう。イエス様の素晴らしさと、イエス様によって癒やされた人の幸せをねたんでいたからでしょう。妬みや憎しみは、人の心と目を曇らせ、心を頑なにしてしまいます。私たちの内に、私たちの心と目を曇らせ、心を頑なにしてしまう考えはないでしょうか。私たちは聖霊に満たされて、聖霊を通して神の愛が注がれている者として、世の罪人らに現される神の愛とあわれみ、恵みにしっかりと目を留め、妬んだり憎んだりするのではなく、愛とあわれみの神をほめたたえ、賛美するものでありたいと願います。パリサイ人たちのような不信仰に陥ってしまわないように、自分を良く省みて、悔い改め、心に神の良いものを満たせるように、御霊のあわれみを求めましょう。神の愛によって心を聖くしていただきましょう。そうすれば、さらに神の愛とあわれみ、神の御霊による驚くばかりの恵みのみわざに目が開かれ、私たちの心は感謝と喜びで満たされて行くことでしょう。

うわべをいくら飾っても、心にあるものは日常の何気ない言葉によって明らかになります。私たちは心に何を蓄えているでしょうか。自分の言葉に対してもっと慎重になり、その点でも聖くあることを心掛けてよく注意していたいと思います。心は誰にも見せることはありません。しかし、何気なく口にする言葉に、自分の心の状態、霊的状態が表れているのです。

それに私たちの心は決して良いものばかりで満ちているわけではありません。絶えず聞こえて来る自分の心の声。もしすべて人に聞かれてしまうとしたら恐ろしくないでしょうか。絶えず聞こえて来る自分の心の声が、いつも喜びであったり、祈りであったり、感謝であるならば神は喜ばれるでしょう。しかしそうではなく、汚い思いで満ちている私たちの心の声すべてを聞いておられる主は、それでもなお私たちを愛してくださっています。その驚くばかりの愛を、神のお心を、神の御霊を冒瀆してはならないのです。悪く言ったり、暴言を吐いたり、下品な言葉で見下してはなならい。それだけは赦されないことなのです。それほど神の愛は偉大なのです。

パウロは祈ります。「どうか、あらゆる霊的な知恵と理解力(洞察力)によって、神のみこころについての知識に満たされますように」(コロ19)。私たちもこの祈りを祈り、体の中に宿る知識・感情・意志、すべての働きのもとである「心」の倉に、良いもの、神の愛をいっぱいに満たしてまいりましょう。そしていつも主を喜び、主に喜ばれる日々を歩んでまいりましょう。

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