2022年5月29日 主日礼拝「互いのあいさつ」

礼拝式順序

礼拝前賛美
報 告

開 祷
讃美歌  11番「あめつちにまさる」
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  213番「みどりの牧場に」
聖 書  ローマ人への手紙16章1〜16節
説 教  「互いのあいさつ」佐藤伝道師
讃美歌  529番「ああうれし」
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷

本日の聖書箇所

ローマ人への手紙16章1〜16節

説教題

「互いのあいさつ」

今週の聖句

あなたがたは聖なる口づけをもって互いのあいさつをかわしなさい。キリストの教会はみな、あなたがたによろしくと言っています。

ローマ人への手紙16章16節

今週の祈り

主の指示を求めなかった。
(ヨシュア記9:14)

父なる神よ、願うものには誰にでも惜しみなく、とがめることなく知恵を与えてくださることを感謝します(ヤコ1:5)。あなたと話すために立ち止まれるように助けてください。

説教「互いのあいさつ」

ローマ人への手紙16章1〜16節

アウトライン

はじめに)

  • もし自分が宣教師だったら、何によって「いこいを得る」だろうか。
  • 【いこい・συναναπαύομαι】(ロマ1532)は、リフレッシュ、復活、新しいいのちが吹き込まれるという意味の語
  • パウロは兄弟姉妹の名前をあげるとともに、あいさつを伝えるように頼む。パウロの配慮。そこから私たちは何を学べるだろうか

1)フィベを推薦(=紹介)する

  • フィベは教会の執事(執事とは? 使徒61−6
  • 【執事・διάκονος】物質的に援助することによって奉仕するというギリシヤ語
  • 一人の婦人奉仕者の働きに対する正しい評価と、行き届いた配慮

2)彼ら、彼女らに「よろしく」

  • 「よろしく伝えて」この場にいない人に対して自分の好意を伝えてもらうためのあいさつ。言い換えるなら「あなたのことを覚えている、気にかけている」と伝えること
  • 皆がキリスト・イエスにあって【同労者・συνεργός】=協力者。主によって選ばれ、主にあって労する者たち(Ⅱコリ517−19)。彼らによろしく

3)聖なる口づけをもって互いのあいさつをかわす

  • あいさつの役割

まとめ)

  • 教会は礼拝を献げ交わりを持つ所。あいさつは交わりのスタート地点。ただの礼儀ではなく、教会と各々の信仰成長のために必要なもの。あいさつから始まる会話の中で、御霊が働いてくださることを祈り求めよう
  • 私たちは皆、宣教の同労者、協力者になることができる
  • 私たちの名は聖書に記されていないが、天に名が記され、主にある労苦もすべて神に覚えられている。気づいていなくとも神の配慮がなされていることに慰められ、励まされ、「いこい」を得よう

 前回、日本同盟基督教団の国外宣教デーのポストカードと、そこに記されている宣教師たちの祈祷課題をご紹介しました。また具体的な活動報告も送られてくることもありますから、是非とも関心を持って見て頂ければと思います。もし、遠く離れた宣教師たちがその遣わされている異国の地で、大変な労苦の中で、同胞の私たちに祈られていることを知ったら、きっと励まされることでしょう。そして実際的な支援、例えば手紙や祈りに覚えられた献金、子どもたちへのプレゼントなどが送られてきたなら、さらにもっと励まされるでしょうし、自分たちは忘れられていないのだ、自分たちの働きはちゃんと認められているのだなど、心は喜びに満たされて、よし頑張ろうと奮い立つことができるのではないかと思います。パウロが15章32節のところで言っていた「いこいを得る」のです。リフレッシュです。復活です。新しいいのちが吹き込まれ、新しい力が湧いてくることになるのではないでしょうか。そのことは、もし私たち自身が未開の地に遣わされた宣教師だったらと置き換えて考えてみると良く分かるのではないかと思います。

 私自身、祈りと支援のありがたさ、祈りと支援によって「いこい」を得るということは、もちろん今も皆さんの祈りと支援によって支えられていますが、それは神学生時代に特に経験したことでもあります。4年間、教会の皆さんに祈られて、支援を頂いて、本当に感謝でした。また新潟の教会の兄弟姉妹方は横の繋がりが非常に強く、加えて地元に神学校があるということを非常に気にかけてくださっており、神学生一人ひとりの顔と名前を良くご存知で、そればかりか神学生一人ひとりの状況も良くご存知なのには驚かされました。神学生にはたびたび証しをさせていただく機会がありましたが、それが噂のように人伝に広まるのか。悪いことはできないなと思わされました。そして思わぬ所で見ず知らずの人に「いつも祈っていますよ。奥さまやお子さんたちはお元気ですか」と仰っていただいたことはしょっちゅうでした。日曜日の奉仕教会での奉仕を終えて学校に戻ると、「○○さんが佐藤さんによろしくって仰ってたよ」と言われたこともありました。何気ない会話の中で「今度、息子が中学に入学する」と言ったのだと思いますが、そのことを覚えていてくださって、後日お祝いという形でびっくりする献金をくださったりして、おかげで中学の制服が買えたなんてこともありました。正直、恐れ多くも本当に嬉しかったです。自分では気づいていなかったけれども、私を気にかけて祈りに覚えてくださっていた方がおられたのだと思うと励まされました。つい先日も、祈祷会で車の調子が悪いと呟きましたら、ある姉妹から翌日お電話をいただいて、「私の車を使ってくれても良い」と申し出ていただき、私の必要を覚えていてくださっていて、祈りに覚えていてくださっていたことが嬉しかったし、とても励まされました。本当に私たちの交わりは「いこいの共同体」であると思わされます。その背後にはやはり、人の手を介してなされる神の深いご配慮があることを覚えます。

 前置きが長くなりましたが、今朝からの箇所でパウロは、ローマの教会にフィベという姉妹を推薦して助けてあげるように頼み、続けてローマの教会の兄弟姉妹、キリストにある同労者の名前を一つ一つあげながら、彼らにあいさつを伝えるように頼みます。パウロの愛のこもった配慮が満ちているところです。しかし個人的なあいさつが繰り返されるこの箇所は、私たちと何の関係があるのでしょうか。何が教えられると言うのでしょうか。先に申し上げてしまいますと、私たちは宣教師になって直接的な働きをするのでなくても、宣教師の同労者になることができるのだと言うこと。そしてあいさつは日頃からしている小さな行いではありますが、それに少しの情報と関心を加えると、思った以上の力を発揮するのだということです。パウロは同労者である兄弟姉妹の名前とともに、彼らにあいさつを伝えるように頼みます。実はそれは、教会の力となることでもあったのです。

16章1節 ケンクレヤにある教会の執事で、私たちの姉妹であるフィベを、あなたがたに推薦します。
16章2節 どうぞ、聖徒にふさわしいしかたで、主にあってこの人を歓迎し、あなたがたの助けを必要とすることは、どんなことでも助けてあげてください。この人は、多くの人を助け、また私自身をも助けてくれた人です。

 パウロはコリントでこの手紙を書いているようです。ケンクレアは港があるコリントの町で、フィベという姉妹はそこにある教会の執事でした。執事というのは、使徒の働き6章に執事任命の最初の記録がありますが、教会が急成長した際に食べ物の配給に関する問題が起こりました。そこで教師や伝道者が祈りとみことばの奉仕に専念できるように奉仕者が立てられたのですが、その奉仕者のことを執事と呼ぶのです。この【執事】という語には、物質的に援助することによって奉仕するというギリシヤ語が用いられている通り、物質的な援助による奉仕が含まれるものでした。

 彼女はどうやら資産家のキリスト者であったようです。お金持ち。それも神からの賜物です。フィベは自分の資産を神からの賜物として捉え、神から頂いたものを神にお返しするつもりで、嫌々ながらではなく喜んでその奉仕にあたっていたのでしょう。素晴らしい信仰者、キリスト者ではないでしょうか。私たちも私たちに与えられている何かの賜物を、喜んで神にお返しする者でありたいと思わされます。

 ケンクレアという町は、先ほども申しました通りコリントにある港町で、東地中海貿易の中心地でした。港町は活気に満ちていましたが、同時に貧しい人たちも大勢いたに違いありません。フィベは執事として神からの賜物を用いて、パウロも含めた助けが必要な多くの人を助けました。その援助がどのようなものであったのか、具体的なことは何も分かりません。しかしはっきりしていることは、キリスト者としての真の愛、犠牲に富んだ彼女の世話を色々な形で受けた人々が大勢いたということです。そのような姉妹、教会の奉仕者、執事、フィベであると、パウロはローマの教会の読者たちに“推薦(2017では「紹介」)”します。

 フィベは自分の商いの用事かその他の用事のためにローマにおもむくことになっていたのでしょう。パウロはそのフィベに自分の手紙を託しました。ただの配達する人ではありません。彼女は手紙の「伝達者」でもありました。当時の伝達者は、必要に応じて受取人が差出人の意図を正しく理解させるように補足説明もしなければなりませんでした。パウロはフィベを推薦(紹介)し、彼女を尊敬をもって受け入れて、彼女の言うことを尊敬を持って聞くようにと勧めたのでしょう。また、当時は他の地域に住む人が訪問する場合、彼らの滞在中の宿と食事を提供し、必要なサポートをすることが慣例でした。それをなおざりにする人もいたので、くれぐれもフィベに対してそのようなことがないようにとパウロは頼むのです。あまり詳しく記されていない、わずか2節のこの短い言葉の中に、パウロの一人の婦人奉仕者の働きに対する関心と正しい評価、行き届いた配慮が示されていると思わされます。

 16章3節からは、「彼らによろしく伝えてください」、「彼によろしく」「彼女によろしく」、「よろしく、よろしく」とパウロは繰り返します。

 ところで、私たちは「○○さんによろしく」と便利なあいさつを良く使いますが、どういう意味で使われるのでしょうか。それは、今この場にいない人に対して自分の好意を伝えてもらうためのあいさつです。もしそのあいさつが自分に託されたら、私たちはそれを伝えるべき相手に何と伝えるでしょうか。「○○さんがあなたによろしくとのことでした」とか。もっと正確に気持ちを伝えるとしたら「○○さんがあなたのことを気にかけていらっしゃいましたよ」となるのでしょう。「私は今ここにいないあなたのことを気にかけていますよ。あなたのことを覚えていますよ」、そのことを、今目の前におらず、遠く離れている人に伝えたい時に、誰かに託す言葉なのではないでしょうか。

 マザー・テレサは「愛の反対は無関心」と言いました。パウロは「彼らによろしく」を繰り返します。あなたのこと、あなたの働き、その労苦、大変さを忘れていません。認めています。評価しています。覚えて気にかけています。祈っています。そう人づてに伝えられた人は励まされるでしょう。もし私たちが誰かにこのようなことを人づてにでも聞いたらどうでしょうか。直接だったらなおさら嬉しいでしょう。また真実の愛は必ず犠牲を伴うものです。もし言葉だけでなくほんの小さな贈り物、ジュースの1本でも添えられたりしていたら、それを伝えられた人、受け取った人を真に元気づける、励ますことになるのではないでしょうか。「いこい」を得させる交わりです。

 3節から、実に26人ものローマの教会の友人たちの名を挙げてあいさつがなされています。ほとんどの人が名前を何かしら知っていたのでしょうか。初代ローマ教会の交わりの親密さを知ることが出来ます。その26人の中にはユダヤ人がおり、異邦人がおり、王族の血を引く者、奴隷、様々な立場の人々がいます。しかし皆、「キリスト・イエスにある同労者」です。

 「“だれでも”キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者。これらのことはすべて、神から出ています(恵みです)。神は、御子キリストによって、キリストの十字架の死と復活によって、私たちをご自分と和解させてくださいました。神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ、背き(罪)の責任を人々に負わせず、和解のことば(福音)を私たちに委ねられました」(Ⅱコリ517−19)。この【同労者・συνεργός】は「協力者」という意味です。宣教師ばかりでなく、その協力者もまた「主にあって選ばれ、主に名を呼ばれ、召されて、主にあって福音のために労している」人たちです。聖書は協力者たちの労を正しく評価し、記録して永遠にとどめるのです。

 プリスカとアクラ夫妻のことは、皆さんも良くご存知のことと思います。パウロの最初の協力者です。聖書を教えることができ、自分たちの家を教会として開放していました。4節の「異邦人のすべての教会も感謝しています」という言葉が示しているように、プリスカとアクラは当時の異邦人教会の中で最も有力な指導者でした。多くの実を結びましたが、きっと労苦も犠牲も多かったことでしょう。迫害され一度はローマを追われ、一生懸命テント作りをしながら働き、物心両面で伝道に協力していました。

 エパネトはアジヤでキリストを信じた最初の人、初穂でした。その後大勢の人々がキリストを信じていきましたが、パウロはエパネトを忘れていません。エパネトが救われた時の大きな喜び、凄く励まされたこと、教会の大きな励ましになったことを忘れていない、また最初の人ならではの多くの労苦をもきちんと覚えているのでしょう。

 あなたがたのために非常に労苦したマリヤによろしく。彼女の労苦はどのようなものだったのでしょうか。

 アンドロニコとユニアスは、使徒たちの間で注目に値する人たちでした。パウロと共に投獄されたようです。パウロよりも先にキリスト者になり、福音の伝道者として広く各地の伝道に派遣された人たちでした。それゆえに大きな苦難にあった人たちでした。その苦難はパウロがサウロであった頃に自分が手を下して教会を迫害したわけですから、パウロ自身がその迫害の実態を良く知っていたのでしょう。パウロはどんな思いを込めて彼らによろしくと言ったのでしょうか。

 主にあって私の愛するアムプリアトによろしく。名前からして分かることは、彼は奴隷だったようです。

 キリストにあって私たちの同労者であるウルバノと、私の愛するスタキスとによろしく。聖書には彼らについての手がかりはなく、私たちにはどのような人たちなのかは分かりません。でもパウロにとっては同労者であり、やはり彼らの労苦を良く知っていたのでしょう。

 キリストにあって練達したアペレによろしく。練達とは試された人、試練に遭い、練られて、キリストの品性を身につけた人ということです。どれほどのキリストにある試練に遭われたのでしょうか。

 アリストブロの家の人たちによろしく。アリストブロという人は、あのヘロデ大王の孫だそうです。その家の人たちとは、その家族とも、その家の奴隷たちとも考えられます。彼らによろしくと。

 私の同国人ヘロデオンによろしく。彼もその名前からしてヘロデと何らかの関係がある人らしく、アリストブロの関係者です。あのヘロデ大王の関係者。そのことのゆえに、教会の内外において色々あったのだろうと想像します。

 ナルキソの家の主にある人たちによろしく。ナルキソという人は、奴隷から成り上がった悪名高い人物で、その腐敗しきったナルキソの家に奴隷として仕える人が救われた。これも注目に値するニュースでした。そのニュースは遠く離れたパウロの耳にも届くほどのものでした。そのような主にある兄弟姉妹によろしくと伝えます。悪い主人に仕えるキリスト者の奴隷には、やはり多くの苦難や試練、悩みがあったことでしょう。不正に加担させられたり、信仰の戦いもあったのではないかと思います。現代のクリスチャン社会人を思わせる状況です。

 ツルパナとツルポサという双子の姉妹もまた、主にあって労している人たちでした。またペルシスという婦人などは、主にあって非常に労苦したと記されています。パウロは彼女に愛を伝え、さらに彼女によろしくと言います。

 主にあって選ばれたルポス。彼はマルコの福音書15章21節のルポスと同一人物らしいです。それが事実ならば、イエス様の十字架を背負わされたシモンの息子の一人ということになります。また私にとっても母であるルポスの母によろしく。彼女は十字架を背負わされたシモンの妻ということでしょう。そのためか、主の教会に忠実に仕える婦人だったようです。彼女の教会に対する労苦へのねぎらいが込められていると言えるでしょう。

 アスンクリト、フレゴン、ヘルメス、パトロバ、ヘルマスおよびその人たちといっしょにいる兄弟たちによろしく。彼らも全員キリスト者となった奴隷と考えられます。フィロロゴとユリヤ、ネレオとその姉妹、オルンパによろしく。この人たちはローマの皇帝に仕える奴隷夫婦とその子どもたちです。自らを神とするローマ皇帝に仕える奴隷一家。それでも信仰によって「我と我が家は主に仕える」との決意。どのような毎日を、どのような気持ちで送っていたのでしょうか。生ぬるい私などには分からない戦いがあったと思います。

 最後に、一人ひとり名を挙げた彼らと共に家の教会に属する人たちに、パウロは「すべての聖徒たち」と呼びかけるのです。教会はまさしくすべての聖徒たちの交わりなのです。

 パウロは一人ひとりの名を挙げ、またすべての聖徒たちに「よろしく伝えてください。私はあなたを覚えている、すべての労苦を覚えている、きちんと評価している、忘れてはいない、なおざりになどしていない、いつも気にかけて、いつも祈っている」と、私の彼らへのあいさつを伝えてくださいと頼むのです。一人ひとりのそれぞれの事情を聖書の中からすべて詳しく知ることはできません。しかし「よろしく」と伝えられた一人ひとり、また教会は、当事者にしか分からない労苦があったはずですから、それぞれに非常に慰められ、励まされたことと思います。大きな力、どこかしぼんでいた心に水が注がれて、新しいいのちが吹き込まれて、また立ち上がる、復活の力になったことと思います。

16章16節 あなたがたは聖なる口づけをもって互いのあいさつをかわしなさい。キリストの教会はみな、あなたがたによろしくと言っています。

 口づけをもって互いのあいさつをかわす。これは当時、家族や親戚同士で行われていた習慣でした。おそらく、彼らが今では神にある家族となったので、あいさつをするときも家族同士で行う方法であいさつをするということでしょう。そしてキリストの教会はみな、あなたがたローマの聖徒たちのこともしっかり覚え、ローマでの主にある労苦をきちんと評価し、覚え、気にかけていつも祈っていると伝え、彼らに対する配慮と励ましを伝えるのです。あなたがたは孤独ではない、あなたがただけの信仰の戦いではない、私たちも主にある家族としてともに戦う、祈り、また必要であれば人的に、物質的にも協力するのだと励ますのです。

 私たちには口づけをもってあいさつをする習慣はありません。ですから、私たちは私たちの習慣によって互いにあいさつをすれば良いのです。あいさつは互いを思いながら、互いの状況を知らせることでもあります。そこから喜びや苦難の分かち合いが始まります。そこから祈りが始まります。互いのために祈り合うことが始まるでしょう。そしてまた、互いに互いのことを覚え、いつも気にかけていること、様々な労苦を認めていること、労苦に無関心ではないことを伝えるのです。そこからさらに御霊の実である愛のみわざ、純粋な愛による実際の行い、施し、空腹の人にはアンパンを差し出す行いが始まるのです。これがキリストの教会、キリストのからだとしての一致、互いの弱さを担い合いそして霊肉ともに建て上げられていく、そのような共同体のあるべき姿ではないでしょうか。

 教会は礼拝をささげ、神との交わり、聖徒との交わりを持つ所です。あいさつはその交わりのスタート地点です。あいさつは礼儀であるかもしれませんが、教会と各々の信仰の成長のために必要なものです。そこから始まる会話の中で、御霊が働いてくださることを祈り求めましょう。御霊によって注がれる愛に満たされて、主にある交わりを通して、互いの真の必要を知り、互いに慰めを受け、励まされることで教会は強められていくのです。強められて来たのです。

 私たちは宣教師になって直接的な働きをするのでなくても、宣教師の同労者、協力者になることができます。また何度も申し上げておりますが、私たち一人ひとりが宣教者であり、互いに同労者、協力者になることができます。そしてあいさつは日頃からしている小さな行いではありますが、それに少しの情報と関心を加えると、そしてそこに御霊が働かれると、思った以上の力を発揮するのです。それは、教会の力となるのです。

 キリストを信じる信仰をひとつとする私たちは皆、聖なる公同の教会、聖徒の交わりに加えられている者たちです。ですから私たちは、身近な兄弟姉妹に、そして世界中の顔も知らない兄弟姉妹にもっと関心を持ってあいさつをする者、「よろしく伝えて」と、労苦を認め合い、祈り合い、実際的にも助け合い、施し合い、そのようにして互いに強められ、成長していく者でありたいと思います。

 最後に、私たちの名は聖書に記されていません。しかし、神は私たち一人ひとりの名を呼ばれ、一人ひとりに感心を持たれるお方です。私たちは確かに神によって名が呼ばれ、召され、新しく造られ、神の子とされ、天にその名が記されています。そして私たちのすべてのわざも天に記されています。労苦もすべて神に覚えられています。決して忘れられてはいません。神が聖霊を通して、また兄弟姉妹を通して「よろしく」と言ってくださっています。そして私たちが気づいていなくとも、私たちの思いを越えた神の深い配慮がなされています。私たちは何よりもこの事実に慰められ、励まされ、「いこい」(新しいいのち、力)を得たいと思います。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

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