2024年7月7日 主日礼拝「神のみことばは永遠」

礼拝式順序

賛  美  新聖歌467「世の終わりのラッパ」
      新聖歌475「まもなくかなたの」
前奏(黙祷)
招  詞  イザヤ書55章6〜11節
讃  美  讃美歌23「くるあさごとに」
罪の告白・赦しの宣言
主の祈り  讃美歌564「天にまします」
祈  祷  
讃  美  讃美歌168「イエス君の御名に」
聖書朗読  マタイの福音書24章29〜35節
説  教  「神のみことばは永遠」佐藤隆司牧師
讃  美  讃美歌173「見よ、主は輝く」
聖餐式   信仰告白 讃美歌566「使徒信条」
讃  美  讃美歌205「わが主よ、今ここにて」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 マタイの福音書24章35節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

マタイの福音書24章29〜35節

説教題

「神のみことばは永遠」

今週の聖句

天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。

マタイの福音書24章35節

説教「神のみことばは永遠」

マタイの福音書24章29〜35節

今朝、大変な渋滞に巻き込まれてしまいました。その原因は、パチンコ店の駐車場に入るための大渋滞でした。その車の列の凄さといったら、これまで見たこともないほどのもので、大変衝撃的でした。また、帰り道に駅前を遠田のですが、駅前には旅行客がごった返していました。今朝バスで来られた姉妹が、善光寺でお祭りがあるのか、そこにも人がごった返していたということです。彼らに「これだけは忘れないで」と言いたい。それは、あなたの人生にはいつか必ず終わりの時が来る。その前か後に、必ずイエス様の再臨があるのですよ、と言うこと。今日、もしイエス様の再臨があったらどうしましょう。彼らばかりではありません。私たちが本当に神のみことばを信じる信仰者であるならば、そのことをいつも緊迫感をもって覚えておかなければならないでしょう。自分ばかりではなく、隣人のためにも色々と備えていかなければならないと思わされます。

マタイの福音書は進んで行き、イエス様の十字架へと近づいて行きます。イエス様のことばもどこか熱を帯び、厳しさを増してきているような気がします。ご自分の死を目前にして、弟子たちにどうしても伝えておきたいことがあったのでしょう。

先ほども申しましたが、「それだけは忘れるなよ」。皆さんも誰かに対して一度は言ったり、誰かに言われたりしたことがあるのではないでしょうか。人は忘れやすいものです。しかし、決して忘れてはならないことがあるのです。それが今日の本文のことばです。それを無視して忘れてしまうならば、その結果は耐えがたいもの、たまったものではない、シャレにならないものになってしまうのです。イエス様が今日のところで「それだけは忘れてはならない」と言われることは、今の私たちにとっても、とても重要なことなのです。イエス様は私たちに、何を絶対に忘れてはならないと言われているのでしょうか。

さて、本文についての伝統的解釈は、イエス・キリストの再臨についての預言というものです。改めてこの「預言」というのは、「神のことばを預かり、それを伝えること」です。神のことば、それはつまり神の御口から、神ご自身の御心、ご計画、約束がことばとして発せられたものであり、それは必ず成就するということです。「雨や雪は、天から降って、もとに戻らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種蒔く人に種を与え、食べる人にパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、わたしのところに、空しく帰って来ることはない。それは、わたしが望むことを成し遂げ、わたしが言い送ったことを成功させる」(イザ5510-11)。そして「成就する」というのも、コップに水が注がれ、段々と満たされやがてついに溢れるというものです。今は何も起こっていないかのように見えていても、実際には確実に水は満たされていっており、ついに溢れる時が来るというものです。イエス・キリストの再臨に限らず、神の御口が語られる神の御心、神のご計画、神の約束は、今もまさにことごとく満たされていっており、ついに溢れ、成就する時が必ず来るのです。

24章29節    そうした苦難の日々の後、ただちに太陽は暗くなり、月は光を放たなくなり、星は天から落ち、天のもろもろの力は揺り動かされます。

「そうした苦難の日々」。それは24章1〜28節に記されていることです。イエス様はAD70年頃に実際に成就したローマによるエルサレム神殿陥落の始まりとユダヤ滅亡の時に起こる苦難を見据えて預言されました。同時に、これから迎える世の終わりの時、終末に起こる苦難を見据えての預言でもありました。偽キリストの現れ、戦争や戦争のうわさを聞くことになる。あちこちで飢饉と地震が起こる。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まり。激しい迫害が起こる。信仰者は憎まれる。その時、多くの信仰者がつまずき、互いに裏切り、憎み合うことになる。私たちにはとても信じられない、耐えがたい状況です。偽預言者が大勢現れて、多くの人を惑わす。できれば選ばれた者たちをさえ惑わそうと、大きなしるしや不思議を行う。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、御国の福音は全世界に宣べ伝えられる。「荒らす忌まわしいもの」が聖なる所に立つ、神と人との間に入り込み混乱させる。逃げなさい! しかし、選ばれた者たちの「ため」に、選ばれた者たちの「ゆえ」に、その日数は少なくされる。「わたしはあなたがたに前もって話しました」。「このことを忘れてはなりませんよ」と、イエス様は言われました。

そうした苦難の日々の「後、ただちに」起こる出来事が29節です。私たちが遅いと思っていても、神の時が来たならばただちに、遅れることなくこれら信じられないようなことが起こるのです。太陽は暗くなる。月は光を放たなくなる。星は天から落ちる。天のもろもろの力が揺り動かされる。これは宇宙の秩序を支えている力が崩れるということでしょうか。信じられないくらいの天変地異です。自然界に起こる異変、非常事態でしょう。しかし、神の預言はあのヨハネの黙示録のように、はっきりと言われない、どこかヴェールに覆われ隠されている部分があるのです。ですからこの文脈の中でも、「読者はよく理解せよ」と15節で言われているのと同じように、読者である私たちがここからよく読み取り、それは果たしてどのような状況なのかを想像し、考え、いざそのような状況になったならば正しく判断できるようにしておかなければならないところだと思います。この文脈の中で、このように考えることもできるのではないでしょうか。太陽、月、星と結びついた異教の諸霊、天のもろもろの力、悪霊、サタンに対するさばきのたとえとして捉えることができると思います。例えばアブラハム(当時はアブラム)一行が故郷を出て着いたハランという地は、月の神シンの崇拝の中心地でした。エジプトには太陽神。東方の博士たちは占星術師でした。世界中を見渡してみると、もちろんこの日本においても、太陽、月、星と結びついた異教が多数存在していますし、聖書によるとそれらは「天上にいるもろもろの悪霊」による惑わしです。天のもろもろの力を信じる者たち、偶像礼拝者にとって、自分たちが信じて頼って従ってきた神々が力を失う、もはや全く信じる価値がなくなるという状況に陥ることは、それこそ天地がひっくり返るほどの衝撃、パニック、非常事態となるのではないでしょうか。自分たちが十字架につけて殺してしまったイエス・キリストが、これまでまったく聞く耳も持たず、信じ従ってこなかったイエス・キリストが、天上にいるもろもろの悪霊に完全勝利され、まことの神、救い主であることが証明される時、それこそ天変地異が起こったかのような衝撃、パニック、非常事態となるのではないでしょうか。

その時です。

24章30節    そのとき、人の子のしるしが天に現れます。そのとき、地のすべての部族は胸をたたいて悲しみ、人の子が天の雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです。

「人の子のしるし」が何であるのかは分かりませんが、それが現れたら誰にでも分かるようです。非常に早い時期から、これは空に十字架が目に見える形で現れることと理解されたらしいですが、イエス様はそうは言っていません。黙示的であるので今は隠されているのです。「本当にイエス様が来られる」と感じさせる何かなのです。すべての人がそう感じることができる何か。何でしょう。分かりません。だからこそ、私たちはいつも目を覚ましていなければならないのではないでしょうか。すべての偶像、悪霊が揺り動かされても、打ち倒されても、唯一まことの神、イエス・キリストだけは決して揺り動かされること、打ち倒されることはありません。衝撃、パニック、非常事態の中にあっても、私たちはこのことを忘れてはなりません。

その唯一決して揺り動かされることのない人の子(メシア・キリスト・救い主)のしるしが天に現れると同時に、世界中のすべての部族(人種とも訳せる)、それまで自分たちが信じ頼って来たものが光を失い、打ち倒されることによってパニック状態に陥る世界中の人々は、「胸をたたいて悲しむ」ことになります。この語は他に、「打ちのめされる、悔やむ」とも訳せる語です。後悔先に立たずです。彼らは人の子が天の雲に乗って、偉大な力と栄光とともに来るのを見ることになります。この「来る」という語は、「行く」とも訳せる語で、人の子、救い主イエス・キリストが天から地上に「来る」のではなく、地上から天に「行く」と解釈することもできます。人々が十字架に付けて殺したイエス・キリストが、天の父なる神のもとに行き、偉大な力と栄光を受ける光景を目の当たりにする。何度となく聞いたことのあるあのイエス・キリストが、馬鹿にしてきた、無視してきた、信じてこなかったあのイエス・キリストがまことの神、救い主だったのだと気づく。そして不信者、神に逆らう者たちは、この光景を見て神のさばきを恐れることになります。神によって創造されたのに、神を失ってしまったたましいは、本能的に神のさばき、永遠のさばきを受けることを知っているのです。しかし、信仰のゆえの患難と試練の中で必死に耐え、主に依り頼み、何としても主に救いを求める者にとっては、その時は待ちに待った時。主のみことば(約束)は、信じる者にとっては救いのみことば(約束)ですが、信じない者にとっては滅びの証しです(Ⅰコリ118)。主は救いの福音を、時が良くても悪くても、最後の最後まで宣べ伝える使命を聖徒たちに委ねておられます。私たちに委ねられています。イエス・キリストの再臨を信じ、心から待ち望みながら、その時に必ず成し遂げられるさばきと救いのみことばを、私たちは忘れることなく、時が良くても悪くても、愚かだと馬鹿にされようとも、そのような時などないと信じ込み反発されようとも、宣べ伝えて行かなければなりません。その時は必ず来るのです。成就するのです。その時に神はすべての人がさばかれることなく、救われていることを願われています。私たちの家族や友人や知人がさばかれることなく、救われていることを私たちは願っているでしょうか。そのような時など来ないと、不信者と同じようにどこかで信じていることなどないでしょうか。主のみことばは必ず成就するのです。それだけは決して忘れてはなりません。

24章31節    人の子は大きなラッパの響きとともに御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで四方から、人の子が選んだ者たちを集めます。

31節は明らかに旧約聖書から引き出されているものです。それはイザヤ書やエレミヤ書、エゼキエル書に登場します。それらによると、散り散りにされ、また捕らわれていた神の民を、神が大きな角笛の音によって再び呼び集められることを指しています。

御使いとは誰でしょうか。「天使」でしょうか。この場合、神が天使を用いて天的な方法で「人の子が選んだ者」たちを世界中から集められることになります。「人の子が選んだ者」とは誰でしょう。罪に苦しみ、イエス・キリストに救いを求め、イエス・キリストによって心が開かれ、聖霊が注がれ、イエス・キリストの十字架による罪の赦しの信仰が与えられ、救われた者たち。そして主が様々な方法で、時には迫害や何かに追われてなど消極的な方法によって(どうして私はこんなところにいるのだろうかと思う時もあるでしょう)、時には御国の福音への献身の思いが与えられて(私は主によってそこに〈大げさなものではなくても、友だちのところにとか、仕事の現場とかに〉遣わされて行くのだという思いが与えられたりするでしょう)など積極的な方法によって、主によって選ばれ、それぞれの所に遣わされ、そこに置かれ、人々の間で御国の福音のために用いられてきた人たち。つまり私たちです。彼ら、そして私たちは不思議な方法で遣わされた地、隣人の間において様々な迫害にあったのかもしれません。命を奪われることはなくても、信仰がある故の多くの労苦があるでしょう。しかしその時、天的な方法によって主に選ばれた者たちは世界中から集められるのです。世界中どこにいても、何をしていても、どんなに苦しい状況にいたとしても関係ない、誰一人漏れることなく集められるのです。御使いたちは、主の民がどこにいても見つけ出して主のところに連れて行くのです。こうして、世での痛みと労苦の時が終わるのです。今は実感がなくても、確実にこの主の御心は満たされてきており、やがて成就するのです。私たちはこのことを忘れてはなりません。

また、御使いとは原語を直訳するなら「使者」となりますが、これは世界中に神のみことばを伝える人、福音を宣べ伝える人を指すのでしょう。この場合、彼らが宣べ伝えた福音によって、終末の「そうした苦難の日々」の中で、神に救いを求める人々が集められることになります。これは教会の世界的成長ということです。これから教会の世界的成長が起こるのでしょうか。そうかもしれません。パチンコ店に行列を成す人々、駅前でごった返す旅行客、善光寺のお祭りで賑わう人々、彼らが主に立ち返り教会に行くようになったら、その場で主に祈る者とされたら、どれだけ教会は成長するでしょう。しかし、教会の世界的成長はすでのなされたのかもしれません。エルサレムの神殿は陥落しました。これはイスラエルの特別な身分が終わったということです。イスラエル中心の神の国が終わったということです。イスラエルという民族の壁が取り壊され、異邦人に福音が宣べ伝えられて、アブラハム契約(神のあのみことば、約束)が成就するのです。つまり、今は終わりの時(時代)であるということでしょう。主はそのことをしっかりと見つめ、認識するように言われます。しかしまだ終わりではない。思考停止してはならない。あなたがたにはまだ成すべきことがあるのだからと、主は言われます。

24章32節    いちじくの木から教訓を学びなさい。枝が柔らかになって葉が出て来ると、夏が近いことが分かります。

冬から春まで葉がなかったいちじくの木に、晩春になって葉が出て来ることは、夏の到来を告げる風物詩です。その季節になったら必ずそうなるということです。同様に、これまでイエス様が語られた苦難のしるしを見たなら、その日が近づいていることを私たちは悟らなければなりません。私たち救われた者たちにとっては、思いがけない時に訪れるイエス・キリストの再臨の日は喜びの日となりますが、その時信じていない者にとってはわざわいとなってしまいます。イエス・キリストの再臨が今来ても良いように、霊的な緊張感をもって主のみことばに従い、神が私たちに求めておられる生き方に努めたいと思わされます。復活の主が天に昇られた時、主は弟子たちに何を求められたでしょうか。「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じてきた、すべてのことを守るように教えなさい」と、主は言われました。そして「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」と言われたのです。

24章33節    同じように、これらのことをすべて見たら、あなたがたは人の子が戸口まで近づいていることを知りなさい。

ヤコブ書では「見なさい。さばきを行う方が戸口のところに立っておられます」と言われています(ヤコ59)。ヨハネの黙示録で主はこのように言っておられます。「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」(黙320)。この後、聖餐式が執り行われますが、聖餐式は主とともに与る天の祝いの食卓の前味です。天国の前味です。主を信じ、すべての罪が赦され、神との平和を恵みによっていただいた者だけが味わうことができる永遠の祝福の光景です。主はこの祝福に、すべての人を最後の最後まで招かれるのです。しかし、戸が開けられないまま終わりを迎えてしまったならば、その後のセカンドチャンスはありません。このことはすでに22章のところで語られましたが、覚えておられますか。このこともまた、厳しいことですが私たちが決して忘れてはならないことです。

24章34節    まことに、あなたがたに言います。これらのことがすべて起こるまでは、この時代が過ぎ去ることは決してありません。

イエス・キリストを見て、イエス・キリストの十字架を仰ぎ見て、イエス・キリストのことばを聞いて、信じて救われた世界中の人々がみな、ラッパの響きを合図に神のもとに集められる前に、それは後に携挙と呼ばれることになる出来事なのでしょうか、その前にイエス様がこれまで語られた苦難のしるしの数々が起こるということです。その前にしか、すべての人が救われるチャンスがないということでしょう。「見よ、今は恵みの時、今は救いの日です」(Ⅱコリ62)。信仰者にとっても苦難の日ではありますが、見よ、今は恵みの時、今は救いの日であると聖書は言います。私たちは主とともに働く者として、神の恵みを無駄にしないようにしなければなりません。

24章35節    天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。

イエス様は言われます。天地は消え去る。しかし神の口、イエス・キリストの口が語られたみことば、主が約束されたことは必ず成し遂げられる。「これだけは決して忘れてはならない」と。「それだけは忘れるなよ」と。

世のものはみな移り変わりますが、神のみことばは永遠です。いつまでも果てしなく続きます。時間を超えて存在します。決して変わることがありません。朽ちることがありません。必ず主の約束は成し遂げられるのです。「天地が崩れても、わたしのことばは決して消え去ることはない」。そのみことばを信じる信仰によって歩むなら、私たちの歩みはどのような歩みになるでしょうか。私たちのいのちは輝くでしょうか、輝きを失うでしょうか。励まされるでしょうか、失望するでしょうか。喜びますか、悲しみますか。

イエス様は終わりの日にご自身が再臨される時に現れる兆候について、弟子たちに話されました。そして、主のみことばのとおりに完全に成し遂げられる日、イエス・キリストの福音を信じて救われた私たちには喜びとなる日が必ず来ます。しかし、イエス・キリストを信じない者たちにとっては絶望、悲しみ、失望の日が必ず来ます。私たちはどうすれば良いのでしょうか。私たちはどのように歩むべきでしょう。

私たちは今一度、しっかりと主のみことばを信じる信仰に立ち返り、目を覚まして、耳を澄まして、神の御声に聞き、そして従いたいと思います。神の永遠の約束、いつまでも果てしなく続き、時間を超えて存在し、決して変わることのない、朽ちることのない主の約束を覚え、約束のとおり永遠のいのちが与えられている者として、主が遣わし私たちそれぞれに任された場所において、真理のみことばにふさわしい行いをし、そのみことばの証人として福音の証しをする使命を忠実に果たして参りましょう。今日が苦難の日であっても、主は約束どおり終わりの時までともにいてくださり、私たちひとりひとりを終わりまで守り導き、終わりの時にはすべての労苦に報いてくださいます。今日を恵みの日、救いの日としてくださいます。

「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。そのことだけは忘れるなよ」。今朝、私たちは主のわが子を思う愛ゆえの警告、そしてわが子を思う愛ゆえの慰めと励ましを、しっかりと受け取りましょう。

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