2023年10月22日 主日礼拝「答えられる祈り」

礼拝式順序

前奏(黙祷)
賛  美  韓日頌歌483「主イエスの前に出で」
      讃美歌461「主われを愛す」
招  詞  詩篇34篇17〜18節
讃  美  讃美歌11「あめつちにまさる」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白  讃美歌566「使徒信条」
主の祈り  讃美歌564「天にまします」
祈  祷  
讃  美  讃美歌324「主イエスは救いを」
聖書朗読  マタイの福音書15章21〜28節
説  教  「答えられる祈り」佐藤隆司牧師
讃  美  讃美歌339「君なるイエスよ」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 詩篇34篇18節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

マタイの福音書15章21〜28節

説教題

「答えられる祈り」

今週の聖句

主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ
霊の砕かれた者を救われる。

詩篇34篇18節

説教「答えられる祈り」

マタイの福音書15章21〜28節

先週は講壇交換でした。お祈りに覚えていただき、無事に伊那聖書教会に行って帰って来ることができて感謝でした。実は伊那に行ったのは初めてでした。普通列車で行ったのですが、片道3時間かかりました。随分遠くまで来たものだと思いました。しかし、当たり前ですが、ここにも多くの人が住み、生活している。先週の大杉師の説教ではないですが、ここにも漠然と神を求め、救いを求めている人たちがいる。そしてここにも神がおられ、治められ、同じキリストをかしらとする地上での神の国である教会があり、神のことばが宣べ伝えられ、ここでも神の国はからし種、パン種のように拡大成長しているのだなぁと、しみじみ思わされたところです。伊那聖書教会のホームページを見て教えられたのですが、伊那聖書教会の始まりは、1952年にTEAM宣教団の宣教師ミルドレット・スイフト師とフィリス・チェンバレン師が飯田視察の際に、なぜか(理由は分からないそうです)当時の伊那町で途中下車し、古い集乳所を宣教師館として購入し、宣教を開始されたそうです。それから色々ありまして、1962年にTEAM宣教団が伊那宣教から撤退を決定し、新任の日本人牧師にすべてを任せ、スイフト師とクララ・ロビンソン師が長野市の長野福音教会と安茂里聖書教会に転任されたと記されていました。伊那聖書教会と長野聖書教会は何やら深い関係があったようです。それにしても宣教師の働きというものは凄いです。特にTEAM宣教団が大切に引き継いできた精神(スピリット)というものが4つありまして、それは「犠牲を惜しまない宣教の姿勢」、「未伝地に向かった救霊の情熱」、「世界的な広い視野に立った宣教」、「主イエス・キリストの再臨を待ち望む緊迫感のある宣教」というものです。宣教師たちのこれらのスピリットによって私たちの教会は生み出されたのです。私たちはその恩恵に与るばかりでなく、私たちもこのスピリットを引き継いで行かなければならないと思います。イエス様は私たちにも宣教を命じられているからです。「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」(マタ2819)と。

さて、今朝の箇所であるマタイの福音書15章21〜28節ですが、ここにも「犠牲を惜しまない宣教の姿勢」、「未伝地に向かった救霊の情熱」、「世界的な広い視野に立った宣教」、「主イエス・キリストの再臨を待ち望む緊迫感のある宣教」のスピリットが垣間見えるところだと思います。イエス様とはある理由があって、弟子たちとともに異邦人の地、福音未伝の地へと入って行かれました。

15章21節    イエスはそこを去ってツロとシドンの地方に退かれた。

前の本文で、イエス様はパリサイ人の律法を利用した偽善を痛烈に批判しました。そしてパリサイ人の考えでは「汚れた異邦人の地」であるツロとシドンの地方に入られました。ツロはガリラヤから約50㎞、シドンは約80㎞離れた地中海沿岸の町です。長野市から松本市までが約70㎞ですから、イエス様の時代ですとまあまあの距離です。ちなみに松本市まで徒歩だと歩き通しで約17時間かかるようです。イエス様一行は2〜3日かけてその地方まで行かれたのでしょうか。そこにも普通に多くの人が住み、生活していました。汚れた異邦人の地と言われ、偶像礼拝が盛んな地ではありましたが、ここにも漠然と真の神を求め、救いを求めている人たちがいたのでしょう。

イエス様がなぜそのような地に行かれたのかについての説明はありません。特別に誰かに会うためではなかったようです。マルコの福音書7章24節によると、「家に入って、だれにも知られたくないと思っておられたが、隠れていることはできなかった」からのようです。イエス様はエルサレムからわざわざやって来たしつこい敵対者や、ご自分を王に祭り上げようとする群衆を避けられたのでしょうか。彼らはこの汚れた地にまでは追いかけて来ないだろうという、どこか消極的なお考えだったのでしょうか。あるいは、「隠れていることはできなかった」というギリシア語には、「自分に嘘をつくことはできない、目をつぶることはできない」という意味もあることから、「ご自分の中にある思い、欲求を抑えつけて我慢していることはできなかった」というふうにもとれるように思います。それは何かと言うと、今日の文脈から考えると、やはり「犠牲を惜しまない宣教の姿勢」、「未伝地に向かった救霊の情熱」、「世界的な広い視野に立った宣教」、「主イエス・キリストの再臨を待ち望む緊迫感のある宣教」にも通じるものがあったのではないかと思うのです。

15章22節    すると見よ。その地方のカナン人の女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が悪霊につかれて、ひどく苦しんでいます」と言って叫び続けた。

マタイは「すると見よ」と、突然、あるいは偶然の出来事のように注目させます。しかしこれもまた大杉師の説教でも言われていた「神の摂理、ご配慮」の中で起こったことなのでしょう。

その女性はカナン人でした。マルコの福音書によると、彼女はシリア・フェニキア生まれのギリシヤ人(異邦人)でした。ツロはフェニキアにある港町です。この女性はガリラヤとの境界地域に住んでおり、イエス様の悪霊を追い出す働きについて噂のように聞いていたのでしょう。

カナンと言えば、偶像礼拝が盛んな地で、そこには悪が満ち、かつて神から聖絶するように命じられた町もありました。ここに登場するカナンの女性も、悪霊につかれてひどく苦しんでいる娘の癒しを求めて、様々なカナンの神々に頼ってみたのでしょう。しかし一向に癒やされる気配がない。カナンの地の人々、あの人も、この人も、神々を求めているけれども、本当にその神々は神なのだろうか。そのような疑問、また真の神を漠然と求める思いがあったのではないでしょうか。そこに噂のイエス様が現れたのです。なんとカナン人の女性は「主よ、ダビデの子よ、メシア救い主よ」とイエス様を呼び求めました。叫び求めました。憐れみを求めたのです。良く知ってはいないイエス様にすがったのです。そしてイエス様の後をついてまわり、憐れみを求めて叫び続けました。どうしてこのようななりふり構わない行動に出ることができたのでしょうか。彼女の娘が悪霊につかれて、ひどく苦しんでいたからでした。彼女も苦しんでいたからでした。もう神の憐れみを求めるしか方法がなかったからでした。必死だったのです。必死に求めたのです。私たちの周りにもそのような方々がおられないでしょうか。イエス様がご覧になっているように、私たちも霊の目を開いていただき、イエス様の視点から世の中を見させていただきたいものです。

15章23節    しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。弟子たちはみもとに来て、イエスに願った。「あの女を去らせてください。後について来て叫んでいます。」

女性がずっと叫び続けていたのに、イエス様はひと言も返答されませんでした。イエス様はしかめっ面をして、迷惑そうに彼女の叫び求めを聞いておられる。なんて冷たいお方なのだろうか。私は、はじめそう思っていましたが、何度も読み返していくうちに印象が変わりました。しかも主は傷ついた心を決してさげすむことのないお方です。イエス様は柔らかな表情で異邦人の女性の叫び求めをずっと背中で聞いておられたのではないだろうか。弟子たちも異邦人の女性も、イエス様の後をついて行ったのですから、イエス様の表情は見ることはできなかったでしょう。しかしイエス様の後ろ姿が醸し出す雰囲気というのは、慈愛に満ちた、あわれみに満ちたもので、弟子たちも異邦人の女性もそれを感じ取っていたのではないだろうか。

ユダヤの地でイエス様は多くの異邦人をも、彼らの信仰によって癒やされました。代表的な例としてローマの百人隊長のしもべ。この時、イエス様は異邦人である百人隊長の信仰を見て大変喜ばれました。そして弟子たちに言いました。「まことに、あなたがたに言います。わたしはイスラエルのうちのだれにも、これほどの信仰を見たことがありません」(マタ810)。振り返って百人隊長に言いました。「行きなさい。あなたの信じたとおりになるように」。すると、そのしもべは癒やされたのです(813)。このような出来事を目の当たりにした弟子たちですから、イエス様の後ろ姿から醸し出される雰囲気と、異邦人の女性の必死の叫び求め、それは完全ではなかったかもしれませんが、イエス様に対する信仰でしょう。その信仰にきっと主は答えてくださるのだろう。それなのになかなか答えてくださらない。そこで弟子たちはイエス様に自分たちの願いを申し上げたのです。「あの女を去らせてください。後について来て叫んでいます」。「去らせてください」とは、「うるさいあの女を追っ払ってください」ではありません。「主よ、あなたはきっとあの女のあれほどの叫び求めに答えてくださるお方です。であるならばすぐに答えてあげてください。そうすれば彼女は去ることができるでしょう」。弟子たちの信仰です。とりなしです。弟子たちのあるべき姿をここに見るのではないでしょうか。

異邦人の女性も、イエス様の慈愛とあわれみに満ちた後ろ姿、そして弟子たちのとりなしを聞いてますますイエス様に対する信仰が励まされたのでしょう。これまで自分が仕え、また頼って来た神々とは違う。木や石で出来た冷たい偶像、目があっても見えず、口があっても語れない偶像ではなく、生きて目の前を歩いておられる、生きたみことばを発せられるイエス様が今、目の前におられる。せめて御声だけでもお聞かせください。異邦人の女性の信仰も高められたのでしょう。私たちは今も生きておられる主に対して、これほどまでに必死にみことばを求めて祈っているでしょうか。

そこでようやくイエス様が御声を発せられました。

15章24節    イエスは答えられた。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません。」

イエス様はようやく口を開いて、弟子たちに答えられました。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません」。これは弟子たちを悩ませ、深く考えさせるおことばだったと思います。ではなぜ、わざわざ異邦人の地に入られたのか。以前は異邦人を癒やされたのに、今回はすぐには癒やされないで、自分たちに向かってどうしてこのようなことを言われるのだろうか。

ポイントは、ここが異邦人の地であったということです。

15章25節    しかし彼女は来て、イエスの前にひれ伏して言った。「主よ、私をお助けください。」

弟子たちに向かっての言葉でしたが、彼女はようやくイエス様の御声を聞くことができました。するとイエス様の後ろから前に回り込んで、イエス様の前にひれ伏して言いました。「主よ、私をお助けください」。それまでは後ろからついて回って、立ったまま、まるで神ならば願いを叶えるのが当たり前だというような、偶像に慣れ親しんだ者の常識を超えて、今度はイエス様の御声を聞いて、イエス様の前にひれ伏して請い願ったのです。かつてツァラアトに冒されたあるユダヤ人がイエス様のみもとに来て、イエス様に向かってひれ伏したことがありました。その時彼は言いました。「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」(マタ82)。その人はイエス様が自分を癒やすことのできるお方であることを信じていました。けれども癒やしてくれることを当然のこととは考えていませんでした。「あなたのお心一つで、あなたのみこころであるならば、どうぞ私をあわれみ癒やしてください。お救いください」、そう願ったのです。それと同じ心となり、異邦人の女は異邦人の地でイエス様の前にひれ伏しました。真の神に対する、真の信仰を見せたのです。

イエス様は神です。心を本当に見られるお方です。この時、イエス様は異邦人の女性の中に真の信仰が芽ばえたことを見て、それは喜ばれたのではないでしょうか。偶像礼拝に満ちた、神々があふれるこの地にも、唯一真の神を求め、信じる真の信仰があることをご覧になって、それは嬉しかったのではないでしょうか。

ここで思い起こすのはアブラハムのことです。当時アブラムと呼ばれていた彼の生まれ故郷のウルは月を神とする偶像礼拝の町でした。父も、祖父も、親戚たちも、あの人もこの人も月を見ては神と呼び拝んでいました。しかしアブラハムは疑問に思ったのです。本当にそうなのだろうか。夜空を見上げ、月や星を見上げ、そうではない、真の神がおられるはずだと、神を求めたのです。偶像礼拝の町で、一筋の光のような信仰を、神が天から見られ、それは喜ばれ、待ってましたとばかりにアブラハムを掴み選び取ったのです。そして生涯を、子孫に至るまで祝福してくださいました。そのように、イエス様も偶像礼拝に満ちた異邦人の地に住む異邦人の女性の中に、このような信仰を見られてそれは喜んだことでしょう。ここにもわたしを求める人がいる、わたしを求める信仰が芽ばえるのだと。

私たちの内にも、様々な「ここ」があります。苦しみ、悩み、試み。そのようなところで偶像ではなく真の神を求める信仰が芽ばえる。そのようなところでこそ、十字架にかけられ死なれ、しかしよみがえられ、今も生きておられるイエス・キリストを真実に求める信仰が芽ばえる。生きた御声を聞かせてくださいという飢え渇きを伴う信仰が芽ばえる。その信仰を主はご覧になり、喜ばれる、受け入れてくださるのです。

15章26節    すると、イエスは答えられた。「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」
15章27節    しかし、彼女は言った。「主よ、そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」

イエス様の答え、御声は女性を冷たく追い払うものだったのでしょうか。そうではないと思います。これはイエス様と女性との間だけに築き上げられた特別で親密な関係性の中での、何か小気味よささえ感じる問答のように思われないでしょうか。イエス様の口角はへの字に下がっていたのではなく、にこやかに上がっていたのではないでしょうか。そして女性も、イエス様の暖かな問いに賢く答えました。イエス様との問答を喜んでいるようにも思えます。私たちもイエス様との問答を喜び楽しみたいものです。それは主との対話です。偶像に対する一方通行の押しつけるような祈りではなく、生きた神との生きた対話をもって、主の御心を求め知っていきたいものです。それは主への信仰、信頼がそこにあれば、とても喜ばしく楽しい貴重な時間となるでしょう。

さてここで、異邦人の地に住む異邦人の女性を通して聖書が私たちに教えていることとは何でしょうか。

それは、どこまでも謙虚な姿勢で神の恵みを求めるということでしょう。ユダヤ人たちは自分たちが選ばれた者たちであるという自負心から、神の恵みは自分たちに与えられて当然という傲慢な態度をとっていました。今日の女性の態度はそれとは対照的です。

また、イエス様のことばを素直に受け入れたという点も素晴らしいです。イエス様は、ユダヤ人に与えられている恵みを異邦人に与えるのはよくないと、彼女の申し出を断るようにして言いました。しかし彼女は「主よ、そのとおりです」と、イエス様のことばを素直に認めているのです。もし私であれば、自分の一生懸命な申し出を断られたら「もう二度と頼むものか」と言って腹を立ててしまうかもしれません。しかし彼女はそのような不信仰な態度はとりませんでした。信仰というのは、主が語られることが自分に都合の悪いことであったとしても、それを素直に受け入れることです。

さらにもうひとつ、彼女はイエス様のことばに対する素晴らしい霊的理解力があったということ。イエス様が彼女に語ったことばは、いわゆるたとえによる謎かけのようなものでした。彼女はそれを見事に理解したのです。恐らくそばで聞いていた弟子たちでも、このことばが何を意味しているのかすぐには分からなかったのではないかと思います。弟子たちはいつもイエス様が語られるたとえに対して説明を求めています。それなのに異邦人であるこの女性はすぐに理解することができました。なぜでしょうか。イエス様に集中していたからでしょう。イエス様のみことば一つも聞き逃すまい、イエス様の動きひとつを見逃すまい、イエス様が醸し出す雰囲気、場の空気、すべて必ずそこに何か意味がある、意図があると、イエス様から目を離さないでいたからでしょう。私たちもこの異邦人の女性のように、真の信仰をもって主の語りかけを、主の意図が本当に分かるまで、粘り強く求め、主の前にとどまり、待ち望む者でありたいと思わされます。

15章28節    そのとき、イエスは彼女に答えられた。「女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように。」彼女の娘は、すぐに癒やされた。

イエス様は、異邦人の女性のこのような信仰に答えられました。そして女性が願うとおり、彼女の娘はすぐに癒やされたのです。

「その信仰があなたとあなたの娘を癒やす。その信仰があなたを救う」のです。異邦人のように、自分を癒やしてみろ、救ってみろ、癒やして当然、救って当然では駄目なのです。例えば私たちは「私たちの罪を、負い目をお赦しください」と日々祈りますが、その祈りも私たちは主の前にへりくだって必死に祈り求めるのです。「私の罪は、私の負い目は決して赦されるものではないでしょう。しかしどうか私を憐れんでくださり、イエス様の十字架の故に、あなたの全能なるお力によって、どうか恵みによってお赦しください」と祈るのです。私たちは何か良い行いによって救われるのではありません。しかし主は、私たちの心はご覧になります。主はまことに、心砕かれた者のすぐそばにおられるのです。「苦しむ者が叫ぶと、主は聞かれ、そのすべての苦難から救い出してくださる。主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、霊の砕かれた者を救われる」(詩3417-18)。聖書が一貫して言っていることです。主の前に高慢な者は退けられる。これもまた聖書が一貫して示していることです。神であられる主イエス・キリストがへりくだられ、人の姿となられ、十字架の死に至るまで人々を愛され仕えられた。この主の前に私たちはさらにへりくだるのです。それこそ地にひれ伏すのです。罪人をさげすむことなく、微笑みかけさえしてくださる主の前に、私たちは高慢にならずに恐れをもってへりくだってまいりましょう。恵みを、親しさをはき違えてはなりません。イエス・キリストは真の全能の神であられます。このお方の前にへりくだり祈り求めるならば、主は親しく語りかけてくださるでしょう。「子よ。しっかりしなさい。立って歩きなさい。あなたの信仰は立派です。健やかでいなさい。あなたの罪は赦された。あなたが願うとおりになるように」と。

このように素晴らしい主を、素晴らしい恵みに与っている私たちは、真の神を求めている世の人々に宣べ伝えて行くのです。天の御国の福音は、未伝地であるツロとシドンの地方に住む、ひとりの真の神を求める異邦人女性のところにもたらされました。イエス様の隠されていた御心、異邦人の地に住む異邦人であっても、すべての人々を愛し、真の信仰を与え、そして救いたいと願われる主の御心、情熱が明らかにされました。全世界に出て行って福音を宣べ伝えよとの「大宣教命令」がここに見え始めました。「犠牲を惜しまない宣教の姿勢」、「未伝地に向かった救霊の情熱」、「世界的な広い視野に立った宣教」、「主イエス・キリストの再臨を待ち望む緊迫感のある宣教」。私たち同盟教団が掲げるこのスピリットは、イエス様のスピリットそのものでしょう。

今日の箇所では、答えられる祈りがどのようなものであるのか。そして私たちが引き継いで行くべきイエス様の宣教スピリット、この二つを見ることができました。ただ信仰によって、恵みによって救われた私たちは、この2点において(祈り、宣教)も、今日からも主の御心にかなった、主に喜ばれる歩みをしてまいりましょう。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

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