2026年1月25日 主日礼拝「終わりの勧めとあいさつ」
招 詞 詩篇32篇1〜5節
賛 美 新聖歌376「いかに汚れたる」
新聖歌377「見よ十字架より降る」
讃 美 讃美歌7「主のみいつと」
信仰告白 讃美歌566「使徒信条」
主の祈り 讃美歌564「天にまします」
祈 祷
交読文 詩篇18篇
讃 美 讃美歌525「めぐみふかき」
聖書朗読 コリント人への手紙 第一 16章13〜24節
説 教 「終わりの勧めとあいさつ」
讃 美 讃美歌227「みそらたかく」
献 金 讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報 告
今週の聖句 コリント人への手紙 第一 16章13〜14節
頌 栄 讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝 祷
後 奏
本日の聖書箇所
コリント人への手紙 第一 16章13〜24節
説教題
「終わりの勧めとあいさつ」
今週の聖句
目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。雄々しく、強くありなさい。
一切のことを、愛をもって行いなさい。
コリント人への手紙 第一 16章13〜14節
説教「終わりの勧めとあいさつ」
コリント人への手紙第一16章13〜24節
親はなぜ子どもを叱るのか
親はなぜ子どもを叱るのでしょうか。死んでしまうからです。神も同じです。私たちの真の父である神は、私たち一人ひとりを愛し、私たち一人ひとりが本当に大切なので、私たちが一人として霊的にも肉体的にも死んでしまうことのないように、時には語気の強いことば、耳の痛い注意や厳しい警告、時には実際の懲らしめという形でお叱りになるのです。教会に対しても同じです。神はコリントの教会と、パウロとパウロがしたためたコリント教会への手紙を通して、教会に対するご自身の愛。教会が神にとっていかに大切なのか。教会が倒れて死んでしまわないように「こうあって欲しい。こうあるべきだ」というものを明らかにされています。ちなみに、聖書が「死んでいる」などというのは、生き物としてのいのちのことではありません。神の御心通りに活かされていなければ、見た目は立派でも実は死んでいる。死んだ政治、死んだ教育などと言いますが、そのような状態のことを「死んでいる」というのです。それが聖書が見るこの世界の大問題です。私たちは神の御心通りに活かされているでしょか。また私たちの教会は生きているでしょうか。どのようにしてそれが分かるのか。それは、必ずそこに喜びが生じるのです。私たちが喜んでいるかそうでないかで、聖書が言う生かされている、死んでいるということが分かるのです。
パウロを通して明らかにされる神の愛
これまで2025年1月12日から1年にわたって見てきましたコリント人への手紙第一ですが、本朝で終わりとなります。これまでコリントの聖徒たちにとって、私たちにとっても耳の痛い箇所がたくさんありました。しかしこの手紙の全体は、私たちと私たち教会に対する、まさに神からの愛の手紙だと言えるでしょう。神はエレミヤという預言者を通して言われました。「わたしは、だれが死ぬのも喜ばない——神である主のことば——。だから立ち返って(悔い改めて)、生きよ」(エレ1832)と。あなたには生きて欲しいのだと。
神はパウロを通してコリント教会に対するご自身の思いを明らかにしておられます。それは同時に、今の私たちに対する神ご自身の思いでもあります。その神の思いを、愛を、今一度覚えたいと思います。
パウロはコリントの教会を愛していました。そしてこれからも愛するのです。彼らの間にどんなに問題が多くても、その愛は変わらないのです。パウロはコリント教会のことを思いながら心を痛めていたはずです。そのために彼らが抱えていた様々な問題の解決に取り組み、時には彼らを責め、皮肉り、時には語気荒く警告してきました。今日の箇所にも「主を愛さない者はみな、のろわれよ」と語気荒く激しいことを言っていますが、しかしそれらはすべて愛の故でした。
そしてパウロはこの手紙を終えるにあたり、教会に対する最後の勧めと、教会に対する深い愛を示します。
最後の勧め
16章13節 目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。雄々しく、強くありなさい。
前回は「開かれた門と敵対する者」というところを見たのを覚えておられるでしょうか。そこには矛盾があるのだと。例えば、私たちが神に近付くと、ちょうど影のように、光が近づくと影も濃くなり、光から遠ざかると影も薄くなる。私たちが神に近付き祝福を受けるようになると、それに反対したり敵対したりする力が強くなり出す。それは外部からだけではなく、自分の内面にも起こってくることであると。だから「目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。雄々しく、強くありなさい」と、パウロは(パウロを通して主は)そう勧めるのです。
目を覚ましていなさい
パウロはまず、コリントの聖徒に目を覚ましているようにと教えます。私たちを霊的にも肉体的にも真に生かす本物と偽物を見分ける。神の知恵と世の知恵とを区別する。そのためには霊的に眠っているような状態ではいけないのだと、注意を与えます。教会とクリスチャンを倒そうと脅かし、虎視眈々と入り込む隙を狙っている敵に対して、常に警戒し、注意を怠ってはならないのです。また、この敵というのは、サタンや教会の福音宣教を妨害する外部からの者たちだけではなく、分派、高慢、罪、無秩序、間違った教えなど、実は教会の内部、また私たちの内側からのものでもあります。
「目を覚ましていなさい」。これは主イエス様ご自身が繰り返された勧めです。マルコの福音書では、イエス様の再臨に備えて「目を覚ましていなさい」と、ご自身が愛し、そして愛し抜かれた弟子たちに繰り返し言っておられます(マコ1333-37)。同じマルコの福音書14章では、1番弟子のペテロに「シモン、眠っているのですか。1時間でも、目を覚ましていられなかったのですか。誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです」(マコ1437-38)と、ペテロにとっては耳が痛く、心が責められることを言われ、そして強く命じておられます。愛するが故にです。わが子に絶対に死んで欲しくないからです。「目を覚ましている」ということは、コリントのような誘惑の多い町では特に大切なことでした。現代の私たちもまた、私たちを堕落に導くものが周囲にたくさん満ちているので、「絶えず目を覚まし、正しい生活を送り、罪を犯さないように」(Ⅰコリ1534)しなければなりません。
堅く信仰に立ちなさい
また、パウロは「堅く信仰に立ちなさい」と言います。どこに堅く立つのでしょうか。それはコリントの聖徒たち、また私たちが最初に聞いて学び、感情だけでよく考えもしないで信じたのではなく、よく考えて、理性的に判断し、納得して信じたあの福音です。信仰生活の長い短いに関係なく、先ほどの矛盾ではないですが、私たちが神に近付けば近付くほどに強く働き出す悪の力。福音の深い真理を見いだせば見いだすほどに、それを疑わせよう、そこから目を逸らせようとする力が働く。パウロは「今のあなたがたの信仰」の上に堅く立ちなさいとは言っていません。私たちが堅く立つべき信仰は、パウロがコリントの教会に当初から伝え、コリントの聖徒たちがそれを信じて救われた福音です。パウロが15章1節からのところで再確認している、福音の核心、基本的信仰です。それは、イエス・キリストが私たちの罪のために十字架で苦しまれ死なれ、しかし3日目によみがえられたことによって罪人の救いを完全に成し遂げられた。そしてよみがえられたイエス・キリストが再び世に来られ、罪人の救いを完全に成し遂げられる。それが私たちにとっての唯一、最大、究極的な救いだということです。私たちが堅く立つべき信仰。私たちがしっかり握って、掴んで、放してはならない信仰。私たちが宣べ伝えるべき福音です。私たちが今、しっかり握って放さないでいる信仰、福音が「私の信仰、私の福音」になってしまっていないか、今一度顧みる必要がありそうです。霊的に目を覚まし、本物と偽物をしっかり見分け、世の知恵と神の知恵をしっかり区別し、そして私自身を含め、すべての人をまことに救う本物の福音、それを信じる信仰に堅く立ってまいりましょう。そしてそれを宣べ伝えてまいりましょう。
雄々しく、強くありなさい
「雄々しくありなさい」というのは、「小さな男の子は成人の男になりなさい」を意味する語です。パウロは分派だとか、ねたみや争いだとか、不道徳だとか、そのような問題を生じさせてしまったような幼子のような自己中心、自らの未熟さを脱ぎ捨てて、一人ひとりが主にあって成長するようにと教えているのです。また「雄々しく、強く」というのは、この世の多くの人は広い門から入り、皆がその道を行くけれども、「真のいのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことか。そして、それを見いだす者はわずかである」(マタ714)とイエス様が言われていますが、あなたがたはイエス・キリストを信じて神に霊の目を開いていただき、恵みによって見いだすことができた狭いいのちに至る門、そしてあなたがたが恵みによって召され招かれた救いの道、その先の細い道を、信じて、勇気を出して、自信を持って、やってやろうという気持ちを身体中にみなぎらせ、しっかり行きなさいという、パウロ、そして父なる神の願いであり祈りです。
すべてのことを愛をもって
16章14節 一切のことを、愛をもって行いなさい。
これは愛の手紙の中でも特に愛の章として有名な13章で語られた通りです。「たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます」(131-7)。
目を覚ましているにしても、堅く信仰に立つにしても、雄々しく、強くあるにしても、それらすべてに愛がなければ、それは神が望まれていることとだいぶ違ってきてしまいます。独善的、排他的、他に対する関心も配慮もない信仰と奉仕となってしまう。私さえ良ければ。これは美しい考えではありません。このような信仰者に、世の誰が憧れるでしょうか。あの人が信じている神、信仰を知りたいと誰が思うでしょうか。
ステファナを推薦する
ここに、コリント教会における愛の奉仕者が推薦されます。ステファナとその家族です。
ステファナという人は、アカヤでパウロから福音を聞いて最初に悔い改めた人でした。そしてステファナの家族は、パウロが唯一コリントでバプテスマを授けた家族でした。異教都市であったコリントの町で一家揃ってキリスト・イエスを告白したことは、パウロにとってどれほどの喜びであっただろうかと思います。このステファナ一家が、パウロがコリントの教会を建て上げるのを助け、教会に忠実に仕えたようです。
ステファナの家族は一家をあげて「聖徒たちのために熱心に奉仕してくれ」ました。彼らの奉仕によって、はじめは家の教会のような小さなものだったのが、段々と信じる人たちが加えられ、活気づき、教会となりました。パウロはこの家族をクリスチャンの生き方の良い手本としてここに推薦するのです。
彼らが具体的に何をしたのかは分かりません。しかし「聖徒たちのために熱心に奉仕してくれた」とはっきりと記されています。初穂としての責任感からだったのでしょうか。恐らくそればかりではないでしょう。パウロの1年半にわたるコリントでの働きを脇で支え、パウロの宣教や伝道における激しい戦いや労苦を間近で見て、自分たちの救われた恵み、感謝を日に日に募らせて行ったのではないでしょうか。自分たちも宣教や伝道の働きに加わり、労苦し、一人また一人と群れに加えられ、人々が救われることの幸い、喜びを知り、1つの群れが教会としての形を成して行き、それに携わって来たからこそ教会への愛はとても深かったのではないでしょうか。彼ら自身も伝道し、時には先輩クリスチャンとしてパウロの教えの通りに誰かを正しく指導したり、教えたりもしたことでしょう。パウロと同じように仕事で得た物を教会に献げ、経済的に支えていたのも彼らでした。だからと言って、彼らは教会を「私の教会」とはしていなかったようです。「私の教会」という意識を持ちながらも、教会と教会に集まる人たちに対する愛こそがありました。教会のために悩み、祈り、そして聖徒たちのために熱心に奉仕していました。会堂の掃除も担っていたのでしょうか。コリントは冬も比較的すごしやすかったようです。しかし雨が多かったようです。少し肌寒い日には会堂を暖めて皆を迎え、雨が降っていたなら皆が来る前にそれなりの備えもしたことでしょう。礼拝を整え、来会者をもてなし、愛餐会ではあれこれと心を配ったり。後に群れに加えられた聖徒たちは、その恵みに与っていることに気付いていたのでしょうか。その陰に、本来ならば初穂(教会員第1号)として尊敬され崇められてもおかしくはない人による、人知れずの隠されたたくさんの奉仕があったことに。そのような恵みに与りながらも、どこかお客様気分で、しかも互いに争ったり、教会の秩序を乱したりしていた。パウロがコリントを去り、後に分派争いが起こりましたが、それにも彼らは加担しませんでした。
そんな素晴らしい一家なのに、彼らは聖書の中では全くの無名であり、地味な人たちです。これまで表に出て来てはいませんが、本当に重要な奉仕を担っていた、まさに「縁の下の力持ち」的な存在だったのでしょう。私もあちこちの教会を訪ね、礼拝や交わりを共に持たせていただくという恵みに何度か与りましたが、どこの教会にも必ずステファナのような方の存在を感じるのです。決して目立たないけれども、威張っていないけれども、この方が教会を支えているんだなと感じるのです。教会はともすれば、この世的な能力に優れた人、肩書きや地位の立派な人を重んじがちですが、実は真に教会を支えているのはステファナのように教会に腰を据え、誠実に奉仕に徹する、無名で地味な人たちなのだと思わされます。そのような人たちは、ステファナのように聖書に名前が挙げられ、褒められるという栄光の祝福に与るのです。聖書を見ると、この世での私たちの言動すべてが神の書物に記されているようです。私たちはどのように記していただいているでしょうか。是非ともステファナのように神からの栄光の祝福をいただき、天の御国では喜びに満ちて永遠に生かされる者にされたいと願います。
そこでパウロは勧めます。
16章16節 あなたがたも、このような人たちに、また、ともに働き、労苦しているすべての人たちに従いなさい。
「従いなさい」とは、「服従しなさい」ということではありません。「倣いなさい、同じようにしなさい」ということです。また、テサロニケ人への手紙第一5章12〜13節にはこのようにあります。「兄弟たち、あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人たちを重んじ、その働きのゆえに、愛をもって、この上ない尊敬を払いなさい。また、お互いに平和を保ちなさい」と。尊敬を払いなさい。彼らをリスペクトしなさい。そして彼らに倣いなさい。
教会の全員がステファナのようであるなら。私の教会だという意識、責任感をしっかり持ちながらも、決して「私の教会」と私物化しないなら、分派争いや分裂など起こるはずもないのです。全員がステファナ家族のようになるなら、コリントの教会はそれはもう素晴らしい教会になるのではないでしょうか。全員が神を愛し、教会を愛し、互いに愛し合い、互いに関心を持ち、何が必要なのかを考え、そして自分の賜物、能力や時間、置かれている環境の中でできる限りの奉仕をする。そこはもう喜びに満ちた素晴らしい神の国です。
17節からパウロはステファナと共に、ポルトナト、アカイコを推薦します。
ステファナ、ポルトナト、アカイコを推薦する
ステファナはパウロに会うために、ポルトナトとアカイコとともにエペソにやって来ました。この2人の名前はここ以外には登場しません。なので他に何の情報もありません。ただ「ポルトナト」は、自由になった奴隷がよく使っていた「幸運」を意味するギリシア名だそうです。ですから彼らはかつてステファナの家の奴隷であったのかもしれません。しかしステファナがイエス・キリストの福音によって救われ、回心し、家族も救われ、一家をあげて熱心に教会に奉仕するようになった。さらにステファナは彼ら人間扱いされていなかった奴隷を自由の身とした。そのようなステファナとその家族の変化を通して彼らも同じイエス・キリストの福音によって救われたことをうかがわせます。
彼らはともに兄弟として、自分を犠牲にしてパウロのもとにコリントの聖徒の質問を記した手紙を届けました。その距離、直線距離にしておよそ500㎞。海路と陸路で10日間ほどの旅。道々、また船の中で、彼らは教会のことについて話してきたのではないでしょうか。主と主の教会を愛し、お互いの立場で意見し合い、受け入れ合い、そしてより良い教会にするにはどうすべきなのかなど、道々話し合って来たのではないでしょうか。それはとても美しい姿だと思います。和解と平和。神の御心にかなった、教会のあるべき姿ではないでしょうか。
パウロの心はそんな彼らの姿に安らがせられました。この語は他に「憩い」、英語では「リフレッシュ」と訳される語です。パウロは神とともに自分が生んだコリントの教会の聖徒たちに会うことを切実に望んでいました。この時エペソで伝道し、獣(サタン、迫害者)と戦っていました。そんな時に彼らが突然やって来たのです。そしてコリント教会からの手紙を渡してくれました。実際は手紙の内容はパウロを少しがっかりさせるものではありましたが、それでもステファナたちのゆえに喜んだのです。心を安らがせた。ホッとした。つまり慰められました。彼らによってパウロは大きく息を吸うことができ、落ち着かせられ、労がねぎらわれ、励まされました。
そしてパウロは想像したのでしょう。このような彼らの存在、彼らの姿、彼らの生き様、彼らの教会に対する愛、彼らの愛による奉仕が、コリントの教会の心をも安らがせているのだろうと。対立など緊張が漂う中で緊張がほぐされ、和まされているのだろうと。教会の中でそのような雰囲気を持つ方がいたら素晴らしいです。パウロはそのような人たちを尊びなさいと言います。「尊ぶ」というギリシャ語はリスペクト、そして彼らの姿から「感じ取る、学ぶ」という意味の語です。コリントの教会に広まっていた分裂がなくなって和解するためには、彼らのような存在がとても貴重だったのです。
教会とは
教会は、彼らのように兄弟姉妹が肉の思いではなく、御霊の思いによって一致し、主のためにともに働く所です。兄弟姉妹と隣人を愛すること。そして福音宣教が、クリスチャンが今もなお天に引き上げられずに、この世に生かされている理由です。教会が存在する理由です。そしてそこに私たちを真に生かすいのちがあるのです。喜びが生じるのです。
イエス様も弟子たちに隣人を愛することが最も大切な戒めだと教えられ、また福音宣教を命じられました。戒め、命令は聞いただけでは何もなりません。それを守り行うのです。守り行い、愛をもって教会の一致に力を尽くし、努力し、分裂や分派、争い、また秩序が乱れ罪が満ちている世に、教会を通しても主にある希望を証ししていかなければなりません。教会が暗闇の世にまことの光として輝いていなければなりません。教会がこの世と何も変わらないのならば、あるいはこの世よりも悪い状態ということもなきにしもあらずです。そのような教会を、だれがリスペクトするでしょうか。誰が教会に救い、希望を感じ取り、見いだすことができるでしょうか。
あいさつ
アジアの諸教会、大きな教会も小さな教会も、未だ開拓中にある家の教会も、すべての兄弟たちがコリントの教会によろしくと言っていると伝えます。そんなあなたたちを受け入れ、覚え、心配し、祈っていると伝えます。世界中、日本中の教会はお互いに決して忘れられてはいない。覚えられ祈られている。とても励まされますね。
そしてパウロは「聖なる口づけをもって互いにあいさつを交わしなさい」と勧めています。聖なる口づけというのは、当時男性は男性と、女性は女性と、頭や頬や手に口づけをしたというものです。これはイエス様が弟子たちの足を洗ったようなものです。自らをへりくだらせ、相手に対する尊敬をあらわし、相手を自分よりも優れた者として受け入れるしるしです。イエス様が私を赦してくださったように、本当に相手を赦し、イエス様が自らを低くされ、この私を尊い者としてくださったように、私のことを愛している、大切なのだとしてくださったように、本当に相手を尊敬し、愛し受け入れることができなければ、私たちは相手の手を取って、手の甲に口づけすることなどできないでしょう。できたとしても、後ろを向いて自分の唇を拭いてしまうでしょう。そうではなく、「何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい」(ピリ23-5)。これはイエス様のうちにある思いなのです。「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました」(ピリ26-8)。この方の姿に私たちは感動し、尊敬し、受け入れ、そして信じて救われたのでしょう。私たちはこの方を、私たち教会を通して証しして行くのです。
パウロ直筆のあいさつ
21節からはパウロが直筆でしたためた挨拶となります。その最初が、語気荒くしたためられた「主を愛さない者はみな、のろわれよ」です。「のろわれよ」というギリシャ語は、神への献げ物を指す語です。神への献げ物はなんでしょうか。屠られた動物です。つまり「主を愛さない者はみな、もう、死んでしまえー!」と言っているのです。しかしこれもやはり、パウロのコリント教会に対する真実の愛によるのです。深い愛の裏返しです。教会を乱し、他の人の信仰を揺るがすすべての人にぶつける警告です。その人も、教会も死んでしまわないための愛による警告です。
「主よ、来てください」。これは初代のキリスト者たちの間であいさつ代わりに使われていた定型句であると同時に、彼らのいつもの祈りでした。
そして最後に、「私の愛が、キリスト・イエスにあって、どうかあなたがたに届きますように」と願っています。冒頭でも申し上げた通り、この手紙でパウロはコリントの教会を責め、皮肉り、警告し、最後には語気荒く「主を愛さない者はみな、のろわれよ」とまで言いましたが、パウロはこの手紙の始めから終わりまで、コリントの教会に対する自身の深い愛をあらわしているのです。始めから終わりまで、すべて愛の故。死んでしまってはいけないから。そしてこの手紙の全体は、私たちと私たち教会に対する、まさに神からの愛の手紙です。パウロを通して明らかにされた神のコリント教会への思い。そしてコリント教会への思いを通して明らかにされておられる今の私たち教会への思い、願い、御心を今一度しっかりと覚えたいと思います。

