2020年5月10日 主日礼拝「聖霊の実を結ぶ」
本日の聖書箇所
ヨハネの福音書15章16〜27節
説教題
「聖霊の実」
今週の聖句
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
ガラテヤ人への手紙5章22−23節
訳してみましょう。
2193 Christian homes don’t just happen — they are built.
2194 When we live in the past, we tarnish the present and ignore the future.
礼拝式順序
開 祷
賛美歌 7番「主のみいつと」
主の祈り
賛美歌 436番「めぐみのこの日に」
聖 書 ヨハネの福音書15章16〜27節
説 教 「御霊の実を結ぶ」 佐藤伝道師
賛美歌 389番「あだを愛せよと」
献 金 547番「いまささぐる」
頌 栄 541番「父、み子、みたまの」
祝 祷 北村牧師
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説教「聖霊の実を結ぶ」
佐藤伝道師
シャローム、おはようございます。
余談ですが、日本基督教団の加藤常昭先生という方が説教塾という超教派の説教者の学びのための集まりの中でこう仰いました。「福音派の説教は大体『おはようございます』から始まる」。するとそこに集まっておられた先生方がどっと笑われました。
しかし、私たち日本同盟基督教団の信仰告白では次のように告白されているのをご存知でしょうか。
「教会は、聖霊によって召し出された神の民、主イエス・キリストをかしらとするからだであり、羊飼いなる主の御声にのみ聴き従う羊の群れである。地上の教会は、再び来られる主を待ち望みつつ礼拝し、みことばを説教し、聖礼典を執行し、戒規を重んじ、聖霊の力によって全世界に福音を宣べ伝える」
この告白を同じにする255余の教会、そこに集う教師や信徒たちが、今日もそれぞれの地域に根ざし、神さまを愛し、隣人に仕えつつ、神の国の到来と完成に向かって励んでいるのです。そんな私たちがシャロームと挨拶し、大変な世の中にあって互いに励まし合いながら、聖書のみことばを信じ、主の再臨を待ち望み、神さまを礼拝する。神と隣人を愛し仕えていく。それは私たちにとって最もふさわしいことではないかと思うのです。
シャローム。今朝もこの挨拶から聖書のみことばをいただき、主に礼拝を献げてまいりましょう。お祈り致します。
天の父なる神さま、御名を崇め心から賛美致します。今朝も私たちを生かし、赦し、それぞれの形ではありますが御前に集められ、主に礼拝を献げることできますことを覚えて感謝致します。それぞれの場所でお献げする礼拝を祝福してくださいますようお願い致します。みことばを祝福して私たちにお与えください。足らない者が奉仕をさせていただきます。助け主、聖霊様がそれぞれにお語りくださいますようにお願い致します。救い主、キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。
きょう、5月10日は「母の日」です。それで先ほど母の日に賛美される賛美歌436番をもって主を賛美しました。
私は常々思っているのですが、母はすごいと思います。やはり父親には足りないものが与えられていると思います。母親の子どもに対する愛というものは尊敬に値します。子どもがいくら反抗しても、自分を落胆させようとも、いくら自分が嫌われようとも愛を注いで、また愛をもって訓戒し続けることができる。父親もそうかもしれませんが、母親には到底かないません。罵られても罵り返さず。そこまでとは言えないかもしれませんが、そうだと思います。賛美歌436番はこの愛を備えられた神さまを賛美しています。
私の母はそれこそ罵られても罵り返さない人です。そんな母に対して、私はこれまでどれほど反抗し、ひどい事をしたり言ってきただろうかと思わされます。母に対して、決して肯定的な感情を持つ時ばかりではありませんでした。嫌いになった時もありました。でもやっぱり思い出すのは母の愛です。心が温かくなるような記憶です。皆さんはどうでしょうか。
前回は、主の復活の目撃者、証人として、弟子たちはまず自分たちの家族が住む、また友人や仕事仲間が住むガリラヤへと遣わされたところを見ました。親しい人たちの間で福音の証人、喜びの知らせを宣べ伝える者として生きることの難しさを見ました。故郷に帰った弟子たちは、漁に出て何も獲れなかった長い夜の闇の中で何を思ったのでしょう。宣教に出て何の成果も得られなかった中、何を思ったのでしょう。人々に愛を示し、相手の救いを願い証しをしても、もしかしたら嫌な態度をとられたかもしれません。私だったら「あいつめ」と苦々しい思いを持つことでしょう。
本朝与えられましたヨハネの福音書15章18節からは、13章から始まるイエス様の「告別説教」、別れのメッセージの中の一部です。イエス様はご自身が十字架にかかられ死なれた後、よみがえられて天に昇られ、弟子たちと別れることになる。これからは弟子たちだけでこの世に遣わされて行く。それを踏まえて告別説教をされました。
正直この時の弟子たちは、告別説教を聞いてもピンと来ていなかったかもしれません。自分たちが世に証人として遣わされるのに、どれほどの困難があり、それは自分たちをつまずかせるものであることかをきちんと理解していなかったのかもしれません。先々週に見たところですが、後になってまず故郷に遣わされ、親しい人たちの間での厳しい宣教の現実を前に、ようやく理解できたのではないでしょうか。その厳しい現実とは、本朝の箇所、ヨハネ15章18節からです。
15章18節 もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。
「知っておきなさい」という語は、「あなたがたは知るのです」とも訳せる語です。「もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを、あなたがたは知るのです」。
15章19節 もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。
15章20節 しもべはその主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。もし彼らがわたしのことばを守ったなら、あなたがたのことばをも守ります。
15章21節 しかし彼らは、わたしの名のゆえに、あなたがたに対してそれらのことをみな行います。それは彼らがわたしを遣わした方を知らないからです。
この世は自分たちと違うものを嫌って、色々な形で排除しようとします。特に皆が同じでなければならないとか、「出る杭は打たれる」と言われるこの日本においてそれは顕著なのかもしれません。そして私たちは、恵みによって、主の計り知れないご計画によって主に選ばれて、この世から取り分けられた者たちです。「クリスチャン」「キリスト者」と言われ、キリストの名が付けられ、キリストに属する者たちとされています。
ちなみにこの「キリスト者」と初めて呼ばれることになったエピソードですが、それは弟子たちが集まって「キリスト、キリスト」と言っているのを人々が聞いて、「キリスト、キリストと言っているあいつらは何なんだ」ということで、あだ名のような感じで付けられた名前だそうです。
そんなキリストの名が付けられた私たちをこの世は排除しようとし、迫害すると言うのです。
しかし聖書は、この世の人々がキリスト者を迫害するのも、ことばを守らないのも当然であって、決して驚きに価しないのだ。それは神さまがそんな世をなおも愛し、イエス・キリストをこの世に遣わされた、その神さまと神さまの本当の愛を知らないからだと言っています。
15章22節 もしわたしが来て彼らに話さなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。しかし今では、その罪について弁解の余地はありません。
15章23節 わたしを憎んでいる者は、わたしの父をも憎んでいるのです。
15章24節 もしわたしが、ほかのだれも行ったことのないわざを、彼らの間で行わなかったのなら、彼らには罪がなかったでしょう。しかし今、彼らはわたしをも、わたしの父をも見て、そのうえで憎んだのです。
15章25節 これは、『彼らは理由なしにわたしを憎んだ』という彼らの律法に書かれていることばが成就するためです。
15章26節 わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。
15章27節 あなたがたもあかしするのです。初めからわたしと一緒にいたからです。
「あなたがたも証しするのです」。証人となるのです。この聖書箇所で用いられている「証人」という語はすべて、イエス・キリストの福音のために殉教した人たちに当てはめて用いられています。この用例の意味から英語の「殉教者(martyr)」を意味する語が生まれました。イエス様の復活を目撃した使徒たちは、自ら「イエスの復活の証人」と言い(使徒122、232)殉教して行きました。また自分の身を打ちたたいて福音宣教においてひたすら主に従った、そして何度も殺されかけ死にそうになったパウロもまたアナニヤという人から「イエスの証人だ」と呼ばれています(使徒2212-15)。教会の歴史において迫害はいつも起こっています。イエス・キリストを証ししただけで即死刑、殺されてしまう、そんな時代も実際にありました。迫害の歴史は現在もなお続いています。北朝鮮、中国、アフガニスタン、アフリカ、インドやネパール。イエス・キリストの証人であるだけで命を落としてしまう。私たちのところにはあまり詳細には届いてきませんが、ひどい迫害は今もなお続いているのが現実です。
私たちの周囲では、そのような命を落とすほどの迫害はないかもしれません。ひどく憎まれていることはないかもしれません。しかしどうでしょう。マザーテレサは言いました。「『愛』の反対は『無関心』です」と。無関心、まるで関心が無く、まるで存在がないかのように扱われる、無視される。まさに「いじめ」です。人を死にまで追いやる「いじめ」の恐ろしさです。私たちは宣教において、そのような経験をして来たと思いますし、これからもすることになるでしょう。
しかし考えてみると、私たちは愛を人々に示しているだけではないですか。なのに迫害されてしまう。なんと理不尽、不合理、不思議なことではないですか。イエス様もまったく同じでした。イエス様は人々を心から愛し、病を癒やし、悪霊を追い出し、数々の奇跡をなされた。それなのにイエス様は同胞のユダヤ人たちに憎まれ、妬まれ、最終的に人々に苦しめられ、十字架につけられ殺されてしまった。今日の聖書箇所のことばを借りるならば、もうこれは「彼らは理由なしにわたしを憎んだ」という聖書、詩篇のことばの成就としか説明のつけようがありません。一方でそれは、神さまの意志、ご計画であることをも示しているのです。
イエス・キリストの十字架と復活の証人となること、福音の証し人となることはすなわち殉教すること。主であるイエス様との別れに加えて、今度はあまりにも厳しい前途が自分たちを待ち受けていることを予告されて、弟子たちの心は悲しみでいっぱいになりました。
イエス様は、弟子たちを悲しませるために、また迫害を受けさせただ苦しませるためにご計画をもって選び出したのでしょうか。今日のこの箇所は、弟子たちを世に遣わされる前に励まし、力づけるためにイエス様がなさった説教であることを忘れてはなりません。16節でこのように言われています。
15章16節 あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あながたがた行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。
また、20節でイエス様は「しもべはその主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい」と言われました。その覚えておきなさいと言われたことばのすべては、13章16節に記されています。
13章16節 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。しもべはその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません。
13章17節 あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行うときに、あなたがたは祝福されるのです。」
新共同訳では「もしこれらのことがわかっていて、それを行うなら、あなたがたはさいわいである」。
主人であるイエス様が世から憎まれるのであるなら、弟子であるあなたがたも憎まれることは免れないであろう。あなたがたがそのことを知っていながら遣わされ、証人、つまり殉教者として福音を証ししていくならあなたがたは祝福される、幸いであると言われたのです。ですから宣教とは、悲しみや敗北の道を行くことではなく、喜びと勝利の道を行くことなのです。その道へと主は恵みによって私たちを選び任命されたのです。その私たちに聖霊を与え、聖霊によって私たちが遣わされて出て行き、そこで実を結び、その実が残るために、またイエス様の名によって父なる神さまに祈り求めるものは何でも私たちに与えられるために私たちを選び任命されたのです。
「イエス様の名によって祈る」ということに注意しなければなりません。イエス様の名によって祈るとは、イエス様の願いと私たちの願い求めを同じくして祈るということです。イエス様の願いとは、今日も私たちは共に祈りましたが、主の祈りに現されていると思います。そして「主よ、彼らを赦したまえ」と十字架上で苦しみの中で祈られた祈りでもあると思います。
悲しみでいっぱいの弟子たちではありましたが、しかし弟子たちは次の真理をも知っておかなければなりません。少し進みまして、16章6節です。
16章6節 かえって、わたしがこれらのことをあなたがたに話したために、あなたがたの心は悲しみでいっぱいになっています。
16章7節 しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。
「失う」ということは、信仰生活のひとつの試練ではないでしょうか。信仰によって平和が与えられた、喜びが与えられたと私たちはよく言います。確かに信仰によってそういうものは与えられるでしょう。しかしまた、失うこともあることを忘れてはいけないと思います。失うことを知らない者は、得ることはできないのです。
イエス様が神さまを愛し、世と人々を愛しただけで憎まれたように、私たちも神さまを愛し、世と人々を愛するだけ憎まれます。その時、私たちは私たちに向けられる親しい人から嫌われ、愛を失うかもしれません。私たちに対する無関心によって無視され、それはまるで私たちが存在しないかのように、死んでいるも同然に扱われて、いのちを失うようなそんな辛い経験をするかもしれません。しかし私たちは20節でイエス様が言われたおことば「しもべはその主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい」。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。しもべはその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません。あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行うときに、あなたがたは祝福されるのです」(ヨハ1316-17)との主のおことばを覚えているなら祝福されるのです。
その祝福とは、不合理な中、それでも神さまと隣人とを愛し続けるならば、私たちに与えられる聖霊によって、私たちが遣わされて出て行くそこで私たち自身が実を結ぶ。その実が残る、その実によって救われる魂を得るのだという祝福の約束です。
ペテロはこう言っています。ペテロの手紙第一2章20節から。
2章20節 罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行っていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。
2章21節 あなたがたが召されたのは、(あなたがたが恵みによって世から主によって選び出されたのは、)実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。
善を行っていながら苦しみを受け、耐え忍ぶ。そんな不合理に私たちは自分の力で耐えられるものでしょうか。その時、私たちの内側に起こってくる感情というのは何でしょう。
ある司祭が言ったそうです。「もしあなたが、あなたに悪いことをした誰かに対して怒りや悲しみを覚えるなら、それを爆発させる前にこのように考えてみてはどうでしょうか。たとえひどい相手だとしても、思い返してみれば、過去に何かひとつでもあなたに対する犠牲的な愛を見つけることができるのではないでしょうか」。
冒頭の母親の話ではないですが、たとえイラついて嫌で嫌で仕方なくて、顔も見たくない母親であっても、その母親の中に、いくら自分が嫌われても変わらず愛を注いでくれたその犠牲的な愛を一つでも思い出すのです。いつも衝突して気にくわない仕事仲間だとしても、何か自分を助けてくれたことがあったかもしれない。飲み物を自腹で差し入れしてくれたことがあったかもしれない。神さまの愛を知らされている私たちは、そんな些細なことの中にも、犠牲的な愛を見出すことができるのです。
イエス様は私たちの罪の解決のために苦しみを受けました。辱めを受けました。神であるイエス様が、味わわなくても済んだであろう苦しみや辱めを受けられた。それもわたしのために。その足跡に従うようにと、それでも相手を愛し続けるようにと、その模範を残されるために、あえて苦しんでくださった。それは、私たちが怒りや悲しみから解放されて、自由にされて、これ以上肉の思いを、罪を増し加えることのないように、自分の敵を何とか愛することができるために、「もうこれからは罪を犯さなくても良いのだよ」「安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい」(マルコ534)と、そのためにあの想像を絶するほどの苦しみを味わわれなければならなかったのかもしれません。
パウロはこう言っています。ガラテヤ人への手紙5章13節から。
5章13節 兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。
5章14節 律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語をもって全うされるのです。
5章15節 もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。
5章16節 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
隣人とは誰でしょうか。良きサマリヤ人のたとえでイエス様は、たとえ自分と敵対関係にある人であっても、自分を憎む人であっても、自分に対して何か犠牲的な愛を示してくれた人があなたの隣人であると言われました。
自分を憎む相手をそれでも愛して行く。苦しさの中で主の犠牲的な愛を見上げて主を愛して行く。それは主のおことばに従って行くことに現れるでしょう。その時、私たちは主の約束どおり祝福されるのです。
その祝福とは、聖霊の実を結ぶことです。それはなおも信仰に踏みとどまることによって実る実です。信仰に踏みとどまり、主の愛にすがり続け、時間の経過とともに自然と実を結んでいくものです。
その聖霊の実とは。
「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」であると聖書に書かれています。そしてこれらは、私たちの罪が変えられたものであることを覚えたいと思います。キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまのの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまった。肉の行いは明白であって、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類いのものです。それらを十字架につけてしまう。手放す。失う。失って初めて、御霊、聖霊の実を得ることができるのです。
そして世の人々は、私たちのうちに聖霊の実を見て、神さまの愛を知り、そしていつか、神さまの時に救いへと導かれるでしょう。
主の復活の証人となること、宣教することは、決して悲しみと敗北の道ではありません。主の御霊とも、キリストの霊とも言われる聖霊とともに歩む道、傍らにおられる十字架の主を見上げ歩みながら、罪が変えられ、御霊の実を結んでいくという祝福が約束された永遠のいのちへと至る道です。「わたしはすでに世に勝利した」と言われる主に従う喜びと勝利の道です。その道へと私たちは人々を導くのです。
イエス様は告別説教の中で新しい戒めを私たちに与えてくださいました。それは今日の箇所の少し前、ヨハネの福音書13章34節からです。
13章34節 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
13章35節 もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。
先ほどのガラテヤ書の御霊の実のところですが、原語の文法上、御霊の実は「愛」であって、その次から出てくる8つの実は、愛の現実的な形であるとも考えられています。「愛はすべてを結ぶ帯」ともあります。私たちは主が新しく与えてくださった戒め、教会の兄弟姉妹が互いに愛し合い、赦し合い、励まし合いながら、聖霊の実による一致をもって、聖霊に導かれ、助けられ、力づけられながら、隣人を愛し、愛に根ざした宣教に励んでまいりましょう。