2022年3月20日 主日礼拝「ここも神の国」
礼拝式順序
礼拝前賛美
報 告
開 祷
讃美歌 546番「聖なるかな」
主の祈り 564番「天にまします」(参照)
使徒信条 566番「我は天地の」(参照)
讃美歌 138番「ああ主はたがため」
聖 書 ローマ人への手紙14章13〜23節
説 教 「ここも神の国」佐藤伝道師
讃美歌 191番「いともとうとき」
献 金 547番「いまささぐる」
頌 栄 541番「父、み子、みたまの」
祝 祷
本日の聖書箇所
ローマ人への手紙14章13〜23節
説教題
「ここも神の国」
今週の聖句
なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。
ローマ人への手紙14章17節
今週の祈り
朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、
(コリント人への手紙第一15章42節)
イエスよ、私たちは何を失うことなく、再び回復できることを感謝します。主よ、あなたを賛美します。
説教「ここも神の国」
ローマ人への手紙14章13〜23節
昨日は母校の恩師が、相変わらす突然に長野聖書教会に立ち寄ってくださり、私は本当に励まされたのですが、先生が教会に入って最初に言った言葉が、「何か教会が明るくなりましたね」でした。「教会の雰囲気というか、何か明るく感じます。皆さんの霊性の現れではないですか?」と言われて、私はとても嬉しく思いました。私たちの教会がと言いますか、イエス様の教会ですけれども、教会が褒められるのは本当に嬉しいものですね。
前回の14章1節から始まり、15章13節までにわたって語られる一つの主題は続きます。教会の中の禁欲主義的・律法主義的傾向と、それを克服しようとするグループの存在とその対立。信仰的に弱いと言われている人と、弱いと言う人との間にさばき合いがあったことについて。その一つの現実の問題として、食べること、食べないこと。日を守ること、守らないことが取り上げられました。それらは実例として挙げられていることですから、パウロはこの二つのことに限って戒めているのではありません。また「教会」とはっきりとは記されていませんが、明らかに教会内部の対立、葛藤、分裂を重要な問題として扱っています。ローマの教会には様々な人々が集っていました。ローマ人、ユダヤ人、職業、性格、様々な背景を持った人々が集い、実に多様性に富んでいました。多様性は富なのです。教会を富ませる豊かな財産です。教会ではすべて神からの賜物であると捉えています。その多様性という神からの素晴らしい贈り物を、教会は対立、葛藤、分裂のために用いてはならず、神のために、実に様々なシーンで神の栄光を現すために、神に喜んでいただけるように用いなければなりません。神の教会に対する御心は、この地上で神の国を実現することです。神の国とは、ギリシア語では【βασιλεία】、英語では【Kingdom】神の王国です。神が王となり、完全に統治されるところ。皆が神のもとに一致して、神に支えられ、配慮され、皆が神から与えられたそれぞれの賜物、多様性を活かして、生き生きと生きられる国。どこまでも平和で、争いはなく、神が人の目から涙をすべてぬぐいとってくださり、もはや死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない素晴らしいところです。神の教会に対する御心は、このような神の国をこの地上で実現し、素晴らしい神と神の祝福をこの世のすべての人々に見せること、証しすることです。ところが、実際のローマの教会はどうだったでしょう。
14章13節 ですから、私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。いや、それ以上に、兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい。
前回までのところで、自分の兄弟をさばくことを強く戒めたパウロは、13節で、自分を含めてすべてのキリスト者に「私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう」と勧めます。そしてさらに積極的に「兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい」と強く訴えます。
日本語では分からないのですが、実はこの13節の〈さばき合う〉と〈決心しなさい〉は同じ一つの単語が活用の形を変えて用いられています。前者は〈批判する〉で、後者は〈模索する・模索しなさい〉という意味で使われています。パウロは強い人に勧めるのです。「強い人は、弱い人の考え方をあれこれ分析して、その弱点を明らかにして、その弱いところ、未熟さを攻撃して倒そうとすることに没頭せずに、むしろありのままの弱い兄弟を受け入れなさい。どうすればその人の前に妨げになるもの、つまずかせるもの、挫折させるもの、失敗させるもの、罪の罠となるようなものを置かないようにできるかを模索して、そして実行しなければならない」と。パウロ自身も弱い人を顧みて、模索して、そして実行しました。コリントの教会に宛てた手紙の中でこのように言っています。「ですから、食物が私の兄弟をつまずかせるのなら、兄弟をつまずかせないために、私は今後、決して肉を食べません」(Ⅰコリ813)。
14章14節 主イエスにあって、私が知り、また確信していることは、それ自体で汚れているものは何一つないということです。ただ、これは汚れていると認める人にとっては、それは汚れたものなのです。
つまずきを与える食べものについて、それ自体で汚れているものは何一つないということを、パウロは「主イエスにあって(イエス様を通して)、私が知り、また確信していること」として示します。これはイエス様がマルコの福音書7章でこう教えておられることです。イエス様はなんと言われたでしょうか。「『外側から人に入って、人を汚すことのできる物は何もありません。そのような物は、人の心には、入らないで、腹に入り、そして、かわやに出されてしまうのです。』イエスは、このように、すべての食物をきよいとされた」(マコ715,18-19)。強い人はそれを信じているので、強い人の判断があくまで正しいのです。しかし正しいからと言って、それをそのように考えられない人に対しての武器としてはいけない、武器をかざして強要してはいけないと聖書は教えます。
14章15節 もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているのなら、あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください。
強い人が弱い人に自分の見解、正しい見解であってもそれを強要して、心配と悩みを抱えたまま肉を食べるようにさせるとしたら、それはその人を愛することでも助けることでもなく、むしろ、その人を滅ぼすことになりかねないと聖書は教えます。批判、強要、たとえそれが正しいことであっても、弱い人の心を責め、霊を攻撃し、霊的なつまずき、挫折の機会、失敗の原因、罪への罠となってしまう。強い人はとことん弱い人を愛すること、自分を犠牲にしてまでも大切にすることが求められるのです。なぜなら、このような私を愛し、私のために死んでくださった主は、その兄弟のためにも同じ愛をもって死んでくださったからです。その人の為にもキリストが死んでくださったと言える「弱い兄弟」を滅ぼしてしまうことがあってはならないのです。それはつまり、その人のために、その人を愛し、その人を滅びから救い出し、真に生かすためにキリストが払われた大きな犠牲を無にすることです。
思い出してください。イエス・キリストは、いつでもどんな時でも、常に弱い者、貧しい者、病人や罪人の立場に立ってくださったお方です。また立ってくださるお方です。そして一方的に重荷を負わせるのではなく、ともに負ってくださるお方。泣く者とともに涙を流してくださるお方。何事においても弱い者、貧しい者の思いを尊重してくださり、「あなたは高価で尊い、わたしはあなたを愛している」と語りかけてくださり、どうしたら良いか、一緒に歩きながら、一緒になって模索してくださるお方です。決して強要などされないのではないでしょうか。皆さんは、イエス様に愛なく、有無をも言わさずに何かを強要されたことはあるでしょうか? 覚えている限り、私にはなかったと思います。いつも私に祈り求め、どうしたら良いのか考える時間をくださいました。その時もずっとともにいてくださり、時にはみことばをもって語りかけてくださって、時にはお言葉はなく無言であっても、優しく見守られ、一歩ずつ導かれていたのだということを覚えます。その時は辛かったけれども、後になって思い返すと、そうだったのかと、何か暖かな気持ちになるように思います。
批判、愛のない有無をも言わさない強要は、最終的にはその人を滅ぼすことになる。滅ぼす、つまり殺すこと、死なせること。聖書の中の「死」は単なる生物的な生き死にではありません。霊的な生き死にでもあるのです。生き生きとしていない死んだ信仰。土の中に葬ってしまう信仰。表向きにはきれいに白く塗られた墓でも、中は汚いもので満ちている。役に立たない信仰。そこには喜びがありません。それでは神は喜ばれません。神は私たちに真実の信仰をお求めになっているからです。
16節からも、はっきりと「教会」とは出て来ませんが、明らかに教会に対しても言われていることです。
14章16節 ですから、あなたがたが良いとしている事がらによって、そしられないようにしなさい。
強い人が聖霊の助けによって持つようになった信仰理解。例えばここでは「何でも食べて良いのだ」ということ。それは正しくて良いものです。しかし、正しくて良い理解であっても、弱い人に強いて悩みと滅びに陥らせるならば非難を免れないでしょう。弱い人を悩みと滅びに陥らせる、そのような教会(地上での神の国)は隣人にそしられるでしょう。悪く言われ、何が教会だ、何が愛だ、神だ、キリストだと言われてしまうでしょう。教会の雰囲気は暗くなり、世の人々は敏感に感じ取ることでしょう。それは私たちが愛する神の御名を汚すことになってしまいます。悲しませることになってしまいます。神は、キリストは教会を愛されました。教会のためにご自分を献げられたお方です。その犠牲の愛を無駄にして良いものでしょうか。教会がそしられてしまって良いのでしょうか。
14章17節 なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。
神の国は飲み食いのことではないのです。強い人は弱い人をつまずかせないために飲み食いを控えたからといって、何も失うものはありません。なぜなら、「神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです」。ここは訳に少し問題があり、2017では「聖霊による義と平和と喜びだからです」と訳し直されています。
ところで、ここでの「神の国」とはどこなのでしょうか。何度か申し上げている通り、地上の神の国、現実に信徒たちがこの地上で属している御国、教会です。長野聖書教会です。
コリントの教会に対してパウロははっきりと言っています。「私たちを神の御前に立たせるのは食べ物ではありません。食べなくても損にならないし、食べても得になりません」(Ⅰコリ88)。教会、地上の神の国、神が王である王国は「希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださる」(ロマ1513)素晴らしいところ。どちらが正しいのかと言い争う代わりに、互いに認め合い、受け入れ合って、聖霊による義と平和と喜びを実現することこそが、教会の本質です。どこまでも愛である神が統治されている御国、教会では、私たちの行為はもちろん、その行為の動機と目的も愛であるべきです。御霊の実は何でしょうか。御霊の実は「愛」です。その具体的な現れとして「喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」が現れてくるのです。
14章18節 このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです。
「このように」とありますが、原語に忠実に訳すならば「このことにおいて」です。「このことにおいて」、聖霊によって義と平和と喜びを実現すること、聖霊によって御霊の実「愛」の実を結び、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制の実を結ぶことにおいて、キリストに仕える人、私たちは神に喜ばれるのだと、明確に教えてくれています。もし神に喜ばれたい、神に喜ばれる者になりたいと思うなら、聖霊によって、自分の肉的な知恵や考えではなく、聖い霊に依り頼んで御霊の実を結ばせていただきましょう。そしてそれは教会の外の人々にも認められることになるのです。教会の姿を見て、教会って素晴らしい、神さまって、イエス様って素晴らしいと思われるのではないでしょうか。そのようにして地上での神の国は拡大して行くのではないでしょうか。憎しみや争いに満ちたこの世界に、義と平和と喜びが広がっていくのではないでしょうか。世界とは海外ではなく、私たちの肌のすぐ外側から始まっています。ここも世界で、ここも神の国です。「誰かがどこかで」ではなく、「私たちがここから」なのです。
14章19節 そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。
私たちは、ひたすらに全知全能なる神を信頼して、ひたすらに平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めてまいりましょう。平和に役立つことを追い求める時に、腹立たしかったり、悔しかったり、悲しかったり、そのような思いが湧いてくることがあるかもしれません。しかしそれらもすべて神はご存じです。神を信頼して、私たちはひたすらにローマ12章20節にある通り、「相手の頭の上に燃える炭火を積む」(ロマ1220)のです。ひたすらに親切にする、優しい言葉をかけるのです。食べるか食べないか、飲むか飲まないか、そのようなことによって葛藤を生じさせ、分裂をもたらすのではなく、互いに平和と霊的成長を追い求めてみてはどうでしょう。そこに必ず神はみわざをなされます。
〈霊的成長〉。原語は「建て上げること」です。ここでは単に個人の霊的成長が求められる以上に、〈お互いの〉が示すように、教会の一致と霊的成長が強く求められています。もちろん、それは教会の中だけで求められているのではなく、それぞれが遣わされた場所で、普段の生活の中で、未信者に対しても実践すべきことです。愛をもって霊的成長に役立つことを追い求め、喜びと平和をもたらすなら、未信者の隣人も神の愛を体験し、聖徒の良い行いによって神をあがめるようになります。イエス様はマタイ5章16節で言っておられます。「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです」(マタ516)と。
14章20節 食べ物のことで神のみわざを破壊してはいけません。すべての物はきよいのです。しかし、それを食べて人につまずきを与えるような人の場合は、悪いのです。
14章21節 肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、そのほか兄弟のつまずきになることをしないのは良いことなのです。
〈お互いの霊的成長に役立つこと〉と全く対立するものとして、〈神のみわざを破壊〉することが挙げられています。〈神のみわざ〉とは、神が弱い人をそのまま認め、受け入れて救われることです。神がそうされるのですから、強い人は弱い人に肉やぶどう酒を強要して、その人に対する神のみわざを無駄にするようなことはしてはならないのです。
後半では14節で示された原則が繰り返されます。弱い人が強い人に強いられて無理矢理することは、その人を滅びに追いやるのと同じ。その人を挫折させ、信仰を殺し、罪への罠をしかけるようなもの。強い人は弱い人をつまずかないようにすることが良いのです。
14章22節 あなたの持っている信仰は、神の御前でそれを自分の信仰として保ちなさい。自分が、良いと認めていることによって、さばかれない人は幸福です。
14章23節 しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。
ここでの〈信仰〉は〈確信〉の意味で用いられています。あなたの持っているその確信は、本当に「主のために」「福音のために」「隣人の救いのために」であるのか。神の御前に立たされるとしても、その確信を持ち続けることができるものか。信仰によって、相手に対する偽りのない愛によって良く吟味しなければなりません。もし信仰と偽りのない愛による吟味によって、聖霊に示されたことであるならば、具体的に行動したり、言葉に出したりすることは大切でしょう。教会が真に健全に成長し建て上げられていくために、それもまた必要なことです。
パウロは今日の箇所を通して、相手を批判することよりも、相手にどう配慮するかに集中すべきことを教えました。
相手に対する批判的な考えは自分にも悪い影響を及ぼし、また相手に対する友好的、親切な考えは自分にも相手にも良い結果をもたらすことを、私たちは人生の中で経験的に知っているのではないでしょうか。ですから、批判せずに模索するというパウロを通しての神の勧めを実践するように、聖霊によって、信仰によって私たちの考え方を変えていただきたいと願います。
「神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです」。個人でも、また教会や教団においても、最善を尽くして神の国を追い求め、神の統治が実現されることを望んで努力しています。食べるべきか、食べないべきかといったことのために悩んだり、検討して論争して、争うことも、神の国を追い求めるためにしているのだというキリスト者がいるかもしれません。だからこそ、激しく争うこともあるのでしょう。しかし、神の国はそのような方法で実現されるのではないのです。ダビデではなくソロモンが神殿を建てなさいと神が命じられたように、戦いによってたくさん血を流すのではなく、ソロモン、語源はシャローム、平和によって神の国は実現するのです。神の国はお互いの違いを受け入れることで実現されていく。そうするところに、神の国の平和と喜びが臨み、神の栄光が現される、証しされる、教会が、神の国が建て上げられていくのです。
今日はこの後、教会総会が行われますが、パウロの勧めを覚え、真に地上での神の国が、教会が、兄弟姉妹が、隣人が建て上げられている、そのような総会となるよう祈って臨みたいと思います。そして今日からの私たち教会の歩みが、霊的に一致して、神の国を実現していく歩み、神の素晴らしい御名を証ししていく歩みとなるように、祈り求めてまいりましょう。
お祈りをいたします。
私たちの主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの聖い御名を崇めます。みことばを感謝致します。パウロを通して、今日という日にあなたがみことばを与えてくださいましたことを覚えありがとうございます。この後もまだ教会の一致について、互いに受け入れ合うことについてみことばは語ります。私たちはそれを重要なこととして、何度もあなたから聞く必要がある者であることを覚えます。どうぞあなたの御前でへりくだり、あなたのみことばに従順に聞く者でいさせてください。あなたのみことばに従い歩む時、教会、またそれぞれの歩みが本当に祝福されることを信じます。今週の歩みが、聖霊に満たされて神の国に至る道を歩むものとしてください。良い証しができますように。感謝して主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。