2024年4月7日 主日礼拝「招待されたのに」
礼拝式順序
賛 美
前奏(黙祷)
招 詞 ヨハネの黙示録19章7〜8節
讃 美 讃美歌15「我らのみかみは」
罪の告白・赦しの宣言
主の祈り 讃美歌564「天にまします」
祈 祷
讃 美 讃美歌257「十字架のうえに」
聖書朗読 マタイの福音書22章1〜14節
説 教 「招待されたのに」佐藤隆司牧師
讃 美 讃美歌517「われに来よと」
聖餐式 信仰告白 讃美歌566「使徒信条」
讃 美 讃美歌205「わが主よ、今ここにて」
献 金 讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報 告
今週の聖句 マタイの福音書22章2節
頌 栄 讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝 祷
後 奏
本日の聖書箇所
マタイの福音書22章1〜14節
説教題
「招待されたのに」
今週の聖句
天の御国は、自分の息子のために、結婚の披露宴を催した王にたとえることができます。
マタイの福音書22章2節
説教「招待されたのに」
マタイの福音書22章1〜14節
いよいよ来週は賛美礼拝、オンギジャンイのゴスペルコンサートになります。私も色々な方に声をかけたのですが、チラシを見た方皆さん声を揃えて「行きたい」と仰ってはくださるのですが、「行きたかったのに、その日は仕事だ」とか、「その日は用事があって」と言われてしまいました。仕方がないのですが、正直がっかりします。しかし神が諦めずに私を救いへと招いてくださったように、私も諦めずに人々をコンサートに招こうと思っています。
招くと言うと、皆さんはこれまでに結婚式や披露宴等に招待されたことがあると思います。たまに招待状の中に「平服でお越しください」との案内が書かれている時がありますが、この「平服」を普段着と捉えて、デニムとTシャツなどで出席してしまうと、式やパーティーの間中、人目を気にしてそわそわする時間を過ごすことになってしまいます。招待状に「平服でお越しください」と記載されているのは、「緊張せずにお気軽にお越しください」「タキシードやイヴニングドレスなどでなくても構いません」という招待する側の配慮の現れです。腰が引けてしまったり敬遠したりしないで、是非あなたに来て欲しいのですという思いや、堅苦しくなく親しみのある雰囲気のパーティーにしたいという意図があるのではないでしょうか。たとえ「普段着でお越しください」と書かれていても、まるっきり普段着で出かける人はいないと思います。親しい仲にも礼儀ありではないですが、招待される側にも配慮があるからです。
話しは違いますが、先日の木曜日の祈祷会で出エジプト記3章を学び、そこで分かち合ったことです。モーセが燃えているのに燃え尽きない柴を見てそこに近寄ると、神が「あなたの履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である」と仰せられました。P先生が冗談半分に「ここはアメリカ人には理解できないところ」と言われていたのを思い出しました。アメリカ人は靴を脱がずに家の中に入るのが当たり前で、靴で入って家を汚くするという感覚がないからだと言うのです。少し偏見のようにも思いますが、実際はどうなのでしょう。それで韓国に帰国された際にアメリカ人の宣教師と一緒に韓国の先生のお宅に招かれた時に、なぜ靴を脱がなければならないのかと質問され、先生は「それがこの国での礼儀だし、それがその家の人に対する敬意の表し方だから」と説明されたそうです。言われてみれば確かにそうかもしれません。招待された者には、招待してくださった相手に対する礼儀、つまりふさわしい敬意の表し方があるのです。今朝はこの後、私たちは月に一度の聖餐式に招かれています。その式辞にはこう記されています。「この食卓(聖餐式)は、やがて完成される神の国での祝宴の先取りであり、保証です」。招待状みたいなものでしょうか。またパウロは言います。「だれでも、自分自身を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい」と。恐らく今日の聖書箇所を見た後に執り行われる聖餐式は、また格別に祝された聖餐式になるのではないかと思います。
22章1節 イエスは彼らに対し、再びたとえをもって話された。
今日の箇所のたとえは、イースターをはさみましたが、マタイの福音書の前回21章の2人の息子のたとえと、ぶどう園の主人のたとえに続けて語られたものです。神の招きに従順であるべきこと、また遣わしたしもべたちがひどい目に遭わされてもなお我が息子を送り、悔い改めを期待し、救いに招かれる神がおられることが語られました。そして今日の箇所はその続きで語られており、聞き手は依然として祭司長たちやパリサイ人たちでした。
22章2節 「天の御国は、自分の息子のために、結婚の披露宴を催した王にたとえることができます。
イエス様は誰よりも神と天の御国のことをご存知です。そのイエス様が天の御国を2節のようだとたとえておられます。たとえですから、主催者である王とはもちろん神であり、自分の息子とはイエス・キリストです。そして結婚の披露宴とは、イエス・キリストを通してなされる神の救いの完成を喜び祝う宴、終末に完成される天の御国での祝宴、大宴会のことです。そして王子の結婚披露宴に客が招待されるのですが、これは神がメシアを信じて救われるように人々を招いたことを指しています。
このようにして始まるイエス様のたとえは、3〜8節までの前半と、9〜14節までの後半とに分けられます。まず前半の部分は、当時のユダヤ人に対する警告として言われています。
22章3節 王は披露宴に招待した客を呼びにしもべたちを遣わしたが、彼らは来ようとしなかった。
当時の結婚披露宴というのは、前もって客を招待しておくのですが、現在のように何月何日何時からというようには決められていませんでした。主催者は招待客を落ち度なくもてなすために念入りに披露宴の準備をしました。その準備にはとても長い時間と労力を必要としました。ようやく祝宴の準備が整うと、主催者はしもべを遣わして「披露宴においでください」と、招待しておいた客を呼びに行かせるというのが通常の手順でした。
王は息子のために宴を開くことを決め、王家に関連のある人々を招きました。王は彼らと喜びを分かち合い、楽しい交わりを持つことを、今か今かと待ちわび、わくわくしながら披露宴の準備をしていました。ようやく披露宴の準備が整い、いざしもべたちを遣わしたところ、招待されていた人たちはなんと来ようとしなかったと言うのです。
この王子の結婚披露宴に招待されたのに、それを無視した客というのは、神に選ばれた民、「選民」とされていたユダヤ人のことを言っています。彼らはただ神の恵みによって一方的に選ばれ、優先的に救いに与る特権を与えられました。ところが彼らは神が遣わしたしもべたち、神の招きのことばを伝える旧約時代の預言者たちによる神の招きを無視しました。それでも神は約束を守られる真実なお方です。何とか振り返って招きに応じて欲しいと願ってくださるお方です。
22章4節 それで再び、次のように言って別のしもべたちを遣わした。『招待した客にこう言いなさい。「私は食事を用意しました。私の雄牛や肥えた家畜を屠り、何もかも整いました。どうぞ披露宴においでください」と。』
それでも神は諦めず、彼らのもとに別のしもべたちを遣わし、こう言わせました。「私は食事を用意した」と。これは神がご自分の手で食事の用意をしたということです。腰に手ぬぐいをつけ、弟子たちのよごれた足を自ら洗われたイエス様の人に仕える御姿を思い起こします。何とありがたいことでしょう。何という恵みでしょう。しかもその食事は、王が大切に育てた最も良い動物を招待客のために屠ったものです。神が救いに招いておいた者のために屠った家畜とは…。最後の預言者であるバプテスマのヨハネが自分の方に近づいて来るイエス様を見て言いました「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」と。
「何もかも整いました。どうぞ披露宴においでください」。「平服でおいでください。この恵みに腰が引けてしまったり敬遠したりしないで、是非あなたに来て欲しいのです」。これほどまでにされたら、何としても招待を受けなければと思うのではないでしょうか。
22章5節 ところが彼らは気にもかけず、ある者は自分の畑に、別の者は自分の商売に出て行き、
このたとえで忘れてはならないのは、父なる神と天の御国について最もよく知っておられるイエス様が、天の御国についてこのようにたとえて語られているということです。天の御国の祝宴、救いの完成は神ご自身によって念入りに、落ち度なく、長い時間をかけて完璧に準備されたものだと言われるのです。最後には救いのために屠られた犠牲までもが用意され、何もかも整ったと言われるのです。あなたはただ招きに応じて、すぐに喜んで来れば良いと。
そしてこのたとえを、この後十字架にかけられ人の罪のために屠られようとしている父なる神が備えられたイエス様ご自身が説き明かされているのです。
神に選ばれ、優先的にそこに招待されていた彼らは、自分がどれほど幸いな者であるかを忘れ、神が時間をかけて念入りに準備されている間、自分の生活に没頭し、そのうちに幸いな自分の身分、幸いな招待に価値を見出せなくなってしまったのでしょうか。彼らはこれほどまでの丁寧な神の招きを気にもかけなかった。軽く見た。神の招きと、畑を耕すとか商売をするとかいう地上の生活を天秤にかけ、地上の生活の方に重きを置いた。人と会う約束があるとか、ちょっと他に用事があるからと言って、神が備えてくださる祝宴に出席しようとしない。どうしようもない事情もあってそれは仕方がないことを神はご存知で、恐らくがっかりされるでしょうが、それはまだ良いのだと思います。神の招待を気にもかけない、まったく後ろ髪を引かれない、平気でよそへ出かけてしまうことが良くないのです。神と神の恵みを気にもかけない人の姿は、昔も今も少しも変わらないところだと思わされます。しかしそれは私たちの責任でもあります。神に私たちにしか行けない所に遣わされていながらも、そこで神の招きの声となっていない私たち。
22章6節 残りの者たちは、王のしもべたちを捕まえて侮辱し、殺してしまった。
残りの者たちは王の招きのことばを伝えるしもべたちを迫害したり殺したりしてしまったと言われます。残りの者たち、まむしの子孫たち。この後、イエス様は言われます。「蛇よ、まむしの子孫よ。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうして逃れることができるだろうか。だから、見よ、わたしは預言者、知者、律法学者を遣わすが、おまえたちはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害して回る」(2333-34)。「残りの者たち」とは、バプテスマのヨハネを殺したヘロデとその家来たちや、これからイエス様を殺して、さらに弟子たちを迫害するパリサイ人、律法学者、祭司長たちと、彼らに従う人たちを指しているのでしょう。王、つまり神の招きに徹底的に、究極的に逆らう彼らに対する王なる神の反応が語られます。
22章7節 王は怒って軍隊を送り、その人殺しどもを滅ぼして、彼らの町を焼き払った。
招待を断った人に対して、王は、神はどれだけ怒るのでしょうか。王なる神の招待(恵み)を馬鹿にした者たちには、どうやら徹底的な神によるさばきがあるようです。どのような罪も赦されるのですが、神の御霊を冒瀆する罪は決して赦されないのです。
しかし神のさばきとはどのようなものだったでしょうか。彼らの死を願い、厳しい報復をされることでしょうか。そうではありません。神のさばきとは「その人の成すに任せる、ご自分のもとを去る者を行かせる、彼らをその心の欲望に引き渡される(ロマ124)」これが神のさばきです。しかし神は断腸の思いでその背中を見送るのです。父なる神は義なるお方でありながらも、放蕩息子の背中を追いつつも帰ってくるのを待っているように、ご自分に背を向け出て行く者の背中を見つめつつ、両腕をいっぱいに広げて、赦しと恵みを施そうと、常に待っていてくださる愛なるお方なのです。
22章8節 それから王はしもべたちに言った。『披露宴の用意はできているが、招待した人たちはふさわしくなかった。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い」と言われる神が、「ふさわしくない、その価値がない」と言われる。何と悲しみと嘆きに満ちたおことばではないでしょうか。
続く22章9節からのたとえには、神の選びの民であるユダヤ人が旧約時代に救いの招きを拒絶したので、神は新約時代にはユダヤ人だけでなく異邦人も救いに招かれたことが示されています。パウロがローマ書の11章あたりで語っているとおりです。
22章9節 だから大通りに行って、出会った人をみな披露宴に招きなさい。』
町の大通りというのは、大きな通りで人が集まる所、市場のような所です。20章で「気前のいいぶどう園の主人」のたとえが語られましたが、この主人が人を雇うために、雇われることを待っている多くの人が集まる所へ出向きました。主人が夕方遅くに行ってみると、そこには誰にも雇われず、選ばれず、つまり雇う価値がない者と見なされた人たちがいました。王はこのような者たち、招かれる価値がないと見なされていた人たちを王子の結婚披露宴に招くために、しもべを遣わしたのです。
22章10節 しもべたちは通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った人をみな集めたので、披露宴は客でいっぱいになった。
しもべたち、王の招きを伝える者に会う者は誰でも、「良い人でも悪い人でも」集められる。すべて招待された。「悪い人」というのは、ユダヤ人社会では罪人と言われていた取税人や遊女たち、また罪が原因だと人々に考えられていた病気や障がいがある人、悪霊につかれた人、また異邦人。これは私たちに対する福音です。
突然呼び止められて招かれた人の中には驚いた人もいたでしょう。「私なんかが」という思いで戸惑ったり遠慮したり、腰が引けてしまった人もいたでしょう。しかし彼らは、また私たちは、罪人だからこそその恵みを信じてすがりつき、従順に招きに応えた、思いきって行ってみたのではないでしょうか。行ってみるとそこは本当に喜びに満ちた祝宴の場所だった。そうして披露宴は客でいっぱいになった。祝いの宴の席はいっぱいになった。天の御国はこうして完成して行くのです。
22章11節 王が客たちを見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない人が一人いた。
22章12節 王はその人に言った。『友よ。どうして婚礼の礼服を着ないで、ここに入って来たのか。』しかし、彼は黙っていた。
「友よ」。以前にも学びましたが、ここに「友」として使われている語は、新約聖書ではほとんど否定的な場面で使われる語です。親しい友というよりは、友のように親しくあるべき人が、ある点で過ちを犯していることをそれとなく示す呼び名「友よ」。彼が犯した過ちとは、婚礼の礼服を着ないで、披露宴会場の席についていたことです。
次のことを知っていないと、このたとえは理解できません。当時、実は婚礼の礼服は招いた側が客のために、入口などにあらかじめ準備しておくのが普通だったそうです。恵みによって招かれ、招きに応えて披露宴に出席するためのふさわしい服、礼服までも用意されている。至れり尽くせり。しかし王に「友よ」と言われた人は、その用意されていた礼服を着ないで、うっかり着忘れたのではなく、あえて着ずに、着ないことを決めて祝いの宴の席に着いていたのです。イエス様は何をたとえてこのことを言われているのでしょうか。天の御国での祝いの宴の席に着くために、ふさわしい、似つかわしい者になりなさいということでしょう。あなたの救いのために今、ここに恵みによって用意されている福音を、イエス・キリストを着なさいということでしょう。そしてイエス・キリストに似た者となって、あなたは天の御国に入れられなさいということでしょう。
パウロは言うのです。「夜は深まり、昼は近づいて来ました。ですから私たちは、闇のわざを脱ぎ捨て、光の武具を身につけようではありませんか。遊興や泥酔、淫乱や好色、争いやねたみの生活ではなく、昼らしい、品位のある(似つかわしい)生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。欲望を満たそうと、肉に心を用いてはいけません」(ロマ1312-13)。「あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです」(ガラ326-27)。
神の救いに招かれ、救いに入れられた者は、神が備えてくださったキリストを着るのです。私たちは神が備えてくださっていたキリストを着せていただいたのです。しかし、ただ着せていただいただけではだめです。キリストを着せていただき、着せていただいたキリストが似合う者にならなければならないのです。キリストに似た者とされて行き、神の子どもとされなくてはなりません。ただキリストを着ただけの人は、猫を被っているだけの人です。演技しているのです。偽善者です。神が最もお嫌いなものです。自分では着ていると思っていても、すべてを見透かされる神に「友よ。残念な人よ。どうして婚礼にふさわしい礼服を着ないで、ここに入って来たのか」と言われてしまうかもしれません。
確かにこのたとえには、ふさわしくない者をも招いてくださる神の愛、すべてが備えられている神の恵みが示されています。しかし、招待された客の無礼な態度、礼服をあえて着なかった客の無礼な態度と、そのような彼らへの厳しいさばきがあることも示されています。
22章13節 そこで、王は召使いたちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。この男はそこで泣いて歯ぎしりすることになる。』
22章14節 招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのです。」
神は完全な救いを抜かりなく万全に備えられ、すべての人を救いへと招かれておられます。普段着のままで良いから、わたしの招きにまず応えて、わたしのもとに来なさいと、天の御国へと招いておられます。しかし救いへと、天の御国へと入るためには、ふさわしい礼服を着なければなりません。しかもその着るべき礼服さえも神は用意してくださっているのです。その礼服とは、イエス・キリスト。イエス・キリスを着なさい。それはイエス・キリストを信じるということです。イエス・キリストを着ないで悪いことをしたまま居直って、救いに与ろうとしてもそれはできません。私たちは確かにイエス・キリストを信じ、すべてのことが赦され、天の御国に招待されています。だからといって何をしても良いと言うことではないのです。すべてのことが赦されているからこそ、私たちはイエス・キリストの十字架の贖いによって赦されていることを信じ、イエス・キリストに敬意を表し、十字架に依り頼んで生きて行かなければなりません。そしてイエス・キリストを着るだけではなく、その礼服に似つかわしい者へと、日々聖霊によって導いていただき、御霊の実を結びながら天の御国に至るまで私たちは変えられて行くのです。そして神が「すべて整いました。さぁ、来なさい。祝いの宴の席に着きなさい」そう招かれる時に、私たちはいつでも喜んでその招きに応えることができるように、そして主とともに喜んで準備された席に着き、祝宴に与ることができるように歩んでまいりましょう。
この後、聖餐式の恵みに与ります。天の御国での祝宴の先取りです。自らがふさわしいか、イエス・キリストを着、イエス・キリストに似つかわしい者となっているか、顧みつつ、従順に主の聖餐式への招きに応え、幸いな天の御国の前味を味わわせていただきたいと思います。