2024年1月14日 主日礼拝「神によって建てられる教会」

礼拝式順序

賛  美  新聖歌258「墨よりも黒き心なれど」
      新聖歌531「心のおごとに」
前奏(黙祷)
招  詞  詩篇65篇1〜4節
讃  美  讃美歌3「あめつちのみかみをば」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白  讃美歌566「使徒信条」
主の祈り  讃美歌564「天にまします」
祈  祷  
讃  美  讃美歌354「かいぬしわが主よ」
聖書朗読  マタイの福音書18章10〜20節
説  教  「神によって建てられる教会」佐藤隆司牧師
讃  美  讃美歌537「わが主のみまえに」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 マタイの福音書18章20節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

マタイの福音書18章10〜20節

説教題

「神によって建てられる教会」

今週の聖句

二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。

マタイの福音書18章20節

説教「神によって建てられる教会」

マタイの福音書18章10〜20節

この世の会社などの組織というのは、上に立つ人、究極的にはトップによって決まると言っても良いのではないでしょうか。私がギデオン協会の会員であった頃、3年に一度、北信地域すべての中学を回るというのを繰り返していたのですが、その学校の教頭先生(なぜか校長ではなく)によって学校の雰囲気が全然違うということを経験しました。3年前に来た時はとても明るくて良い雰囲気の学校だったのに、急に閉鎖的な重苦しい雰囲気で、実際に学校の周りに前回にはなかった金網のフェンスがぐるりと設置されていたり、生徒たちの顔も暗く、あいさつもできない。どこかの学校に似てきたなと思ったら、そのどこかの学校の教頭先生が赴任して来られていた、ということもありました。組織である以上、そこにはどうしても人と人との上下左右の関係が大きく影響してきます。そこで働く人にとっては組織の人間関係の善し悪しというのは、業績にも関わるとても重要なものだと思います。そして不思議と、トップに立つ人の、人に対する態度や対応が組織のカラーを決めるものなのだと、最近特に思わされております。この世の会社や学校ばかりではありません。教会も同じです。しかし皆さんお間違えのないようにお願いしたいのですが、教会の上に立つ人たちは役員ではありませんし、教会のかしらは牧師ではなく、イエス様です。牧師に変に影響されてしまったら教会はおしまいです(!?)。牧師はじめキリストの教会に召し出された者すべて、「墨よりも黒き心なれど」の賛美の歌詞ではないですが、日々おのれを捨て、十字架を取り、ただ主に従い道を歩まなければならないのです。

私たちは今、マタイの福音書の講解を進めてきております。共観福音書と呼ばれるマタイ、マルコ、ルカの福音書には、イエス・キリストの生涯とそのわざ、また教えが描かれていますが、教会生活についてそれほど多くの教えを与えていません。使徒の働きやヨハネの黙示録など特に顕著ですが、新約聖書の書簡を読むと、当時の聖徒(キリスト者)たちがいつもイエス様の教えを完全に行って、天の御国の民として完璧に歩んでいたかというと、そうではないことが分かります。むしろ彼らは日常の交わりや宣教を続けるために、あらゆる神学的、倫理的な問題を解決していかなければなりませんでした。事実、新約聖書の大半、特に牧会書簡と呼ばれるテモテ、テトスは、そういった原始教会の必要に応えて記されたものと分かるでしょう。しかしそれらはすべて、記した人たちの自由な知恵によるものではなく、福音書が伝えるイエス様の談話を通して伝えられたもの、生きて今も生きる核心的な教えを聖霊によって示され、適用し、使徒を通して書き送られたものです。そして教会にはいつもいつの時代も教会を正しく建て上げて行くための教えが必要であることを、イエス様は認識しておられました。今日の箇所では、その「教会」についてイエス様が珍しく(?)直接的に語られます。実際、3つの福音書の中に「教会」という単語が登場するのはマタイの福音書にだけたった3回のみで、そのうち2回が本朝の箇所にあります。教会を愛され、教会の礎またかしらであるイエス様が直接教会を語る。私たちは主の前にへりくだり、心して耳を傾けてまいりましょう。

前回からこれまでの結論として言えることは、教会の中の信仰の弱い信徒たちを見下げて、つまずかせるようなことをしてはならないということです。パウロは言っていました。「信仰の強い人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません。食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったのです」と(ロマ141-3)。何を食べても良いとしている人は、ある面では信仰の強い人であり、ある面では信仰の弱い人とも言えます。野菜しか食べないという人は、ある面では信仰の弱い人とも言われますが、ある面では信仰の強い人でしょう。つまり、教会では互いに相手を見下してさばき合い、相手をつまずかせるようなことをしてはならないということです。またヤコブも言っていました。「世の権威があって富んでいる人を歓迎し、貧しく、力のない人に対しては冷たく接するようなことが教会の中で起きている(ヤコ2)と責め、それが罪であると。

そもそも「教会」というのは、ヘブル語では「カハル」、ギリシア語では「エクレーシア」、どちらも「神の御声によって召し出された者たち」、神ご自身が一人ひとりを選んで招き、そして受け入れられた者たちの集まりという意味です。教会とはそのような所なのです。ですから神は教会を愛され、また神ご自身が教会に召し出された者一人ひとりを愛し、大切にしておられます。今日の箇所でイエス様は、一人ひとりを顧みられる父なる神の愛に注目され、そして教会について語られます。

18章10節    あなたがたは、この小さい者たちの一人を軽んじたりしないように気をつけなさい。あなたがたに言いますが、天にいる、彼らの御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。

「小さい者」は、6節の「小さい者」と同じく、誰かと比較して重要度が低いと見なされる人、あるいは信仰的に未熟な人のことを遠回しに言うことばです。「軽んじたりしない」というのは、5節の「このような子どもの一人を受け入れ」、また6節の「この小さい者たちの一人をつまずかせ」てはならないという教えと同じ意味です。そして「軽んじる」という語を調べて見るととても興味深く、この語には「軽蔑する、馬鹿にする、積極的に侮辱する」という意味があるのですが、どのようにして軽蔑する、馬鹿にする、積極的に侮辱するかと言いますと、「無視することによって」という具体的な方法までも指定される語でした。「小さい者」と見なされる人が「自分は受け入れられていないんだな」と感じたり、つまずいてしまう、罪を犯してしまうのは、無視されることによって軽蔑され、馬鹿にされ、侮辱されたと感じる時なのです。その無視には色々な種類があります。見ない、口もきかないの他、意見を無視する、助けの必要を無視する、逆に今はそっとしておいて欲しいという必要を無視する場合などもあると思います。

そしてイエス様は「気をつけなさい」と言われます。「あなたがたに言いますが、天にいる、彼らの御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです」と。聖書のそこかしこに御使いの存在とその働きが記されています。「主の使いは主を恐れる者の周りに陣を張り彼らを助け出される」(詩347)とか、「主があなたのために御使いたちに命じてあなたのすべての道であなたを守られる」(詩9111)と。またヘブル人への手紙では「御使いはみな、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになる人々に仕えるために遣わされているのではありませんか」(ヘブ114)と、そう記されています。ここでイエス様が何を仰りたいかと言いますと、「神が小さい者を本当に大切にしておられる」ということです。神が小さい者たちに愛の配慮を注いでおられ、いつも彼らのことを御使いから報告を受けるほどに、神は小さい者たちのことを心に留めておられるのだから、小さい者たち「ひとりでも軽んじて」はならないということです。そんなことをしたら大変ですよ、天の御国に入ることさえできませんよと、イエス様は前回の箇所でも語られたではないですか。

さらに、神が「小さい者」たちに大きな関心をもっておられ、どんな小さな者をも見捨てられないことを示されるために、ここで一つのたとえ話しをされます。有名な迷える羊のたとえです。

18章12節    あなたがたはどう思いますか。もしある人に羊が百匹いて、そのうちの一匹が迷い出たら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。
18章13節    まことに、あなたがたに言います。もしその羊を見つけたなら、その人は、迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜びます。

旧約では、主なる神とイスラエルの民の関係を、牧者と羊の関係にたとえたことがたびたび見られます。そしてイエス様は「人の子(わたし)は、失われている者を救うために来た」ことを示されるために、このたとえを色々の機会に語られました。

当時、羊は村のものとして共同で飼われることが多かったそうなのですが、その中の羊がユダヤの高原の牧草地から迷いだし、崖から谷に落ちて死んでしまうことがよくありました。こうした迷い出た羊を、羊飼いたちはその足跡をたよりに遠くまで探しに行き、急斜面や岩の危険を冒しながらも全力を尽くして探し出し、そして連れ戻しました。こうして迷い出た一匹の羊が連れ戻されることは、村中(共同体)の大喜びとなったのです。

このような背景をもって、イエス様はつまずき迷い出た小さな者のことをたとえられました。つまずきが起こるのは避けられないのです。この世はつまずきを与える悲惨な世だからです。しかし、「つまずきをもたらす者はわざわいだ」とイエス様は言われました。この世は小さい者とされる人たちが見下げられ、無視され、後回しにされる世でしょう。そしてイエス様は、それが教会の中にも見られる可能性があるので、このような話しをされるのでしょう。

小さい者たち、それは信仰的に未熟な人、この世的に見てあまり重要性を認められない人、世は、いや教会は、そのような人たちを無視することによって軽んじる、馬鹿にするかもしれない。しかし神は、羊飼いが1匹の羊もあきらめないのと同じように、1人を大事にされる方です。神は、どのような1人のいのちも軽く考えられる方ではありません。無視することなく、それどころか特別に関心を持って注目しておられるのです。

教会の中で小さい者と見なされる誰かがつまずいてしまうのだとしたら、あるいは、初めて教会に来られた方が教会の雰囲気を察してがっかりしてしまい、再び悲惨なこの世へと迷い出てしまうのだとしたら、この神とは違う態度が教会に見えるからであるとイエス様は言われます。そしてそれを厳しく戒められるのです。そんなことになったら大変ですよ、と。

18章14節    このように、この小さい者たちの一人が滅びることは、天におられるあなたがたの父のみこころではありません。

ルカの福音書では、一人の罪人が悔い改めることの素晴らしさに注目していますが、マタイの福音書では、迷った羊を見つけたことを喜ぶ牧者の様子を描きながら、「この小さい者たちの一人が滅びることは、天におられるあなたがたの父の御心ではない」ことに注目させています。神の愛に注目させています。たとえによって神の愛というのは、まことに個人的で、忍耐強く、熱心に尋ね求めるものであることを示しておられます。

ヨハネの福音書でイエス様はこのように言われました。「わたしを遣わされた方のみこころは、“わたしに与えてくださった”すべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです」(ヨハ639)。父なる神がイエス様に与えられたすべての者、それは教会に招き、教会に召し出し、大牧者であるイエス様にお任せになったすべての者たちのことでしょう。そして神はイエス様に、ご自身が招かれたすべての人をイエス様が一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることを望んでおられる。イエス様が教会のかしらとして教会を建て上げ、大牧者として最後まで教会を守り導かれる。しかしそこは弱いようでもとても頑固な羊たちの集まり。つまずきが起こることは避けられない。そこから迷い出る小さい者たちは必ず出る。しかし、そのひとりでも滅びることは神であるわたしのみこころではない。これから主をかしらとして教会は建てられ発展し、繁栄するだろう。その影に無視され見捨てられる弱者がひとりでもいてはならない。神であるわたしはどのような小さな者も見捨てられ、拒否され、滅びるままに放っておかれることのない世を望んでいる。それこそが神の国であり、神の国を地上で表す教会はそのようなところでなければならない。

神の御心を深く自覚される教会のかしら、大牧者なるイエス様は、教会に対して厳しくも愛ある叱責を含む教えを語られるのです。神は一人ひとりを大切にされるお方。一人ひとりをかけがえのないものとして扱われる。教会(この世の神の国)に生きる聖徒たちの交わりにも、そうした視点が必要であると教えられるのです。

15〜18節は、迷い出た羊である同信の友をどう扱うかについて教えられています。ここもまた前回からの流れの中、つまり「天の御国の民の互いに対する態度」を教えておられる中で語られるところです。互いに愛するという教えを、互いに対して罪を犯した場合にどのように適用すべきかについて教えておられます。神は一人ひとりのたましいを愛される。どんなに小さな者でも救おうとされる。それを告げてから、罪を犯した人(それは小さい者と呼ばれる人でしょう)に対する教会の対処、教会は罪を犯した兄弟にその過ちを認めさせ、その兄弟を回復させるために、あらゆる努力を尽くすべきことを勧め、その手順を示されます。

18章15節    また、もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで指摘しなさい。その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります。

「あなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら」と言われていますが、「あなた」というのは、あなた個人であり、また教会でもあるという、二面性を持つ語でしょう。教会はひとつのからだにたとえられます。からだの中の一部分が、それも小さな器官でも痛むならば、全体が痛むのです。痛みが生まれ、不調和が生まれ、不健康になってしまいます。また指摘すべき罪というのは、単なる個人的な恨みによる告発でもないということです。

イエス様は第一に、個人的に悔い改めを勧めるように言われます。まずはじめに「行って」、2人だけのところで忠告するようにと。神はひとりでも滅びることがないように望んでおられるのだから、友人が罪を犯したら、直接その人のところへ行って、罪を悔い改めるように忠告しなさいとイエス様は教えておられます。「忠告」です。忠告とは、責める気持ちではなく、真心をもって相手に仕える心で悪いところを指摘し、直すように勧めることです。その目的は「自分の兄弟を得る」ことです。

日本には「触らぬ神にたたりなし」ということわざがありますが、他人の問題にいたずらに干渉しない方が良いという考え方があります。しかしそれは真の兄弟愛ではありません。軽んじることです。無視すること、故意的な無関心です。その人に無関心であってはならない、愛しなさい、その人の所に行きなさいと言われます。「行く」という行為。それは相手のために自分の大切な時間を費やすということでしょう。その時間というのは、自分の命そのものではないでしょうか。命の時間を削って、自分の命を使ってということでしょう。命をかけて兄弟を愛する。命をかけて兄弟の命を守る。行くという行為は簡単なようで、実はもの凄い労力でしょうし、大きな代価を支払わなければならない行為ですが、それほどに兄弟を愛する行為でもあるのです。イエス様は言われました。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも、大きな愛はだれも持っていません」(ヨハ1512-13)。

行って忠告する。これを聞いて思い起こすのが、サムエル記第二12章ではないでしょうか。ナタンが罪を犯したダビデのところに行って忠告した場面です。ここには深い愛の配慮があるなと思わされます。ナタンはダビデと1対1で静かに、しかも厳粛に忠告しました。決してダビデを軽く扱うような、見下げるような態度ではありませんでした。そしてダビデは「私は主の前に罪ある者です」と言い、真実な悔い改めへと導かれました。そのように、もし愛と仕える心をもって忠告し、その友人が悔い改めるなら、その友人は滅びを免れ、忠告した者は「兄弟を得た」ことになります。そして神はそれを喜ばれるでしょう。その友人のいのちも神にとってはかけがえのない命なのですから。しかしもし罪を認めないなら、客観的に事実を確認するために、複数人で行き、悔い改めを迫るようにとイエス様は教えられます。

18章16節    もし聞き入れないなら、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。二人または三人の証人の証言によって、すべてのことが立証されるようにするためです。

これは申命記19章15節に基づく勧告です。それは忠告している者の語っていることが、単なる中傷や非難ではなく、事実に基づいたものであり、個人的な恨みによる告発ではなく、兄弟愛から出たものであることを証言してもらうためです。兄弟の愛に気づき、その愛によって促されて自分の罪に気づかされ、真の悔い改めへと導かれるために。それでも駄目ならば、教会として悔い改めを求めるようにとイエス様は教えられます。

18章17節    それでもなお、言うことを聞き入れないなら、教会に伝えなさい。教会の言うことさえも聞き入れないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。

教会はこの問題を軽く扱うことなく、無視することなく真剣に受け止め、事実を確かめ、訴えられた兄弟が罪を犯したことが明らかであれば、その兄弟に悔い改めるよう、教会(神に招かれ受け入れられた人たち)が愛によって勧告すべきであると。それも罪を犯した兄弟を守るためにです。

それでも聞き従わない時は、異邦人か取税人のように扱いなさいと主は言われます。教会の交わりから除外するようにと。それは厳しい対処のようですが、教会がその罪を「いいよ、いいよ」で済ませてしまうこと、これも「触らぬ神に祟りなし」ではないですが、本当の兄弟愛ではありません。しかも教会愛でもありません。教会に罪が入り込み、罪が当たり前のようになり、やがて滅んでしまうからです。教会は終わりの日まで決して滅びることなく、神の御前に立つことができるように聖く保たれ、守られなければならないのです。神のみことばである聖書は「あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。…あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい」(Ⅰコリ512-13)と命じています。教会にはそのような権威と責任が委ねられているのです。けれども、福音書に記されるイエス様は異邦人や取税人に対してもあわれみ深く、彼らを温かく受け入れ、必要を満たしてくださったお方であることを忘れてはなりません。

しかしその権威と責任は、どこまでも愛によるものでなければなりません。罪を犯した兄弟を辱めるためではなく、兄弟に、反省して心から悔い改める機会を与えるための愛の鞭として行われるのです。教会は、罪人が集まって神の恵みを分かち合う所です。教会が思い上がってではなく、むしろ悲しんで行われるべきことです。厳粛に、しかも兄弟愛をもって行わなければなりません。イエス様がひざまずいて弟子たちの汚れた足を洗われたように、上に立つ者としてではなく、仕える者として行われるべきことです。

18章18節    まことに、あなたがたに言います。何でもあなたがたが地上でつなぐことは天でもつながれ、何でもあなたがたが地上で解くことは天でも解かれます。

16章でペテロを代表として教会に与えられた「天の御国のかぎ」です。「つなぐ」とは「縛ること、禁じること」を意味します。そして「解く」とは「解放すること、赦すこと」を意味します。教会にはそのような権威が与えられている。責任が与えられている。心して厳粛に受け取らなければなりませんし、それは祈りなくしてできるものではありません。イエス様は「まことに、もう一度」と念を押されるように言われます。

18章19節    まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。

何を祈るのでしょう。小さい者が1人でも滅びることは神の御心ではない。神の御旨を熱心に求め、神の御旨にかなった祈りを祈るのです。1人の人の回復を祈るのです。それは必ず聞かれます。

18章20節    二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」

イエス様は私たちの罪のために十字架にかけられ、死んで葬られ、3日目によみがえられ、今は天に上られ父なる神の右の座に着いておられます。そこで私たちのために神にとりなし祈ってくださっています。そして私たちには、もうひとりの助け主、聖霊を送ってくださいました。聖霊を通して神の愛が私たちに注がれるのです。

使徒の働きでは、皆が集まり心一つにして祈っているところに聖霊が降り、聖霊に満たされ、力に溢れました。1対1で罪を指摘し、悔い改めを勧めるにも、悔い改めへと導かれるのにも、そこに心一つにする祈りがあり、そこに聖霊が注がれ、聖霊を通して神の愛が注がれる必要があります。祈りなくしてできるものではないからです。1人か2人を一緒に連れて行く場合も同じです。教会として扱う時などなおさらのこと、心一つにする祈りが必要でしょう。いずれの場合にも、ただ自分たちの願望のためだけではなく、罪を犯した一人の兄弟あるいは姉妹のために悩み、本人と教会のために祈る、心一つにして祈るところに聖霊が満たされ、愛が満たされるところにイエス様はおられる、そこに「わたしはある」、わたしのからだがある、真の教会があるのだと、イエス様は約束してくださっています。

天の父なる神は一人ひとりのたましいを真に愛されるお方。どんなに小さな者でも救おうとされる。イエス様はそのことを告げてから、罪を犯した人に対する教会の対処について教えてくださいました。何としても、小さい者が滅びることがないようにと、私たち教会に神のご配慮を示してくださいました。

ところで、私たちは大きい者でしょうか、小さい者でしょうか。罪を犯さない者でしょうか、罪を犯してしまう者でしょうか。私たちは小さい者であり、罪を犯してしまう者です。信仰的に未熟で、またこの世的に見てあまり重要性を認められない者ではないでしょうか。しかしどんなに小さい者に対しても、父なる神は愛の配慮を注いで守ってくださっている。つまり、今日の箇所で教会に示された神の教え、それはこの私が滅びることなく、必ず天の御国に確実に導かれるために教会に与えられた教えです。この小さく弱い私に注がれた神の愛、深いご配慮です。本当に感謝ではないでしょうか。

この教えがなければ、もしかしたら私は今、教会に集っていなかったかもしれません。緊張しながら初めて教会の門をくぐり、もし教会の兄弟姉妹に軽んじられ、無視されることによって侮辱されていたとしたら、あるいはその雰囲気を感じてしまっていたら、私は今、教会に集っていなかったかもしれません。この罪人である私の救いのために、悔い改めのために、教会が心一つにして祈ってくださっていなかったら、私は今、教会に集っていなかったでしょう。いくら神が招き、神が召し出してくださったこの私であっても、やはり弱いですから、目に見える、肌で感じる教会の影響力というのはとても大きいのです。それは皆さんも同じなのではないでしょうか。そして神と教会の恵みに与った私たちは、今度はイエス様の教えに従って、兄弟姉妹に、また小さい者と呼ばれる信仰的に未熟な人や、この世的に見てあまり重要性を認められず、何かしら虐げられ弱い立場とされている方々に対して、受けた恵みをお返ししていく番なのではないでしょうか。心一つにして聖霊の満たしを祈り求め、御霊による一致をもってますます建て上げられて行く。ある先生が証ししておられます。教会全体が本当に聖霊に満たされたとき、教会の雰囲気がガラッと変わるそうです。そこに人が自然と集まって来るのだそうです。教会とはそのように神によって建てられ、建て上げられて行くものなのです。

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