2024年5月26日 主日礼拝「真の指導者とは」

礼拝式順序

賛  美  新聖歌263「罪咎を赦され
      讃美歌510「まぼろしの影を追いて」
前奏(黙祷)
招  詞  詩篇100篇1〜5節
讃  美  讃美歌18「聖なる御神は」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白  讃美歌566「使徒信条」
主の祈り  讃美歌564「天にまします」
祈  祷  
讃  美  讃美歌280「わが身ののぞみは」
聖書朗読  マタイの福音書23章1〜12節
説  教  「真の指導者とは」
讃  美  讃美歌501「生命のみことば」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 マタイの福音書23章3節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

マタイの福音書23章1〜12節

説教題

「真の指導者とは」

今週の聖句

ですから、彼らがあなたがたに言うことはすべて実行し、守りなさい。しかし、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うだけで実行しないからです。

マタイの福音書23章3節

説教「真の指導者とは」

マタイの福音書23章1〜12節

これは良く聞く話しで、とても耳が痛い話しですが、教会のご婦人方がご自分のご主人のことを「教会では、まぁ甲斐甲斐しく食器洗いを率先してするなど働き者だけれども、家では全然違うのよ」と言われたり、教会の子どもたちが「お母さん、家でも教会でのお母さんでいてよ」と言われてしまったり、良く聞く笑えない笑い話ではないでしょうか。どちらが本当の自分なのかという話しです。

随分前に、皆さんもご存知の先に召された北澤先生が祈祷会で言われました。「牧師というのは、この世ではみんな大きな顔をしているけれども、天国に行ったら末席の末席に座らされて、顔を隠して小さくなっているはず」。確かにそうかもしれませんね。しかし牧師の端くれとして弁明させていただけるならば、一部の牧師は違うかもしれませんが、大抵の牧師はみことばからかけ離れている自分の姿に苦しんでいるはずです。みことばを伝える者こそが、そのみことばを適用することに悩み、格闘しているはずです。牧師が平気で自分を棚に上げて、悩みも格闘もなくスラスラとみことばを語るようになったらなどと考えると恐ろしいです。それこそ天国に行ったら一番目立たない所に座って、顔を隠していなければならなくなるでしょう。

今朝のマタイの福音書23章1〜12節は、一見するとまるでこの世の牧師、教師たちに向けて語られているかのような厳しい内容ではあります。しかしイエス様は、群衆に、そして弟子たちに語られているところを覚えたいのです。

23章1節      そのとき、イエスは群衆と弟子たちに語られた。

イエス様がご自分にずっと従って来た、着いてきた群衆に、そして弟子たちに今日のお話しを語られた。その内容は注意事項であり、警告であるのですが、その意図は何なのだろう。それは「あなたがたは気をつけなさい」ということでしょう。何を気をつけるのでしょうか。それは恐らく、「わたしに付き従って来たあなたがたは、やがて世の人々から先生、自分たちの父、師と呼ばれるようになるだろう。今ではないかもしれないが、間もなくわたしは十字架にかかり死に、しかし3日目によみがえる。そのわたしを世の人々より先に信じる者となり、世の人々より先に召されるあなたがたは、教会の内でも外でも、皆がそのような立場になり得るし、世の人々からはそのように見られるようになるだろう。だからあなたがたは気をつけなさい」ということではないかと思うのです。教会の内では、やはり信仰の先輩が後輩を教え導くことになるでしょう。また、教会の外では、確かに世の人々はクリスチャンに一目置いているというか、期待しているようなところがあります。私たちが思っているよりも救いを求めています。自分がクリスチャンだと言うと「やっぱり」とか「だからか」と言われるかもしれません。それなら幸いですが、「それでも?」と言われてしまったら恥ずかしいですね。私の知人などは、ある時なにかの話しの流れの中で、聖書には終末のことも書かれていると恐る恐る切り出したところ、なんでクリスチャンはもっとそういうこと教えてくれないのかと叱られたことがありました。いずれにしても、私たちは皆、誰かを救いへと導く者とされているのですから、イエス様が言われるとおり気をつけないといけないのです。せっかく天の御国に入れられたのに、顔を隠して小さくなっていなければならなくなってしまっては残念です。

「そのとき」というのは、前の本文でイエス様とパリサイ人たちとの論争があった時を指します。パリサイ人たちと論争されたイエス様が、向きを変えて群衆と弟子たちの方に向き直り、今度は群衆と弟子たちに対して、律法学者とパリサイ人たちについて教えられました。彼ら律法学者とパリサイ人は、民の間で当たり前のように霊的指導者として認められていました。この辺りで例えるなら、街中でお坊さんの格好をしている人を見かけたら、あの方は徳の高い方なんだなぁと無条件に思うようなものでしょうか(少し悪いたとえですが)。

そこでイエス様は、民が彼ら律法学者たち、パリサイ人たち霊的指導者の罪を認識できるようにされました。そして彼らに倣ってはならないと悟らせてくださったのです。さらに、あなたがたは神の御心にかなった霊的指導者となるようにと、その秘訣を知らせてくださったのです。

23章2節      「律法学者たちやパリサイ人たちはモーセの座に着いています。

律法を研究して教えていた律法学者たちは、律法遵守に熱心なパリサイ派の者たちでした。「モーセの座」というのは、律法を正しく解釈して教える権威を指します。聖書によると、彼らには霊的指導者として「主の律法を調べ」「これを実行し」「イスラエルで掟と定めを教える」ことが神によって課せられていました(エズ710)。そしてモーセの律法に通じている学者と認められていた彼らは、会堂で木の段の上に立ち、民に毎日律法を読み聞かせていました。そのような行いが、彼らを律法の権威者、霊的指導者と感じさせたのでしょう。イエス様は彼らの権威、そしてそのような責任が神から任されていることを認めておられました。

23章3節      ですから、彼らがあなたがたに言うことはすべて実行し、守りなさい。しかし、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うだけで実行しないからです。

つい先ほども申しましたが、霊的指導者として神によって彼らに課せられていたことは何だったでしょう。「主の律法を調べ」「これを実行し」「イスラエルで掟と定めを教える」ことでした。しかし、彼らの関心は、責務をきちんと果たして民を正しく導くことにはなく、自分たちの地位を通して人々からあがめられることにありました。霊的指導者の立場にいる彼らには、教えたことを守り行うという責任と、その立場に応じて当然しなければならない務めもあったにもかかわらず、実際の彼らは、「これを実行し」という重要な責任と義務を果たすことなく、主の律法を研究し、掟と定めを教えることにより、自分の地位を高め、人々からあがめられることにしか関心がなかったのです。

イエス様がまねてはいけないと言われる彼らの行いというのは、人々に言うだけで、人々に教え、人々に実行を促すだけで、自分では実行しない、これをまねてはいけないと言われました。

イエス様から見た彼らの姿は、聖書の中で言われているとおり、「他人を教えながら、自分自身を教えない」、「盗むなと説きながら、自分は盗んでいる」、「姦淫するなと言いながら、自分は姦淫する」、「偶像を忌み嫌いながら、神殿のものをかすめ取る」、「律法に違反することで、神を侮っている」、そのような姿でした。イエス様は彼ら自身の教えと実践の間にあった矛盾を、彼らが認めずに、自分が正しい、自分は偉いと考える、その偽善を批判されました。

その偽善を犯す誘惑は、今も私たちに迫っています。自分は大丈夫だとは言えないでしょう。教会と家での行いや態度が異なるなら、それは偽善です。私自身も耳が痛いし心が痛みますが、あえて自分を棚に上げて申し上げますが、1週間に1度だけ来る教会では言葉に気をつけ、人が見ているところでは立派なクリスチャンのような行いに努めながら、しかし家では勝手気ままに行い、感情をぶつけて荒々しい言葉遣いをし、他人ばかりを責めているというのなら、律法学者とパリサイ人と同じ偽善です。先日の木曜日の祈祷会でも分かち合ったのですが、モーセのとりなしの祈りのところを見ながら、私はとりなすどころか、他人と一緒になって気に入らない上司に対する文句を言っているという、恥ずかしい自分をさらけ出しました。教会ではとりなしを奨めながら、自分はまったくなっていない。このような私の行いをまねてはいけません。たとえ人々が見ていない所でも、いつも神がともにおられることを覚えて恐れなければなりません。実際、私たちの口から発するすべての言葉、私たちの行い、それらはすべてある巻物に記録されているようです。律法学者とパリサイ人は、このように神の御前に生きているという意識がありませんでした。律法を研究し、暗唱し、人々に教えましたが、その生活には神への従順がありませんでした。

23章4節      また彼らは、重くて負いきれない荷を束ねて人々の肩に載せるが、それを動かすのに自分は指一本貸そうともしません。

彼らの律法研究というのは、重くて負いきれない荷を束ねて人々の肩に載せるものでした。彼らが守るべき掟と定めをどんどん増し加え続けることで、庶民が通常の生活をしながらでは守れないものにしたのです。そしてそれをすべて実行するように民衆に要求したのです。民衆は疲れ切っていました。ところが、自分たちのためにはちゃっかり都合の良い抜け道を用意していました。彼らは民を神へと導く責務がありましたが、それを果たすどころか民を苦しめ、押さえ付けることしかしていませんでした。自分たちが新しく造り出した律法(口伝律法・ミシュナ)によって民を苦しめ、押さえ付け、神のもとへと導くどころか、神のもとへ行くことを邪魔していたのです。民をどこに向かわせていたのかというと、自分たちに向かわせていました。尊敬の眼差し、権威、富。それらを自分たちに向かわせていたのです。

23章5節      彼らがしている行いはすべて人に見せるためです。彼らは聖句を入れる小箱を大きくしたり、衣の房を長くしたりするのです。

ここに、彼らが人々の尊敬の眼差し、権威、富を自分たちに向かわせていた様子が良く表されています。

「聖句を入れる小箱」は、テフィリンと呼ばれ、モーセ五書の主要な箇所を記した羊皮紙を入れる革でできた小箱で、ユダヤ教の伝統で祈りの時に身に着けるものです。13歳の成人式を終えたユダヤの成人男子は、平日の朝の祈りの時にテフィリンを着けて祈るそうです。ちなみに中に入れられた羊皮紙に書かれた聖句というのは、出131-10,11-16、申64-9,1113-21だそうです。あとでぜひ確認していただきたいのですが、実際そこを見てみると、どうやら実際に小箱を作って身に着けなさいという命令ではないように思えるのですが、どうなのでしょうか。例えば申命記11章18節では「あなたがたは、わたしのこのことばを心とたましいに刻み、それをしるしとして手に結び付け、記章として額の上に置きなさい」と命じられています。手に結び付けとありますが、これは左腕の心臓に一番近い所に巻き付けるものであり、額の上に置くというのも、しっかり覚えておくようにという命令だと思います。けれども人々は、律法学者やパリサイ人たちに教えられたのでしょう、文字通りに守り行いました。そしてそれはいつしかお守りのようなものになってしまいました。さらには律法学者たち、パリサイ人たちのその小箱テフィリンは、どんどんと不必要なほどに大きくなっていったのです。自分こそが敬虔な者であるというアピールの小道具となってしまったのです。

「衣の房」も同じようなものですが、こちらは「衣服の裾の四隅に房を作り、その隅の房に青いひもを付けるように」と神に命じられています。衣の房はヘブル語で「ツィツィヨット」と言うそうです。当時のユダヤ人男性の上着の四隅には必ず着けられていました。イエス様も身に着けておられました。あの出血の止まらない女性が触れたのはこの「ツィツィヨット」でした。この房にはモーセが神から与えられた613の戒めにちなんで、613の結び目が付けられていました。この飾り房のついた衣を着るということは、みことばをぶら下げて歩いているようなもので、神の戒め、みことばをいつも思うこと、また自分たちは神によって聖別された民であることを常に意識するための大切なものでした。ところが、時代が進むにつれて、この飾り房は社会的身分の象徴の意味も持つようになり、裕福な人であればあるほど、派手なデザインの房をつけるようになりました。しかもイエス様の当時、あるパリサイ人の飾り房は、込み入ったデザインが施され、非常に長く、その長さは地面を引きずるほどであったと言われています。これもまた自分の権威と敬虔さをアピールするためのものとなってしまっていたのです。テフィリンにしても、ツィツィヨットにしても、その伝統の始まりは神の戒めを守るためという正しい動機によるものでした。しかし、小箱を大きくし、房を長くしたのはそのためではなく、自分には権威がある、尊敬されるべき私である、また自分が敬虔な者だと人々に思われるようにするためのもの。こうした見せびらかしを、イエス様は「人に見せるため…衣の房を長くしたりする」と責められたのです。

23章6節      宴会では上座を、会堂では上席を好み、

人々は霊的指導者である彼らを上座へと、会堂では上席へ、どうぞ、どうぞと案内したのでしょう。先日の葬祭センターでは、お坊さんがそれはもう手厚くもてなされていました。それはともかく、彼らはやがてそれが当たり前のようになり、大きなテフィリンと引きずるように長いツィツィヨットを見せびらかしながら、人々に注目される座に座ることを好むようになりました。

23章7節      広場であいさつされること、人々から先生と呼ばれることが好きです。

町で一番混雑している場所へとわざわざ出向いて、人々からあいさつされて、「先生」と呼ばれることを好みました。公の場で挨拶されると、エゴが満たされたのです。「先生」と訳された【 ῥαββί・フラッピ】は、直訳すると「偉大な者」で、主に尊敬される教師の呼称でした。彼らは尊敬される、自分を高く見せるタイトル(肩書き)を好みました。

彼らは教える権威と、それを自ら実行する責任を同時に重視すべき指導者たちであったのですが、もしかしたら最初はそうだったのかもしれません。しかし指導者の座に長くいると、次第にもてなされることに慣れてきてしまったのでしょうか。人々から認められ、あがめられるにしたがって、ただ人々から注目され、認められることだけに関心を持つようになってしまうのかもしれません。

23章8節      しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただ一人で、あなたがたはみな兄弟だからです。

イエス様はご自分に従う者たち、群衆と弟子たちが、律法学者たち、パリサイ人たちの偽善的な行いを見て何に警戒すべきかを語られました。「先生と呼ばれてはいけない」と。先生とは先ほども申しましたとおり「偉大な者」です。「あなたがたは、偉大な者と呼ばれないようにしなさい」。しかしイエス様は、ご自身に従う者たちの中でみことばを教える、霊的指導者という役割を否定したのではありません。律法学者とパリサイ人たちのような偽善と高慢に陥らないように気をつけなさいと言われたのです。先生と呼ばれたい。偉大な者と呼ばれたい。神と人との間に立って自分が指導したいと思う。そのような偽善と高慢は、神と人との直接の関係を邪魔するものです。

「先生」と聞いて、私は思い起こすドラマのタイトルがあります。「先に生まれただけの僕」というタイトルです。確かに先に生まれた者には教え導く責任があり、ゆえに権威があります。しかしあくまでも先に生まれただけの私なのです。先にイエス・キリストに出会い、イエス・キリストによって、聖霊によって、しかも恵みによって生まれさせられただけの私です。

23章9節      あなたがたは地上で、だれかを自分たちの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただ一人、天におられる父だけです。

父のみもとに行くのを妨げることを思い起こさせながら、天の父以外のものを父と呼ぶことを警戒しなさいと言われます。ここでの「父」も、生物学的な父ではなく、当時の慣習で尊敬される人物、特にみことばを教える教師を指す呼び名でした。まことに尊敬されるべきお方は天の父である神おひとりです。唯一まことのみことばを私たちに語られるのは天の父である神おひとりです。私たちの間で本当に尊敬されるべきお方は、自分でも、他の誰かでもあってはならないのです。

23章10節    また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただ一人、キリストだけです。

【師・καθηγητής】というのは、インストラクター、案内者、先導する人のことです。私たちのあいだで師、神のもとにまことに、確実に導かれるお方はただおひとり、キリストだけなのです。インストラクターと聞くと、スポーツ関連のインストラクターを思い浮かべるのではないでしょうか。皆の前に立ち、見本を示し、指導して、また真似をさせて上達させる存在。それはキリストだけなのです。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」(ヨハ146)。その心構えを忘れてはなりません。

続けてイエス様は、ご自分に従って来た群衆また弟子たち、これからおそらく世の人々の霊的指導者となる彼らに対して、わたしに従う者たちは、このような動機をもってすべてを行いなさいと教えられます。

23章11節    あなたがたのうちで一番偉い者は皆に仕える者になりなさい。

イエス様は、律法学者やパリサイ人と全く異なる正反対の動機を持つべきだ、あなたがたの間では、そうであってはならないと語られます。あなたがたは確かに一番偉い者である。霊的指導者であるのだから。しかし一番偉いあなたがたは、皆に仕える者になりなさいと言われます。神と人々の前で、謙遜に、自分を低くして、決して高慢にならず、偽善に走らず、まことの神が喜ばれ受け入れられる真の霊的リーダーとなるようにと言われるのです。みことばに完全に従えない自分を悲しみ、みことばと格闘しながら、そのような自分を自覚し、しっかり見つめ、父なる神を見上げ、インストラクターであるイエス様を見上げ、へりくだりつつもしっかりとこの世での霊的リーダーとしての役割を果たしていく。主の律法、みことばを調べ、追い求め、これを自ら悩み格闘しながら実行し、へりくだり、砕かれ、そのような自分を通して世で神の掟と定め、御心を教える、示して行くのです。その指し示す先には自分はおらず、ただ神がおられるのです。そして世の人々はその神を求め、神のもとへと導かれることでしょう。

23章12節    だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。

天の御国、神の国の原則です。インストラクターであるイエス・キリストは、この真理をご自分の人生と働きによって実践されました。「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来た」(2028)と言われ、そのとおりに生き抜かれました。そして今も生きておられます。イエス様がなしてくださったことは、律法の条項を増やすだけで、民を全く助けようとしなかった律法学者たちとパリサイ人たちとは正反対でした。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます」(マタ1128-29)。以前にも学びましたが、当時のユダヤでは、くびきをつけて働いたことのない若い牛や馬は、先輩の牛や馬と対になって、並んでくびきをつけ、先輩を見習って仕事の仕方を覚えました。おそらくイエス様はこのような習慣を心に思い浮かべながらこのことばを語ったのでしょう。隣りを見れば同じくびきを負われるイエス様がおられる。ともにくびきを負って歩んでくださる。ご自身を通して教え導いてくださる。そのような人生へと招いてくださっているのです。

イエス・キリストの弟子である私たち、意外と世では注目されており、意外と尊敬され、意外と教えて欲しい、導いて欲しいと期待されている私たちクリスチャンは、そのことに高慢にならず、律法学者とパリサイ人たちのように自分を高めようとする心に警戒し、イエス様から謙遜と仕えることを学んで実践してまいりましょう。小箱をお守りのように身に着けても良いのかもしれません。衣の房を付けても良いのかもしれません。しかしそれらは見せかけのものではなく、見栄のためでもなく、謙遜になるため、神のみことば、神の愛とあわれみ、恵み、イエス・キリストの十字架の贖いによる赦しをいつも思い起こすものであり、神とイエス・キリストを愛するための戒めとするためであるならばです。そして常に神のみことば、戒め、神と隣人を愛するように自分を律するものであるならばです。

私たちは皆、先生です。案内者です。とりわけ謙遜を失わないように注意し、教えと行いが一致するように常に心掛けなければなりません。みことばを学び、みことばを教え、そして自らみことばに生きるのです。そして誰かを指導するという立場が、人に仕えられるためではなく、自分を低くしてキリストを高くし、神と人とに仕える者であることをいつも自覚してまいりましょう。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

コメントを残す