2025年3月2日 主日礼拝「あなたの神、主がおられるから」
礼拝式順序
賛 美
前奏(黙祷)
招 詞 詩篇103篇1〜5節
讃 美 讃美歌9「ちからの主を」
罪の告白・赦しの宣言
主の祈り 讃美歌564「天にまします」
祈 祷
讃 美 讃美歌195「いのちの君にます主よ」
聖書朗読 コリント人への手紙第一3章16〜23節
説 教 「あなたの神、主がおられるから」
讃 美 讃美歌532「ひとたびは死にし身も」
聖餐式 信仰告白 讃美歌566「使徒信条」
讃 美 讃美歌207「主イエスよ、こころ」
献 金 讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報 告
今週の聖句 コリント人への手紙第一3章16節
頌 栄 讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝 祷
後 奏
本日の聖書箇所
コリント人への手紙第一3章16〜23節
説教題
「あなたの神、主がおられるから」
今週の聖句
あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。
コリント人への手紙第一3章16節
説教「あなたの神、主がおられるから」
コリント人への手紙第一3章16〜23節
- パウロは2つの警告をしていますが、それは何でしょうか。
- 私たちが主以外の何ものをも誇り頼る必要がないのは、なぜですか。
はじめに—御霊、生ける水、親心
とても寒い日が続いた2月が終わり、3月に入りました。私たちの知らないところで確実に季節は巡り、時も過ぎて行っているということです。と言うことは、私たちの知らないところで確実に世は終わりの時に向かって進んでいると言う厳粛な事実をも受け入れなければなりません。そのことを意識するなら、おのずと私たちは個人として、また教会としてどう生きて行くべきかを考えさせられるでしょう。イエス様も「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたは知らないからです」と言われました(マコ1333)。
ここ数日は暖かな日が続きました。木々の枝を見ると、天と地のすべてを創造され、支え配慮されている神に対して全幅の信頼を置いていると言いますか、本当に近い、親しい関係にあるんだなぁと思わされます。人間はなんと神から遠く離れていることか、神のこと、神のなさることなど何も分かっていない、疑い深い、本当に愚かな者たちだと思わされます。私たちが寒い、春はまだかなどと言っている間に、木々はちゃんと春の到来を知っており、信じており、全く疑わずに黙って春の芽吹きの準備をしているのです。冬の冷たく強い北風、木枯らしが吹きすさび、「木枯らし」の文字通り、その風が木を枯らし、人の目には木が枯れてしまっているように見えていても、内側にはしっかりいのちがあり、芽を膨らませてその時のための準備をしているのです。しかも、冬の間にしっかりと寒さに当たらなければ(試練を経験しなければ)花を咲かせられない、実を結べないというものもあるのです。何だか人間にも通じる創造主なる神の深い知恵を思わされずにはいられません。
私は先日、昨年の春にあるバラ好き仲間の牧師から1本の小さな接ぎ木苗をいただき喜んで世話をしていました。ところが秋頃からあまり世話が出来ず、いつの間にか枯れてしまい、諦めて見放しにし、土がカラカラに渇いていそうなのが視界の隅に入っても見なかったことにし、水やりをしてやれなかったのですが、最近何と枯れたと思っていた枝の芽が膨らんで来ていたのです。私は慌てて水をやり、植え替えをしました。植え替えをした時に分かったのですが、土の中の根っこはしっかりと生きていたのです。水やりをしてやれなかったことが悔やまれました。そこでハッとさせられました。たとえ人が枯れて死んだように見えても、すべてをご存知の神はその人の内にあるいのちを認め、決して見放すことなく御霊を注ぎ続けられるのだと思わされたのです。御霊、聖霊のことを聖書は「生ける水」とも言います。また御霊、聖霊は父なる神の霊、心、つまり親心です。子を思う親の心。私たちも植物が大好きな方であればなおされ、水をやる時にただ水を心なくぶっかけるのではなく、そこに植物に対する色々な思いが込められているのではないでしょうか。ごめんねとか、元気になってねとか、きれいな花を咲かせて私を喜ばせてねとか。神もそのような思いとともに生ける水を人に注ぐのではないでしょうか。父なる神は、かつて罪によって死んだような私たちを決して諦めない愛とあわれみによって見つめ続けられ、私たちが無自覚でも、助けを求める対象が曖昧であっても、ほんの少しでも「神さま」と真の神であるご自身に助けを求めた時、神は直ちに小さな信仰を見いだし、その人をしっかりと捕らえ、ただ恵みによって御子イエス・キリストの十字架のゆえに一切の罪を赦し、御霊を、生ける水を私たちに注いでくださったのです。私たちに親心を注いでくださいました。それは私たちが良い子になったからではありません。私たちがまだ罪人だった時、悪い子だった時にです。「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます」(ロマ58)。この神が私たちの主なのです。恵みです。感謝です。それなに、今もなお私たちは神に対して罪人です。時に自らの罪ゆえに死んだ者のように生きてしまう者たちです。弱さのゆえに相変わらず罪を繰り返してしまい、同じように死んだように生きてしまう者を、ただ一度成し遂げられたイエス・キリストの十字架のゆえに、それでも私たちを愛し、諦めずに変わらずに愛とあわれみによって見つけ続けられ、御霊を、生ける水、親心を注ぎ続けてくださっています。そして御霊を私たちの内に住まわせてくださっています。私たち一人ひとりを聖霊の宮、神の心が注がれ宿る神の宮としてくださっているのです。そして同じ主により選ばれ、ここに招かれ、召されてここに呼び集められた人々(聖霊の宮、神の心が注がれ宿る神の宮)の群れ、それが教会です。
神の宮である教会
3章16節 あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。
3章17節 もし、だれかが神の宮を壊すなら、神がその人を滅ぼされます。神の宮は聖なるものだからです。あなたがたは、その宮です。
聖書の他の箇所では、個々のキリスト者が聖霊の宮であるとされていますが、今日のこの箇所では、神の御霊が宿る神殿はキリスト者の共同体、つまり教会であるとされています。パウロはこの共同体である教会を分裂させるのは、神の宮を打ち砕くようなもの。教会を分裂させることは、聖なる神殿、神によって神のものとされている教会をだめにすること、そこに注がれている神の心さえも引き裂くことになるなので、「神がその人を滅ぼされる」と言われるほどに罪深い行為であると言います。怖いですね。そこでパウロは、コリントの教会が分裂しないようにと2つの警告をします。
1つ目の警告:自分を欺いてはいけない
3章18節 だれも自分を欺いてはいけません。あなたがたの中に、自分はこの世で知恵のある者だと思う者がいたら、知恵のある者となるために愚かになりなさい。
「だれも自分を欺いてはならない」。自分には知恵があると、自分を欺いてはならない。自分で自分をたぶらかしてはならない。たぶらかすというのは、騙して、惑わして、間違った道に導くことです。
主は言われます。「わざわいだ。自分を知恵のある者と見なし、自分を悟りのある者と思い込む者たち」(イザ521)と。自分を知恵あるもの、賢い者だと見なしたり思い込んだりすることは大変危険なことです。そうならないために、「あなたがたは愚かになりなさい」と言います。
3章19節 なぜなら、この世の知恵は神の御前では愚かだからです。「神は知恵のある者を、彼ら自身の悪巧みによって捕らえる」と書かれており、
3章20節 また、「主は、知恵のある者の思い計ることがいかに空しいかを、知っておられる」とも書かれています。
自分の持つ知恵、それはこの世の知恵でしょう。この世の知恵とは、いかにこの世的な肉の欲望を満たすかでしょう。私たちも放っておけば、自然とそちらへと心が傾いてしまい、何とかその欲望を満たせないものかという悪知恵が働いてしまう。思い計るのです。陰謀を企てるのです。淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類いのものに心が傾き、これくらいは良いだろとか、これは罪ではないだろうとか、これは主のためであるとまで、色々と正当な理由を付けてこれら肉の欲を満たそうとしてしまう人間の悪知恵、陰謀(ひそかな企み)。
まさにコリントの聖徒たちはそのような状態にあったようです。いくつかのグループに分かれ、それぞれに有力な指導者を立て、互いに裁き合い、蔑み合い、分裂の危機にあったのです。グループに分かれてはいましたが、結局は権威の笠を着ての個人的なものでした。その裁き合いが本当に神の知恵によるものであったなら、パウロはこのような警告はしていなかったでしょう。教会が聖さを保つためには、ある程度のそういったことは必要だからです。聖書も「知恵を尽くして互いに教え合い、忠告し合いなさい」と教えています。ただ続けて「ことばであれ、行いであれ、何かをするときには、主イエスによって父なる神に感謝し、すべてを主イエスの名において行いなさい」と教えていることは重要です(コロ312-17)。しかしコリントの教会はそうではありませんでした。人間の知恵を誇り、人間の知恵によって裁き合い、誰が一番偉いだの、優れているだのと争い、そして分裂の危機にあったのです。
そのような悪知恵、陰謀(ひそかな企み)に対しては、愚かになりなさい、馬鹿になりなさい、まったく鈍感で間抜けな者になりなさいとパウロは言うのです。この世の知恵は、神の御前では愚かだからです。神においてはまったく馬鹿げており、つまらなく間抜けなものであり、何の価値もないからです。
そして人の悪知恵がいかに空しいかをご存知の神が、その人を「彼ら自身の悪巧みによって捕らえるから」です。逃げようとする人を捕まえて取り押さえるからです。それは自分の欲望を何としても成し遂げようとする者にとっては、とても辛く苦しい、神にひどく裁かれているのだと思えるものとなるのです。
しかし本当の神のさばきというのは、その人をなすがままにされることです。「心の欲望のままに汚れに引き渡され」ることです(ロマ124)。それなのに神はその人を捕らえる、ご自分のもとから逃げようとする人を取り押さえるというのですから、ここにも神の心があるのでしょう。親心が注がれているのでしょう。ここにご自分が悪者になってまでも、わが子を何としても滅びから守ろうとする、決して諦めない愛が注がれ続けていることを忘れてはならないのです。「ごめんね、お前が大切だよ、良い実を結んで欲しい、真のいのちを得て欲しいのだ」という神の心、御霊が注がれていることを忘れてはならないのです。
2つ目の警告:人を誇ってはいけない
3章21節 ですから、だれも人間を誇ってはいけません。すべては、あなたがたのものです。
次に、自分以外の人間も誇ってはならないと言います。これは党派についての警告です。先ほども「権威の笠を着て」と申しましたが、彼らはパウロだの、アポロだの、ケファ(ペテロ)だの、自分たちが立てた指導者こそ正しく、自分たちが立てた指導者が1番だ、この人に従えと互いに対立していました。しかし実はパウロも、アポロも、ケファも、皆同じ主イエス・キリストを信じ、主イエス・キリストの十字架によって罪赦され、そして救われ、心からの感謝と愛をもって主イエス・キリストに従い、そしてすべての人が救われるために、人を救うことのできる唯一の主イエス・キリストの十字架の福音を宣べ伝える者たちでした。神と救われるべき人たちのために身を低くして仕える奉仕者でした。誰一人として自分の権威を振りかざしたり、自分を高く見せたり、自分の信仰こそ正しいとしたり、自分を誇ったりする者たちではなかったのです。そもそも彼らのイエス・キリストを信じる信仰さえも、そして使徒として召されたことも、まだ罪人であった時に(ある者は主を裏切り逃げた。ある者は主の教会を迫害し信者を捕らえ殺した)主に赦され、神から聖霊・御霊を注がれ、聖霊を通して神からただで(恵みによって)頂戴したものでしたし、彼ら自身も言っている通り「私は罪人のかしら」であるという自覚のある彼らには何一つ誇れるものはなかったのです。またすべての人にも、私たちにも、何一つ自慢できるものはないのです。誇れるもの、頼れるものは神、主、ただおひとりです。
3章22節 パウロであれ、アポロであれ、ケファであれ、また世界であれ、いのちであれ、死であれ、また現在のものであれ、未来のものであれ、すべてはあなたがたのもの、
「すべてはあなたがたのもの」である。この「あなたがたのもの」の意味は、「あなたのために働いている、あなたのことを思っている」というものです。
先ほども触れましたが、パウロも、アポロも、ケファも、あなたのために働いている者たち、あなたのことを思って奉仕している者たち。誰も人の上に立ちたい、立ててもらいたいなどと考えていない者たちでした。
さらにパウロは範囲を広げ、この世界、つまり神が創造され、今も変わらずにご支配されているこの世界、神が完全に支え配慮されているこの世界、そしてこの世界の中で起こっている良いと思えることも、悪いと思えることさえも、すべてあなたのために働いている、あなたのことを思っているのだと言います。いのちであれ、死であれ。喜びに溢れ生き生きと生きられる時もあれば、苦しみ、悲しみ、死んだように生きなければならない時もある。しかしすべてあなたのために働いている、あなたのことを思っているのだと言います。現在のもの、目の前の現実。そして未来のもの、期待して信じてはいるけれども、ぐずぐずしていて、遅れているように感じてもどかしく思う。疑いさえも起こってくる。こんなに寒くて本当に春は来るのだろうか、私はこんなにも木枯らしに吹かれて枯れたような姿になっているというのに。しかしすべてあなたのために働いている、あなたのことを思っているのだと言います。神の計り知れない素晴らしい知恵があるのです。それでも神の心、御霊、生ける水が注がれ続けているのです。そのように言える根拠は23節です。
3章23節 あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものです。
なぜなら、あなたがたは今、キリストに属している、そしてキリストは神に属している。
あなたがたはキリストのもの、キリストは神のもの
パウロは言います。「あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです」(Ⅰコリ619-20)。
神はすべての罪人を愛しあわれみ、かわいそうに思ってくださり、何とか救いたいとご計画を立ててくださいました。
神はすべての罪人である人間のために、ご自身の御子イエス・キリストをこの世に遣わされました。そして罪がまったくない神の御子イエス・キリストを、私たちすべての罪人の身代わりとして十字架につけられました。御子イエス・キリストは十字架で、神が旧約時代に定められた罪のために献げられるいけにえのようにずたずたに屠られ、そして血を流されました。その流された血によってすべての罪を赦そう。流された血という高価な代価によって罪の奴隷から解放しよう。また、宥めの供えものとなられたイエス・キリストの犠牲によって、ご自分の罪人に対する怒りを宥め、完全に消滅させ、完全な平和な関係を回復しよう。それが神の救いのご計画、そして約束です。
神が恵みによって一方的に立てられたこのご計画、そしてこの約束をただ信じて、すがって信頼して受け入れる者には、その約束通りすべてが成し遂げられる。その日からは罪ではない、わたし(神)があなたの主人となる。わたし(神)があなたの真の親となると、御霊を注がれる。恵み計画です。恵みによる一方的な約束です。愛される資格のない者が愛される。赦されるはずのない者が赦される。神の宮(教会)は、このような恵みをいただき、神の霊、神の心、親心、御霊を、聖霊を注がれ、御霊が宿る聖霊の宮とされた者たちが呼び集められた所です。死んだように生きていた者に生ける水が注がれ、生ける水によって真に生きるものとされた者たちが呼び集められた所です。そして主によって召し集められた聖霊の宮である一人一人が、キリストにあってともに築き上げられ、ともに成長し、御霊によって真の神の御住まい、教会となるのです。
さらに教会は、自分たちのからだをもって、キリストのからだとなって神の栄光を現すようにと命じられています。どのように神の栄光を現して行くのでしょうか。
誇るべきは、また頼るべきは神、主イエス・キリストおひとりである。キリストの教会の中で誇れるのは、また頼れるのは、この世の誰でもない、この世の人がこの世の人や木や石などの被造物を神として仕立て上げたなにものでもなく、真の神であり、十字架につけられ死なれ、そしてよみがえられた主イエス・キリストただおひとりである。この信仰に生きる姿、このお方だけにすがって信頼して生きる姿をもって神の栄光を世に証して行くのでしょう。だれかを誇り、だれかを頼り、だれかを担ぎ上げて互いに争う姿ではないのです。自分を誇り、自分を頼り、自分を担ぎ上げる姿ではないのです。それではこの世と何も変わりません。この世の人々が教会に救いを求める理由がありません。神の愛、神の心、神の霊、御霊、聖霊を内に宿し、唯一まことの神、主イエス・キリストを誇り、どこまでも信頼し、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝できる教会という共同体の姿。この世とは一線を画す、神の恵みに満ちあふれ、神の恵みによって生きる教会に、人々は救いを求めて来るのではないでしょうか。
神が神の教会に期待すること
パウロはコリントの聖徒が、教会に対して正しい認識を持てるように、教会について教えました。彼らはほとんどがユダヤ人ではなく、神の教会を他の宗教の神殿と同じようなものという考え方を持っていたのかもしれません。確かに神の教会は、聖徒が集まって礼拝を行ったりする宗教的な活動をする場所です。しかしそれ以上の意味と神のご計画があるのです。
神の教会の何よりの特徴は何でしょうか。御霊が与えられた、神の霊、親心、生ける水が注がれた、罪によって死んだ者のように生きていた者たちが、恵みによって再び生きる者とされた。イエス・キリストの十字架を通して、神に愛される資格のない者が愛された、赦されるはずのない者が赦された、その恵みによって再び生きる者とされた、そのような聖徒たちが集まるところだということです。
そしてパウロは御霊に満たされているようにと教えます。御霊に満たされているためには、祈り求めなければなりません。御霊に満たされるために罪から離れ、みことばに学び、みことばに生き、そしていつも主を賛美する。御霊に満たされた兄弟姉妹によって、教会は真のいのちに満ちあふれ、そこに神の栄光が現されて行くのです。灯台のように、暗い世に光として立ち、世の暗闇、嵐に迷い苦しむ者たちが目指して来る所となるのです。そのような所となっていないとするならば、神の教会の中に、人間の欲望や高ぶりが持ち込まれ、真の世の光であるイエス・キリスト以外のものがあがめられ、尊いものとして敬われ、特別に愛されてしまっているという問題があるのかもしれません。私たちは御霊の力によって動かされ、そのような問題があるならばしっかりと向き合い、悔い改めなければならないでしょう。罪があるならその罪を悔い改め、個人の罪ばかりではなく、教会の罪を告白し、赦しを求め、赦していただき、御霊にきよめていただいて、教会に託された働き、主に委ねられた働きに励んでまいりましょう。神のご計画によって、神によって選ばれ、神によってここに集められた一人一人に期待され託された奉仕に生きましょう。そしてそのように生きることが、神が喜ばれ、私たちも喜びに満ちあふれる、真に幸いなそれぞれの人生、また喜びに満ちあふれた真に幸いな教会生活となるのです。