2026年6月21日 主日礼拝「つぶやきから感謝へ」
前 奏 黙祷
讃 美 新聖歌420「雨を降り注ぎ」
新聖歌435「罪に沈む汝が友に」
招 詞 歴代誌第一 16章8〜14節
讃 美 讃美歌79「ほめたたえよ」
使徒信条 讃美歌566「我は天地の造り主」
主の祈り 讃美歌564「天にまします」
祈 祷
交読文 詩篇104篇(新聖歌 交読文33)
讃 美 讃美歌3「あめつちの」
新聖歌166「威光・尊厳・栄誉」
聖書朗読 民数記11章1〜9節
説 教 「つぶやきから感謝へ」
讃 美 讃美歌247「おりをはなれ」
新聖歌325「歌いつつ歩まん」
献 金 讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報 告
今週の聖句 テサロニケ人への手紙 第一 5章16~18節
頌 栄 讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝 祷
後 奏
本日の聖書箇所
民数記11章1〜9節
説教題
「つぶやきから感謝へ」
今週の聖句
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
テサロニケ人への手紙 第一 5章16~18節
説教「つぶやきから感謝へ」
民数記11章1〜9節
はじめに
前回の民数記10章では、イスラエルの民がついにシナイ山を出発した場面を見ました。主の契約の箱が先頭に立ち、神の幕屋を中心に、イスラエルの民が秩序正しく、約束の地を目指して進み始めました。
私たちはそこに、神に導かれる民の美しい姿を見たのではないでしょうか。神を信じ、神のみことばに従い、約束の地への希望を抱いて、喜び勇んで進んで行く姿を想像したのではないでしょうか。そして、その神の民の姿に、私たち自身を、また教会の姿を重ね合わせたのではないでしょうか。
ところが聖書は、その輝かしい出発の直後に、たいへん残念な場面を記します。
つぶやきは神への不信仰から生まれる(1〜3節)
1章1節 さて、民は主に対して、繰り返し激しく不平を言った。主はこれを聞いて怒りを燃やし、主の火が彼らに向かって燃え上がり、宿営の端をなめ尽くした。
シナイ山を出発したばかりの民が、もう不平を言い始めたのです。しかも、それはパランの荒野に着くまでの、たった三日の道のりの間で起こったことでした。
ここに「さて、民は主に対して、繰り返し激しく不平を言った」とあります。原文のヘブル語では、現状への不満、納得できない思い、小言を、ぶつぶつと口にするとなっています。いわゆる「つぶやき」です。
本来、つぶやきというのは、大声で反乱を起こすことではありません。個人的な不満や愚痴、泣き言を、小さな声でぶつぶつと口にすることです。しかし、小さな声の「ぶつぶつ」は何度も繰り返され、それは「激しいもの」だったと言います。そのつぶやきを、主は聞いておられました。そして主は怒りを燃やされたのです。
なぜでしょうか。
それは、そのつぶやきが単なる疲れや弱音ではなく、主に対する不信仰であり、主の導きへの反抗だったからです。
ところで最近では、「つぶやく」と言えば、SNSで気軽に発信することを思い浮かべるかもしれません。個人の何気ない一言が、あっという間に広がり、多くの人の共感を集め、時には社会を動かすほどの影響力を持つことがあります。
一人のつぶやきは、小さなものに見えます。しかし、それは思っている以上に大きな力を持っています。良い言葉も広がりますが、不平不満も広がります。感謝も伝染しますが、つぶやきも伝染するのです。
さて、イスラエルの民の不平(つぶやき)は、これが初めてではありませんでした。
彼らは、主の大いなるみわざによってエジプトの奴隷状態から救い出されました。過越によって、さばきから守られました。紅海を渡るという奇跡を経験しました。荒野で水が与えられ、天からのマナが与えられました。シナイ山では主と契約を結び、十戒が与えられ、幕屋も与えられました。
それにもかかわらず、彼らはこれまで何度も不平を言ってきました。食べ物がない。水がない。モーセは何をしているのか。エジプトの方が良かったのではないか。そのたびに主は、彼らを忍耐し、赦し、導いてこられました。
しかし、シナイ山を出発し、新たな決意をもって歩み始めたはずの民は、また同じところに戻ってしまったのです。
この時の彼らにも、神のことばがありました。毎日の食糧にも不足はありませんでした。天からのマナが与えられていたからです。また、主が共に住まわれるしるしとしての幕屋がありました。
では、何が不満だったのでしょうか。
この箇所のヘブル語をもう少し丁寧に直訳すると、「主に聞き従うことによる災難、逆境、困難をつぶやく者となった」となります。つまり彼らは、主のみことばに聞き従うことに対して困難をおぼえ、「神に従う道は大変だ」「主の導きに従うのは苦しい」と感じ、その思いをぶつぶつと口にしていたのです。
主は、ご自分が救い出したイスラエルの民が、みことばを先頭にして、みことばに信頼し、歌いつつ喜んで従い、約束の地への希望を持ってついて来ることを願っておられました。ところが、主が彼らを見ると、眉間にシワを寄せて、不満そうな表情を見せて、ぶつぶつとつぶやきながら着いてきていた。
彼らは、少しばかりの困難、不自由、不安、不足を感じると、それを主に従うことのせいにしました。神のみことばによる導きのせいにしました。
これは、私たちに無関係な話ではありません。私たちもまた、心の中でこうつぶやくことがあるのではないでしょうか。
「聖書にはそう書いてあるけれども、今の現実の社会で、その通りに従うのは難しい。無理。」
「従うと損をする。」
「どうして私だけが我慢しなければならないのか。」
「神は私の状況を分かっておられないのではないか。」
表に出さなくても、口にしなくても、心の中でぶつぶつとつぶやくことがあります。従うにしても、眉間にしわを寄せ、不満そうな表情で神について行こうとすることがあります。しかし、その根にあるものは何でしょうか。
それは、「神は本当に良いお方なのか」「神の導きは本当に最善なのか」という疑いです。つまり不信仰です。
イスラエルの民は、神のみことばに従って、一つの民として秩序をもって進まなければなりませんでした。幕屋を中心に、契約の箱、すなわち神のみことばを先頭にして進むのです。そうでないと「負けて」しまうからです。そこには自己抑制が求められました。自分の感情、自分の衝動、自分の欲望を抑え、神の秩序に従うことが求められました。
しかし、罪が深く染みついた人間の心は、それに逆らいます。肉の思いは、神のみことばに従うことを窮屈に感じるのです。
それは、シナイの荒野だけの問題ではありません。現代の荒野を歩む私たちにも同じことが起こります。神のみことばに従うことは、時に自分の願いを横に置くことです。自分の怒りを抑えることです。敵を赦し、愛することです。自分の欲望を退けることです。自分が正しいと思うことを、主の前に差し出すことです。
その時、私たちは激しく問われます。
私は神に従いたいのか。
それとも、神に私の願いに従っていただきたいのか。
イスラエルの民のつぶやきは、まさにこの問題を明らかにしました。
主は彼らのつぶやきを聞かれました。そして怒りを燃やされました。主の火が宿営に向かって燃え上がり、宿営の端をなめ尽くしました。
これは恐ろしい出来事です。主は不信仰と反逆を軽く扱われません。主は聖なるお方です。罪に対して怒りを燃やされるお方です。
なぜでしょうか。荒野で滅んでしまうからです。私たちが世に「負けて」しまうからです。私たちに与えられている大切な「いのち(永遠のいのち」を失ってしまうからです。ですから主は、ご自身につぶやく者に対して怒りを燃やされるのですが、それは彼らがただ憎いのではなく、逆に深く愛しておられるからなのです。
火は宿営の真ん中ではなく、一番外側をなめ尽くしました。ここにも主の愛とあわれみが現れています。もし火が宿営の中心に下っていたなら、多くの人が死んでいたことでしょう。しかし主は、彼らを完全に滅ぼすのではなく、警告として懲らしめられました。
主の懲らしめとは、神の子とされた者が、この世とともに滅びることがないように訓練されることです。主は怒りを燃やしながらも、なおイスラエルを見捨ててはおられませんでした。反抗的なわが子を叱る親のように、主は彼らを懲らしめられました。厳しさの中に、深い愛とあわれみがありました。
民はその火を見て、モーセに叫びました。はじめは一人ひとりの小さなつぶやきだったものが、いつの間にか宿営全体に広がっており、主の懲らしめによって大きな叫びとなって表面化しました。民はモーセに向かってわめき叫びました。モーセに訴えました。モーセは主に祈りました。すると火は消えました。
ここに、とりなしの姿があります。神に背き、罪を犯してしまう民のために、モーセが主の前に立って祈るのです。そしてこのモーセの姿の向こうに、私たちはイエス・キリストのお姿を見ることができます。
私たちもまた、何度もつぶやき、何度も神に背きます。けれども私たちには、父なる神の右におられ、私たちのためにとりなしてくださる主イエスがおられます。
火が消えた後、その地は「タブエラ」と呼ばれるようになりました。「燃える」という意味です。イスラエルの民の恥ずかしい失敗が、その地名として残されました。この地で、この出来事を通して教えられたことを、ずっと覚えておきなさいということです。
私たちにも、この「タブエラ」と呼ばれるような場所があるのではないでしょうか。神の恵みを忘れ、つぶやき、不信仰をあらわにしてしまった場所。主に懲らしめられ、悔い改めへと導かれた場所。もしかしたら一つではなく、いくつもあるかもしれません。しかし、そのタブエラは、ただ恥を思い出す場所ではありません。主が滅ぼさず、なお忍耐し、悔い改めへと導いてくださった恵みを思い出す場所でもあるのではないでしょうか。
つぶやきは共同体に伝染する(4〜6節)
さて、4節からは、また別の訴えが起こります。
11章4節 彼らのうちに混じって来ていた者たちは激しい欲望にかられ、イスラエルの子らは再び大声で泣いて、言った。「ああ、肉が食べたい。」
今度は「肉が食べたい」という反乱です。
このきっかけとなったのは、イスラエルのうちに混じって来ていた者たちでした。彼らは出エジプトの時、イスラエルの民と一緒にエジプトを出て来た異国人たちであったと考えられます。律法によると、異国人であっても割礼を受けるならば神の民に加えられます。そして彼らもまた割礼を受け、神の民と共に歩む者とされました。しかし、古い習慣を捨てきれず、信仰が未成熟であったために、激しい欲望にかられました。そして「肉が食べたい」と不平を言い始めたのです。
しかし、後から群れに加わってきた者たちが、このようにつぶやいてしまう雰囲気を造ってしまったのは、いつもしかめっ面をして、神に対してつぶやいていたイスラエルの民の不信仰だったのではないでしょうか。私たちも考えさせられます。
さらに問題は、今度は異邦人たちのつぶやき、不平が、イスラエルの民の間に拡散されたことです。異邦人の不平がイスラエル全体に広がったことです。
異国人たちのつぶやきがイスラエルの民の群れの中に拡散されると、「イスラエルの子らも再び大声で泣」きました。この「再び」という言葉には、戻る、引き返すという響きがあります。彼らは主の懲らしめを受け、火が消えたばかりでした。それなのに、すぐにまた心を主から背け、以前の不信仰へ戻ってしまったのです。
ここに、互いに影響し合ってしまう、罪の伝染力があります。
一人のつぶやきが、共同体全体を揺さぶります。一人の不満が、周りの人々の心にも不満を呼び起こします。一人の否定的な言葉が、群れ全体の空気を変えてしまうことがあります。
家庭でも、職場でも、教会でも同じです。誰かが不平を言い始めると、それまで感謝していた人まで不満を思い出すことがあります。誰かが否定的な態度を取り続けると、周りの人の心も重くなっていきます。
ですから私たちは、自分の言葉と態度が、自分だけのものではないことを知らなければなりません。私のつぶやきは、私一人にとどまりません。共同体に影響します。
イスラエルの民は言いました。
11章5節 エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、玉ねぎ、にんにくも。
11章6節 だが今や、私たちの喉はからからだ。全く何もなく、ただ、このマナを見るだけだ。」
彼らはエジプトでの食べ物を懐かしみました。魚、きゅうり、すいか、ねぎ、玉ねぎ、にんにく。たしかにそれらを食べたことはあったのでしょう。しかし、彼らは忘れていました。エジプトは奴隷の地だったということを。苦しみの地だったということを。助けを求めて主に叫んでいた地だったということを。
人は不満に支配されると、過去を美化します。苦しみの記憶を薄め、都合の良い部分だけを取り出して、「あの頃は良かった」と言い始めます。
イスラエルの民は、エジプトで奴隷であったにもかかわらず、まるで豊かで自由な生活をしていたかのように語りました。「ただで食べていた」と言いました。しかし実際には、彼らは重い労役の中にいました。自由ではありませんでした。それなのに、今与えられている解放、自由。今与えられている恵みを軽んじ、過去の奴隷生活を懐かしんでいるのです。
これは、私たちにも起こり得ることです。私たちはイエス・キリストの十字架の血によって、罪の奴隷状態から救い出されました。ただ恵みによって、贖われました。神の子とされ、永遠のいのちを与えられ、天の御国に入れられる約束まで与えられました。それなのに、神に従うことによって不自由を感じる時、以前の生き方を懐かしく思うことがあります。
「あの頃は気楽だった。」
「信仰を持つ前の方が自由だった。幸せだった。」
「神に従おうとすると、思い通りにできない。」
そう思うことがあるのではないでしょうか。
しかし、罪の生活は本当の自由ではありませんでした。そこには神から離れたむなしさがありました。罪の支配がありました。滅びへ向かう道がありました。主はそこから私たちを救い出してくださったのです。
イスラエルの民は、「今は何もない。このマナを見るだけだ」と言いました。しかしマナは、主が天から与えてくださった食べ物でした。荒野で彼らを生かす恵みでした。毎朝、主が備えてくださる奇跡でした。それを彼らは軽んじたのです。
彼らは「喉はからから」で、「全く何もない」と不平を言うのです。「喉」というヘブル語は「魂」とも訳せる語です。そしてイエス様は天からのマナを「神のみことばである」と、そう言われたではありませんか。
私たちも、与えられている恵みに慣れてしまうことがあります。毎日の守り、日々の糧、礼拝、みことば、祈り、兄弟姉妹の交わり。それらを当然のもののように受け取り、足りないものばかりを数えてしまうことがあります。
感謝を失うと、恵みは見えなくなります。恵みが消えたのではありません。私たちの目が曇るのです。不足ばかりを見つめ、与えられているものを見失うのです。
つぶやきに勝つ道は感謝と祈りである(7〜9節)
11章7節から9節には、マナがどのようなものであったかが記されています。
11章7節 マナはコエンドロの種のようで、一見、ベドラハのようであった。
11章8節 民は歩き回ってそれを集め、ひき臼でひくか臼でつき、これを鍋で煮てパン菓子を作った。その味は、油で揚げた菓子のような味であった。
11章9節 夜、宿営に露が降りるとき、マナもそれと一緒に降りて来た。
聖書はここで、民が軽んじたマナが、実はどれほど丁寧に備えられた神の恵みであったかを示しています。
民は「このマナを見るだけだ」と言いました。しかし聖書は、「見なさい、これは神が毎日与えてくださっていた恵みではないか」と語っているようです。
私たちにも同じ問いが向けられます。
あなたが軽んじているものは、本当は神の恵みではないのか。当然だと思っているものは、実は毎朝注がれている主のあわれみではないのか。足りないものを数える前に、すでに与えられているものを見ているか。
不平不満を繰り返してしまう時、私たちの心には感謝が失われています。そして感謝が失われると、高慢が入り込んできます。
「これくらい与えられて当然だ。」
「もっとあって当然だ。」
「神は私の望むようにしてくださるべきだ。」
そう考え始めるのです。
ですから聖書は、私たちに感謝を教えます。「すべてのことについて感謝しなさい」と。これは、どんな出来事も無理やり良いことだと言いなさい、という意味ではありません。苦しいことを苦しくないと言いなさい、ということでもありません。そうではなく、どのような状況の中にも、神は生きて働いておられる。その神の恵みを見出し、神の約束に信頼しなさい、ということです。
感謝とは、信仰の告白です。
「主よ、今はすべてが分かりません。しかしあなたは良いお方です。」
「主よ、私は不足を感じています。しかしあなたは私を見捨てておられません。」
「主よ、私は不安です。しかしあなたは私を必ず約束の地へ、本当の幸せへと導いてくださいます。」
そう告白することです。
では、つぶやきそうになる時、私たちはどうすればよいのでしょうか。
一つは、つぶやきを人に広げる(拡散してしまう)前に、神の御前に持って行くことです。
私たちには、密室の祈りが与えられています。神と一対一で、心を注ぎ出して祈ることが赦されています。これは大きな恵みです。祈りの中でなら、私たちは苦しみを訴えることができます。悲しみを注ぎ出すことができます。不安も恐れも、神に申し上げることができます。
詩篇の祈りがそうです。詩篇の作者たちは、最初から立派な感謝の言葉だけを並べているわけではありません。嘆きます。叫びます。なぜですか、と問います。苦しみをそのまま神に申し上げます。しかし祈りの中で、次第に神に目が向けられていきます。神の恵み、神の真実、神の救いに目が開かれていきます。そして嘆きの祈りが、感謝と賛美へと変えられていくのです。
つぶやきと祈りは似ているようで、まったく違います。
つぶやきは、神に背を向けて不満を広げることです。
祈りは、神に顔を向けて心を注ぎ出すことです。
つぶやきは、自分はもちろん、共同体をも病ませます。
祈りは、魂を神の恵みへ向け直します。
つぶやきは、不信仰を育てます。
祈りは、信仰を回復させます。
ですから、私たちはつぶやきそうになる時こそ、祈りへと向かいたいのです。
もう一つ大切なことは、感謝を言葉にすることです。不平不満が言葉になるなら、感謝も言葉にしなければなりません。つぶやきが共同体に伝染するなら、感謝も共同体に伝染します。
「主は今日も守ってくださった。」
「このことも恵みだった。」
「大変だったけれど、主は助けてくださった。」
「兄弟姉妹の存在が感謝です。」
「みことばが与えられていることが感謝です。」
そのような信仰の言葉を、私たちは口にしたいのです。
前回、罪は伝染するが、聖さもまた伝染するということを見ました。今日の箇所でも、最初は一人ひとりの小さなつぶやきでした。しかしそれが、やがて民全体へ広がりました。さらに、混じって来ていた者たちの欲望がイスラエル全体を巻き込みました。
今日の所でも、私たちは再び問われます。
私は、身近な人にどのような影響を与えているだろうか。家庭に、職場に、教会に、どのような言葉を拡散しているだろうか。不平不満を拡散しているのか。それとも、感謝と信仰を拡散しているのだろうか。
一人のつぶやきが群れを嘆きへ向かわせることがあるなら、一人の感謝もまた、群れを励ますことができます。一人の信仰の言葉が、群れ全体の沈んだ心を引き上げることがあります。一人の祈りが、共同体を主の御前へ向け直すことがあります。
ですから私たちは、不信仰な言葉と態度を捨て、信仰の言葉を語る者とされたいのです。もちろん、これは苦しみを隠しなさいということではありません。弱音を吐いてはいけないということでもありません。教会の中で本音を言ってはいけないということでもありません。大切なのは、その苦しみをどこへ向けるかです。神に背を向けて、周りに不満を広げるのか。それとも神に顔を向けて、祈りとして差し出すのか。そこに大きな違いがあります。
イスラエルの民は、つぶやき続けた結果、約束の地に入ることができませんでした。主はどれほど悲しまれたことでしょうか。救い出した民が、恵みを忘れ、約束を疑い、過去の奴隷生活を懐かしみ、主の導きを拒む姿を、主は深く悲しまれたのです。
私たちはどうでしょうか。
私たちを悲惨な罪の中から救い出してくださった主を悲しませる者ではなく、主に喜んでいただく者でありたいのではないでしょうか。そして私たち自身も、主を喜びとして歩みたいのではないでしょうか。
もし私たちの内に、「神のみことばに従いたくない」「導かれたくない」「自分の思い通りにしたい」という思いが湧いてくるなら、どうぞ主の御前に進み出ましょう。
「主よ、私の心を正してください。」
「今の状況を正しく見る知恵を与えてください。」
「不足ばかりではなく、恵みを見る目を与えてください。」
「つぶやきではなく、感謝を告白する口を与えてください。」
そのように祈りたいのです。
神のみことばに従うことは、本当は不自由になることではありません。神のみことばに従うことによって、私たちは本当の自由へ導かれます。罪の欲望に振り回される自由は、本当の自由ではありません。自分の感情に支配されることも自由ではありません。不満に支配され、過去に引き戻されることも自由ではありません。本当の自由とは、神を信頼し、神の恵みの中で、感謝をもって歩むことです。
イスラエルの民はマナを見ながら、「これしかない」と言いました。しかし信仰の目で見るなら、「今日も主が与えてくださった」と言うことができたはずです。
私たちも同じです。「これしかない」と見るのか。「今日も主が与えてくださった」と見るのか。そこに、つぶやきと感謝の分かれ道があります。
主は今日も、私たちに必要なマナを与えてくださっています。日ごとの糧を与え、みことばを与え、祈りを与え、教会を与え、兄弟姉妹を与え、何よりもイエス・キリストの十字架と復活の恵みを与えてくださっています。ですから私たちは、つぶやきではなく感謝を選びたいのです。なぜなら、私たちはすでに救われた者だからです。その恵みを本当に覚えるなら、私たちの口は少しずつ変えられていきます。つぶやきの口から、感謝の口へ。不満の言葉から、賛美の言葉へ。不信仰の態度から、信頼の歩みへと変えられていきます。
私たちは一つの群れとして、荒野の旅路を歩んでいます。この世の歩みには困難があります。思い通りにならないことがあります。不自由を感じることがあります。疲れることもあります。しかし、主は先に立って導いてくださいます。主は日ごとのマナを与えてくださいます。主は私たちを約束の地へ導いてくださいます。
ですから私たちは、つぶやきながら歩む群れではなく、感謝しながら歩む群れでありたいのです。互いに不満を広げるのではなく、信仰を励まし合う群れでありたいのです。
私たちは今日からも、主を仰ぎ、主を礼拝し、祈りつつ、歌いつつ、約束の地を目指して歩んでまいりましょう。主はその歩みを喜び、さらに祝福してくださいます。
【祈り】
天の父なる神様。
私たちはイスラエルの民の姿を見るとき、その中に自分自身の姿を見出します。
あなたから多くの恵みをいただきながら、なお不足ばかりを数え、つぶやき、不平を口にしてしまう罪をお赦しください。
私たちの心を探り、感謝を失わせる不信仰を取り除いてください。
困難の中でも、あなたの恵みと約束を見上げる信仰を与えてください。
私たちの口から出る言葉が、人をつまずかせる言葉ではなく、人を励まし、信仰を建て上げる言葉となりますように。
どうかこの教会を、つぶやきの群れではなく、感謝と賛美に満ちた群れとして導いてください。主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。
アーメン。

