2024年1月28日 主日礼拝「結婚の重要性」
礼拝式順序
賛 美
前奏(黙祷)
招 詞 詩篇100篇1〜5節
讃 美 讃美歌5「こよなくかしこし」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白 讃美歌566「使徒信条」
主の祈り 讃美歌564「天にまします」
祈 祷
讃 美 讃美歌125「わかき預言者」
聖書朗読 マタイの福音書19章1〜12節
説 教 「結婚の重要性」佐藤隆司牧師
讃 美 讃美歌247「おりをはなれ」
献 金 讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報 告
今週の聖句 マタイの福音書19章5節
頌 栄 讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝 祷
後 奏
本日の聖書箇所
マタイの福音書19章1〜12節
説教題
「結婚の重要性」
今週の聖句
そして、『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである』と言われました。
マタイの福音書19章5節
説教「結婚の重要性」
マタイの福音書19章1〜12節
すでに皆さんと拝読しました通り、今朝与えられました聖書箇所には、非常に繊細と言いますか、取扱いに注意や慎重さが求められる内容が記されています。それは「離婚について」イエス様が語られているところであり、さらには「結婚の重要性」についても語られているところだからです。
どのように注意や慎重さが求められるかと申しますと、今は同性婚について賛否両論ありますが、その議論は教会にも及んでいます。同性婚を認めて教会で結婚式を執り行う牧師もいれば、反対する牧師もいます。そして反対して結婚式を拒否した牧師が訴えられたという話しも聞きます。さらには新聞やSNS等で大きく扱われ、世間の冷たい批判的な目が一気にその教会に注がれてしまう。教会の内部にもその是非を巡って対立や分裂が起こってしまう危険性がはらんでいる。そのような世、時代です。今朝の箇所での「離婚について」がまさに当時そのようなものでした。今の時代も変わらないのかもしれません。しかし、イエス様はご自分のいのちをかけて、誰をも恐れることなく、このことを堂々と権威をもって語られました。なぜならば、結婚とは「奥義」、最も奥深い大切な事柄だからです。例えば、パウロはこのように言っています。「『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。』この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。それはそれとして、あなたがたもそれぞれ、自分の妻を自分と同じように愛しなさい。妻もまた、自分の夫を敬いなさい」(エペ5 31-33)。いつも離婚状を叩き付けられているような私には、色々な意味でとても語りづらいところではありますが、主ご自身が語られることを信じて、恐れることなく、自分を棚に上げて? いいえ、私こそ取り扱われつつ語らせていただきたいと思います。
聖書地図をご覧いただけると分かり易いのですが、19章1節から、イエス様はガリラヤでの働きを終えられ、一行はガリラヤから南へ下り、サマリアを避けてヨルダン川を渡り、ペレア地方へと進んで行きました。いわゆるエルサレム巡礼の経路です。イエス様はここからエルサレムに上り、公生涯最後の6ヶ月の歩みを始められます。この6ヶ月後、イエス様はエルサレムで十字架に架けられて死に、葬られ、3日目によみがえり、40日間にわたって弟子たちに現れ、神の国について語られ、それから天に上り、父なる神の右の座に着かれました。弟子たちは肉体的にはイエス様から離れ独り立ちをすることになります。イエス様は彼らには絶対に必要な「もうひとりの助け主」なる聖霊を送られ、弟子たちは使徒として、罪や苦難に満ちた世に、世界に遣わされて行くことになるのです。
19章1節 イエスはこれらの話を終えると、ガリラヤを去り、ヨルダンの川向こうを経てユダヤ地方へ入られた。
19章2節 すると大勢の群衆がついて来たので、その場で彼らを癒やされた。
イエス様の評判は高まるばかり。しかしその地は、かつてバプテスマのヨハネが大胆に伝道した場所、またマタイの福音書14章で見た通り、ヨハネが国主ヘロデとヘロディアとの結婚を非難したために捕らえられた場所でした。
19章3節 パリサイ人たちがみもとに来て、イエスを試みるために言った。「何か理由があれば、妻を離縁することは律法にかなっているでしょうか。」
やっぱりと言いますか、予想していた通り、イエス様は離婚についての質問をパリサイ人から受けられました。「夫が妻を離別することは赦されるかどうか」との質問です。ここには「イエスを試みるために」とある通り、パリサイ人たちのこの質問には、明らかにイエス様を陥れようとする悪意がありました。誘導尋問をしてヘロデ批判を引き出し、ヨハネのように追い込もうというものです。実にヨハネはそのことによって、ついにはヘロデの手によって殺されてしまったのです。パリサイ人たちは、自分たちの手を汚さずに救い主であるイエス様を抹殺しようとしたのでしょうか。また、わざわざ大勢の群衆が集まっている中で、ここぞとばかりに敏感で対立や反感、分裂を生み出しやすい問題を取り上げるのです。集まっていた群衆の中には、当たり前の様にそれほどの罪の意識もなく妻を離縁した男性もいれば、夫に理不尽に離縁に追い込まれ、悩み、悩まされ、苦しい立場にある女性もいたことでしょう。イエス様が離縁することが律法にかなっている、かなっていない、どちらの答えをしたとしても、イエス様から離れる人たちが出ること、また群衆の中にも対立や反感、分裂が起こってしまうことは必然でした。
離縁に対してそれほどの罪の意識もない理由。また夫に理不尽に離縁されてしまう理由。それは申命記24章1節の、夫は妻に「何か恥ずべきこと」を発見した場合には、離縁状を書いて離縁することができるという規定があったからでした。この「何か恥ずべきこと」とは何かという問題をめぐって、当時の律法学者の間には2つの立場がありました。1つは姦淫だけを指すというもの。もう1つはもっと広い意味に解釈し、姦淫だけでなく、他のどんな理由でも、たとえば、今の妻よりも好きな女性、美しい女性を見つけた場合にも離縁できるとか、妻が料理を焦がしたというような理由によっても離縁できるというような、まったく人間と言いますか、男性優位の身勝手な考え方、捉え方、適用をしていたのです。そのような世、時代だったのです。ヘロデはまさに、今の妻よりも好きな女性、美しい女性をみつけて妻を離縁しヘロディアと再婚した。ヘロディアも名誉欲に駆られ夫を捨て、ヘロデと再婚した。そのことを断罪したバプテスマのヨハネは殺されてしまった。イエス様が「それは律法にかなっていない、それは罪である」と答えれば、ヘロデ批判となりバプテスマのヨハネのように追い込まれてしまうことになってしまうでしょう。群衆の中にも激しく腹を立てて声を荒げる男たちが出て来るでしょう。「それは律法にかなっている、それは罪ではない」と答えれば、理不尽に離縁された女性たちはどう思い、感じ、どう行動するでしょうか。いずれにしても、パリサイ人たちの質問は真にずる賢く、様々な危険をはらむ質問であったことは確かです。
ところが、イエス様はパリサイ人の質問にすぐに答えることはせず、問題の根本にある、結婚とは何かということを明らかにされました。
19章4節 イエスは答えられた。「あなたがたは読んだことがないのですか。創造者ははじめの時から『男と女に彼らを創造され』ました。
結婚とは何か。イエス様は創造主なる神が人を男と女に造られたという事実から出発しました。皆さんご承知の通り、男はアダムであり、女はエバです。
19章5節 そして、『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである』と言われました。
「それゆえ」とは、神が人を男と女に創造されたゆえ、ということではありません。男(アダム)が女(エバ)を見て、「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉」と言って喜んだゆえ、ということです。
創世記を振り返ってみましょう。神は大地のちりで人(アダム)を形造り、その鼻にいのちの息(霊)を吹き込まれ、生きるものとしました。アダムをエデンの園に置き、そこを耕させ、また守らせ(見張らせ、保たせ)ました。日々の糧を得る。園(神の世界)を見張り、保つ。大変な責任と労働でしょう。そして神はアダムに一つの試練、試み、テストを与えられました。「神である主は人に命じられた。『あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ』」(創216-17)。人が神の命令を守るかどうか。それはつまり、人が自由に神を愛するかどうかのテストです。
少し横道にそれてしまいますが、この時点で「神は人を愛しているのか」という疑問を持つ人がいます。人を愛しているならば、そのようなテストは与えられないだろうと考えるのです。しかし愛というのは、時に情熱的であり、相手を圧倒させるものであり、怖いくらいのものです。私たちは「怖いくらい愛されている」と言うのではないでしょうか。深すぎて理解できない、圧倒的な愛から逃げ出したくなる時さえあるのではないでしょうか。
例えば、小鳥を愛し、愛しているがゆえに狭い鳥かごに無理矢理閉じ込めておくのは愛でしょうか。鳥かごの扉を開けておいてあげるのが愛であり、小鳥の愛を信頼することなのではないでしょうか。そのように、神は人に逃げ道を備えられたのです。それはいつでも逃げられるという安心感となります。強制ではなく自由、恐怖心ではなく安心感によって神を愛するように。「その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と神は言われました。それが神が人に与えられた逃げ道です。しかし、「そのとき、あなたは必ず死んでしまう。わたしがあなたを殺すのではない。あなた自身があなたを殺すのである。わたしから離れては、あなたは生きて行けないのだから。そんなことがあってはならない」。ご自身が創造された人を愛する永遠に変わることのない神の心です。
そこで神である主は言われました。「人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう」と。「ふさわしい助け手」とは言葉の意味からして、ヘルパー、助手、パートナー、支持者(支える者、後押しをする者)です。神を自由に愛すること、神の愛に自由にとどまること、また厳しい労働には「ふさわしい助け手」が必要であるということを、神はすでにご存知でした。神である主は、アダムと同じその土地の土で、あらゆる野の獣とあらゆる空の鳥を形造って、アダムのところに連れて来られましたが、アダムには、ふさわしい助け手が見つかりませんでした。そこで神である主は、深い眠りをアダムに下され、アダムのあばら骨の一つを取り、一人の女(エバ)に造り上げ、アダムのところに連れて来られました。目を覚まし、傍らにいる女(エバ)を見てアダムは言いました。「これこそ、ついに私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。男から取られたのだから。」アダムはエバを心から喜びました。それゆえ、後に生まれるすべての男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる、結婚するのであると聖書は言っています。
19章6節 ですから、彼らはもはやふたりではなく一体なのです。そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません。」
彼ら(人:男女)はもともと一つだったので、結婚して一心同体となるのは当然なのだと。つまり、結婚は神によって定められたものであるのだと。それゆえ、結婚は神の支配(完全な支えと配慮)の下にあり、人間の勝手気ままな意志や都合によって引き離すことはできないものであるとイエス様は主張しています。
「結び合わせた」という語は、本来の意味は「一緒にくびきを負う、くびきで結束される」です。その「くびき」というのは、牛や馬が荷車を引いたり、畑を耕したり、石臼をひいたりする時に首にかける道具です。また主人の指示に従わせるためのものです。結婚は、神が組み合わせ、ともに負うようにされたくびきです。そして「引き離す」は、「ない、消える、無効の」という意味が含まれます。神が一組にして負わせたくびきを、人が無効にはできないのです。
ここでイエス様が示される結婚観をまとめてみたいと思います。
- 結婚は創造主なる神が定められた秩序であり、だから人間は結婚するのが自然である。
- 結婚によって、男性と女性は精神的にも、肉体的にも一体となる。
- 結婚は神の支えと配慮による意志によってのものであり、それは永続的なものである。人間の意志によって、途中で結婚関係を解消することは許されない。
- 結婚は「ふたりの者が一心同体」となることであるのだから、当然、一夫一婦制でなければならない。
ところが、旧約聖書を見ても、今の世を見ても、いつの時代の多くの人々はこれらの神の恵みの原則を無視しています。旧約聖書の偉人でさえも多くの妻を持っているではないですか。性的な関係は「結婚したふたり」の間だけのものではなくなっています。結婚外の関係が当たり前となり、それが素晴らしいもののようにされています。男女の結婚ばかりではなく、同性婚も認めようという動きもあります。これが罪の世、罪人、神を離れ、神に背き、自由気ままに生きる姿ではないでしょうか。「しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と、そう神は言われたのです。人は神の愛と信頼を裏切り、開かれた鳥かごの扉の意味をはき違え、神のもとを離れ、このような混乱した社会、またその中で多くの人々が不幸な人生を送っているのです。
さらに注意したいのは、パウロは結婚、離婚の問題を「キリストと教会」の関係としていることです。「『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。』この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです」(エペ5 31-33)。キリストと教会、キリストとあなた、教会とあなた。信仰と働きには助け手が必要であり、そのことをすでにご存知の創造主なる神はそれぞれにふさわしい助け手、ヘルパー、助手、パートナー、支持者(支える者、後押しをする者)、同労者を与えておられる。本当に偉大な奥義です。「一心同体」とは「一つの肉」という意味です。これは肉体的に一つとなることを指すとともに、それまで他人同士であった者が肉親(家族)関係となり、一つの単位を構成することを意味する語です。一対一の結び合いであり、しかも神が完全な支えと配慮をもって結び合わせたものなのですから、他の何者もそこに入ることはできないし、入ってはならない「分けられない存在」なのです。これは夫と妻の関係であり、パウロはそれをキリストと教会、キリストとあなた、教会とあなたとの関係に結びつけているのです。
「それはそれとして、あなたがたもそれぞれ、自分の妻を自分と同じように愛しなさい。妻もまた、自分の夫を敬いなさい」とパウロが話しを戻しているように、話しを戻しましょう。イエス様が、離婚は神の意志にかなうものではないと言うと、パリサイ人たちはすかさず、こんな質問をしました。
19章7節 彼らはイエスに言った。「それでは、なぜモーセは離縁状を渡して妻を離縁せよと命じたのですか。」
先ほども取り上げました申命記24章1節には、明らかに離縁状を渡して離縁することができるという規定があります。あの律法は誤りなのかと彼らは言うのです。律法に誤りはない。正しい。責められるべきものではない。それを踏まえてイエス様は、「しかし、離縁は最初から認められていたのではない」と言われます。それは神のあわれみであると。その神のあわれみ、ちゃんと逃げ道を備えてくださる神の愛を冒瀆し、不正に利用してはならないのです。
19章8節 イエスは彼らに言われた。「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、あなたがたに妻を離縁することを許したのです。しかし、はじめの時からそうだったのではありません。
この律法によって神が離婚を正しいと認められたわけではない。夫婦は一心同体となり、人はこれを引き離してはならない、というのか神の変わらない御旨です。しかし、その創造のおきてに反する離婚の問題は現実にありました。その際、不利な立場に立つのは女性だったのです。人間が罪ゆえに神に反逆し、神が定められた結婚の状態にとどまることができない場合、もはやふさわしい助け手、ヘルパー、助手、パートナー、支持者(支える者、後押しをする者)、同労者となることができない場合、その結婚生活はその人(弱い立場の人)を不幸にするものなのだから、その人のいのちを守るために、実質の伴わない不自然な結婚関係を解消することを許されたのです。人間に離婚する権利があるのではなく、神はあわれみのゆえに、本来は許されないことを、大目に見て許されたのであると、そうイエス様は言われます。この規定は、男性が強い権限を持っていた当時の社会において、女性の弱い立場を保護するために設けられたものです。女性は離縁されてしまったら、すぐに生活に困ってしまったのです。モーセは離婚を法的に規制するために、また離縁状によって女性を法的契約から解放し、再婚の権利を与えるために、この律法を制定したのであると。まぁ、今の時代、女性の立場が強くなり、男性にとっても神のあわれみとなるのではないでしょうか。そもそも、神は何を望んでおられるのかを忘れて、罪を規制し人のいのちを守るために設けられた律法の枠の中で、何が赦されるかと議論することは真に的外れなことです。先ほども触れましたが、イエス様の時代にはこの律法を悪用して、離縁状さえ書けば男性はほんのささいな理由で自分の気に入らない妻を離縁できると解釈する者がいたのです。イエス様はそのような彼らのかたくなな心を非難し、あくまでも創造における結婚の命令が絶対的な基準であると教えられました。
19章9節 あなたがたに言います。だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁し、別の女を妻とする者は、姦淫を犯すことになるのです。」
イエス様は不貞以外の理由で妻を離縁し、他の女性と結婚するのは姦淫の罪を犯すことになると述べています。なぜならば、不貞以外の離縁は神の前には認められないわけですから、結婚関係は依然として継続しているからです。だから姦淫の罪を犯すことになる。これはヘロデとヘロディアに対する姦淫罪の宣告です。イエス様は死を覚悟してまでも、神と神のみことばに従う姿勢を見せられるのです。そしてすでにこの時のイエス様の目は、真っ直ぐエルサレムに、また十字架に向けられていました。他の箇所では、そのイエス様の姿に弟子たちは驚き、恐れを覚えたと記されています。
また、姦淫の罪は偶像礼拝に深く関わるものです。そしてパウロが言うように、結婚の奥義は偉大であり、キリストと教会、キリストとあなた、教会とあなたの関係であるのです。実に私たちは考えさせられるのではないでしょうか。主は私たちに対して不貞など働かれるお方ではありません。教会も私たちに対して不貞を働くようなところではないはずです。真実に愛されているはずです。他に気に入った神々ができたからと主に、また主が結び合わされた教会に離縁状を叩き付けるようなことをするのは、主に対する姦淫の罪、偶像礼拝です。神の愛への冒瀆です。どのような罪を赦されますが、御霊を冒瀆する罪は決して赦されないのです。しかし教会が姦淫を犯した場合、つまり教会が偶像礼拝の罪を犯した場合、自分のいのち、信仰を守るために離縁状を叩き付けることは許されるのでしょう。
それはそれとして・・・。
19章10節 弟子たちはイエスに言った。「もし夫と妻の関係がそのようなものなら、結婚しないほうがましです。」
直訳すると、「結婚することは、私には利益になりません」です。男性優位の考え方に慣れている弟子たちの中から、つぶやきが出て来ました。離婚の条件がそんなに厳しいのであれば、結婚しない方がましだと。離婚できないなんて、だったら結婚しない方がましだと。
19章11節 しかし、イエスは言われた。「そのことばは、だれもが受け入れられるわけではありません。ただ、それが許されている人だけができるのです。
イエス様は、誰もが独身でいられるわけではないと言われました。なぜなら、すでに述べられたように、創造主なる神は人間を、結婚するのが自然な姿であるように造られたからです。ふさわしい助け手、ヘルパー、助手、パートナー、支持者(支える者、後押しをする者)、同労者がいなければ人は生きて行けないものとして造られているからです。それゆえに新たなふさわしい助け手が与えられるように離縁を許容されたのです。そして独身のままでいられるのは、神からそうするように許されている人だけです。新共同訳では「恵まれた者だけである」となっています。
19章12節 母の胎から独身者として生まれた人たちがいます。また、人から独身者にさせられた人たちもいます。また、天の御国のために、自分から独身者になった人たちもいます。それを受け入れることができる人は、受け入れなさい。」
ここでイエス様は独身者として3つの場合を上げておられます。
- 「母の胎から独身者として生まれた人たち」とは、肉体的、あるいは精神的欠陥により、結婚できない者を指しています。
- 「人から独身者にさせられた人たち」とは、当時の宮廷で仕えるために、強制的に去勢されて独身でいる者を指しています。今日ではこのような宦官の制度は廃止されています。ですから今の時代に適用するとするなら、職業や身分、その他の社会的責任のために結婚できない者を指していると考えても良いでしょう。
- 「天の御国のために、自分から独身者になった人たち」とは、神の国の奉仕のために自分から選んで独身生活を送る者である。パウロなどはこの代表的な例であると言えるでしょう。また、私の身近にも代表的な例である方がおられます。皆さんご存知の私の恩師、P先生です。
P先生を見ると、またもやパウロの言葉が思い浮かびます。「あなたがたが思い煩わないように、と私は願います。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を配ります。しかし、結婚した男は、どうすれば妻に喜ばれるかと世のことに心を配り、心が分かれるのです。独身の女や未婚の女は、身も心も聖なるものになろうとして、主のことに心を配りますが、結婚した女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世のことに心を配ります」(Ⅰコリ7 32-34)。P先生は本当に尊敬できる恵まれた方であると思わされます。
しかし、独身でいるか、結婚すべきかは各自が神から与えられた賜物、また信仰に従って、神と自分との関係の中で自分自身で決定すべき問題でしょう。ですから他人がどうこう言える問題ではありません。どうこう言える問題ではありませんが、イエス様は一人も軽んじたりしてないように気をつけなさいと言われました。一人の人が抱えている悩みや問題を無視してはならないと。私たち教会は、もし結婚の問題について悩んでいる人がいるならば、どうこう言うのではなく、関心を持ち、祈り支えていかなければなりません。私たちは互いにふさわしい助け手、ヘルパー、助手、パートナー、支持者(支える者、後押しをする者)、同労者でありたいと願う者となりたいと思います。それが教会だからです。何よりもイエス様が私たち一人一人にとっての真にふさわしい助け手です。
今日の箇所でイエス様のみことばを聞いて、イエス様から離れて行ってしまった人たち、また群れから離れて行ってしまった人たちもいたのではないかと思います。イエス様、また群れにとどまっていることができなかった。私たちはどうでしょうか。私たちは小さい者、弱い者、虐げられている者たちこそ尊いと言われ、あわれみ、愛してくださるイエス様の愛の御心を信じるならば、イエス様にとどまる者、また主が結び合わせてくださった群れに留まる者となるのではないでしょうか。
イエス様は今日の箇所において、結婚、離婚、独身という、非常に繊細でありながらも重要な問題の根本的原則を述べておられます。私たちは現代の風潮に押し流されることなく、聖書の原則に立ち、これらの問題に対処すべきでしょう。同時にそれはそのまま、キリストと教会、キリストとあなた、教会とあなたとの関係、問題への対処となります。私たちはこれからも、神を愛し、キリストを愛し、教会を愛し、兄弟姉妹を愛し、18章で語られた天の御国の民の互いに対する態度をもって、天の御国の民としてふさわしい歩みをしてまいりましょう。