2022年7月17日 主日礼拝「荒野の誘惑」
礼拝式順序
礼拝前賛美
報 告
開 祷
讃美歌 68番「父なるみ神に」
主の祈り 564番「天にまします」(参照)
使徒信条 566番「我は天地の」(参照)
讃美歌 525番「恵み深き主のほか」
聖 書 マタイの福音書4章1〜11節
説 教 「荒野の誘惑」佐藤伝道師
讃美歌 532番「ひとたびは死にし身も」
献 金 547番「いまささぐる」
頌 栄 541番「父、み子、みたまの」
祝 祷
本日の聖書箇所
マタイの福音書4章1〜11節
説教題
「荒野の誘惑」
今週の聖句
主は、ご自身が試みを受けて苦しめられたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。
ヘブル人への手紙2章18節
今週の祈り
主は……あなたの旅を見守っていたのだ。この四十年の間、あなたの神、主はあなたとともにいて、あなたには何一つ欠けたものがなかった。
(申命記2:7)
神よ、あなたが幸いをくださることを決して疑わずに安心して従えるように助けてください。
説教「荒野の誘惑」
アウトライン
はじめに)
- 公的資格は何のため?
- 【試み】①悪魔が罪に誘うこと「誘惑」(創3)
②人間が真に信仰をもって従うかどうかを神が試みること「試練」(申82) - 荒野でのイエス様への試みは、「誘惑」「試練」両方の性格を持つ
1) 荒野での試み
- 【空腹を覚える】空腹になる、とことん貧しくなる、真剣に願う
- 神に近づこうとする者に対して、それを阻もうとする悪魔が立ちはだかるもの
- 「人はパンだけで生きるのではない・・・」(申83)
2)神殿の頂での試み
- 主を試みる
- 信仰によって生きようとする時、身の安全、将来の保証が大きな問題に
3)高い山での試み
- 悪魔が支配する世界を与えよう
- 簡単なことから始まる誘惑
まとめ)
- 主は試み(誘惑、試練)を実際に経験し、すべてに勝利された方
- 悪魔の試みは執拗に繰り返される。その試みさえも神は試練として用いられ、私たち聖徒をますます聖め整えられる
- 私たちは救われ神の子とされているから試みを受ける。試みを受けるから救われていないのではない
- 「イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。」(ヘブ218)
- 唯一失格者となるのだとしたら、私たちが敵対者の誘惑に負け、主への信仰、信頼を捨ててしまう時。その時私たちは自分の足で神に背を向け神のもとから去って行くのである
- イエス様から目を離さずに、主に依り頼み、主に守られ励まされながら、愛と信仰にとどまり続け、天の御国を目指して歩んで行こう
皆さんは何か資格をお持ちでしょうか。看護師、教職員、他にも色々な資格をお持ちの方がおられます。「人の命と財産を守る職業には、公の資格がいる」ということが良く言われますが、それゆえに、なりたいと思えば誰でもなれるというものではありません。専門的に学び、厳しい訓練を受けなければならないし、最終的に難しい試験もあります。この試験に合格して初めて公の資格が与えられます。なぜ資格が必要なのでしょうか。それは自分自身のためであり、またすべての人のためでもあると思います。試験に合格し、資格が与えられ、たとえば医者であれば医者として認められ、自分は医者としてこれからやっていけるのだという自信と言いますか証明にもなりますし、責任ともなるでしょう。患者の側からしてみれば、この人は医者と認められているのだから、私の体をこの人に預けて、信頼して、治してもらおうと、そうなるのではないでしょうか。そもそもちゃんとした資格を持たない、自分は医者だと思い込んでいるだけの人のところに行こうなどという人は、普通いないのではないでしょうか。そのために公の資格は必要なのだと思います。
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです」。そう言われたイエス様を心から信頼し、イエス様のもとに行くことができた人たちは癒やされました。罪から解放され自由になりました。しかしイエス様を信頼できなかった人たちは、イエス様のもとに救いを求めて行くこともしませんでした。それゆえに癒やされることも、救われることもなかったのです。人はイエス様の何を見て、この方を信頼し、この方のもとに救いを求めて行こうと決意できるのでしょうか。神の御姿でしょうか。奇跡をなさる御姿でしょうか。しかしイエス様の神の御姿とは、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられた、その御姿ではなかったでしょうか。
イエス様に与えられたメシヤとしての使命は、私たちの肉体だけでなく、精神をも含めた“全人格”、体と心は1つで切り離すことは出来ませんから、その両方をもって完全に救うという、非常に重要な使命でした。この使命に適任だと言うことが確かめられるために、やはり一種の試験とも言うべきものが必要だったようです。イエス様はバプテスマを受けて父なる神からメシヤとして任命されました。そしていよいよ公の伝道活動を始められる前に、荒野で試みを受けて、ご自分がメシヤとして必要な資格を十分に備えておられることを明らかにされたのです。イエス様はそのからだをもって罪人と同じ立場に立つだけでなく、人の受ける精神的な試みをも自ら受けることによって、真の救い主となられたのです。イエス様は神の子だから試みに遭わないのではないのです。神の子というのは、この後、悪魔もそうイエス様のことを呼んでいますが、これはメシヤ(救い主)の称号、メシヤを示す呼び名です。試みに遭うような者は神の子、メシヤではないというのではないのです。イエス様は神の子、メシヤだからこそ人間と同じ試みに遭われたのです。私たちは私たちの知る試みに遭われ苦しまれ、しかし勝利されたイエス様を見て、このイエス様こそ私たちを苦しみから解放してくださるメシヤであると心から信頼し、依り頼んで救われるのです。
4章1節 さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
ここで用いられている【試み】という語ですが、2つの意味があります。1つは、悪魔が罪に誘うことで「誘惑」と呼ばれるものです。アダムとエバが蛇に誘惑されたことが典型的な例です。悪魔はいつも何かを目で見させて人を誘惑し、神に背かせようとする。それが「誘惑」、罪の始まりです。今日の箇所では「悪魔の試み」と言われているので、イエス様が遭われたのは「誘惑」であったことが分かります。それはイエス様のメシヤ失格をねらった悪魔の誘惑でした。しかし「御霊に導かれて」とも書かれています。そこで試みという語が持つもう1つの意味は、その人が真に信仰をもって従うかどうかを神が試みることで、しばしば「試練」と言われるものです。申命記8章2節にはこのようにあります。「あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった」(申82)。神は人を苦難に遭わせることによって、その人の内にある信仰が本物であるかどうかを試されます。けれども、続く申命記8章4節にはこうあります。「この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを、知らなければならない」(申84−5)。試練は神の守りの中での良い目的を持った訓練ではありますが、そのことを知っていたとしてもやはりとても苦しいものです。できれば避けて通りたい。
このように同じ語に「誘惑」と「試練」の2つの意味があり、人の目にはなかなか区別が付けられないものですが、イエス様に対する悪魔の誘惑の背後には、実は悪魔をも支配される神のご計画があったのです。ですからこの「誘惑」は、「試練」としての性格も持っていました。いずれにしてもイエス様はこの誘惑に打ち勝ち、試練、試験(テスト)をパスすることによって、ますますご自身がメシヤであることを明らかにしてくださいました。
4章2節 そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。
4章3節 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
40日40夜の断食。先ほどの申命記8章の荒野での40年間と何か関係がありそうですが、40日間の断食など想像が付くでしょうか。完全な断食をするなら1週間が生命の限界であるとも言われています。ユダヤでは断食の場合にもわずかな水と食物をとることが許されていたので、イエス様の場合もそのような断食であったのかもしれません。それにしても40日の断食とは大変なことです。
イエス様は空腹を覚えられました。たとえわずかな食物が許されていたとしても、40日間も満足に食べられないのですから。【空腹を覚える】とは、文字通り“空腹になる”という意味の他、“とことん貧しく”なる、それゆえに“真剣に願う”という意味もあります。イエス様は空腹になり、とことん貧しくなり、神に真剣に、ひたすらに願う者とされました。神に近づこうとしたのです。すると「試みる者」、誘惑する者が現れました。マルコの福音書1章13節には「イエスは40日間荒野にいて、サタンの試みを受けられた。イエスは野の獣とともにおられた」と記されていますが、Ⅰペテロ5章8節には「あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っている」とあります。荒れ果てた荒野、肉体的にも精神的にも様々な困難を覚える荒野は、実に神に出会わせ、神に近づける場所です。その荒野で神に近づこうとする者に対して、それを阻もうとする獣のようなどう猛な悪魔がお決まりのごとく立ちはだかるのです。
そして気をつけなければなりません。神に近づこうとすることを阻もうとするどう猛な悪魔は、その時その人が一番弱さを覚えているところを攻撃してくるのです。何かを欲しいと思っている時、苦しみの中から助けてほしいと思っている時、悪魔は誘惑の罠を仕掛けてくるのです。
イエス様が誘惑にあわれた山からはエリコの町を見渡すことができました。オアシスがあり、緑の畑に囲まれたその町は「エルサレムの食料庫」と呼ばれるほどの町でした。大変な空腹、貧しさ、弱さの中で、目の前にある食料が豊富にある町を見させられながら悪魔の誘惑に遭われました。どれほど精神的に追い詰められたことでしょう。また、あわれみ豊かなイエス様の目は、食糧が豊富なエリコの町にいる、虐げられ、空腹で貧しい人々も見ていたのではないでしょうか。悪魔は言います。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい」。先ほども申しましたが、神の子、それはメシヤ、救い主を指す呼び名です。悪魔はエリコの町を見せて誘惑します。「あなたが人々の救い主であるのなら、この石をパンにして、自分と、そしてあの貧しい人々を救ったらどうか。バプテスマを受けた時、『わたしの愛する子』という声を聞いたらしいが、あれはおまえの思い込みか幻聴だったのではないか。そうでないと言うなら石に命じてパンにしてみろ」。このいやらしくも、もっともらしい誘惑に、イエス様は間髪入れずに答えられました。
4章4節 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」
イエス様の答えは申命記8章3節のみことばの引用です。「それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった」。さすがイエス様、聖書のみことばすべて覚えておられ、すべてをご自分の出来事に適用することがおできになった。この時は申命記のみことばから、ご自分が今、空腹を感じているのは悪魔の誘惑であると同時に、父なる神が計画され、御霊によって導かれた試練でもあることに気づいておられました。そしてこの経験を通してイエス様はメシヤとして人類を救おうとする時に、「パンによって救え、人の欲望を満たして楽に救ったらどうか」という悪魔の誘惑を退け、ただ神のみことば、神の救いのご計画に従って、ご自分の苦難と十字架の死という道を選ぶ決意を示されたのです。パンとか物質的な必要によって人類を本当に救えるなら、イエス様にとってこれほど簡単なことはなかったことでしょう。そこに十字架の霊肉の痛み苦しみは必要ないのです。現に5つのパンを祝福して5,000人をも楽々と養うことがおできになるお方です。ご自分は喜ばれ絶賛されるかもしれません。しかしイエス様は、パン、人の必要を満たすことによってだけでは、真に人を救うことができないことを良く知っておられたのです。
私たちは、人間の幸福のためには、経済を繁栄させて、物質的に豊かになることが何よりも必要なことだと考えるのではないでしょうか。しかしそのことを第一として生活する時の悲劇は、今の私たちがこの目で見ている通りです。環境は破壊され、自然の秩序が乱れ、疫病が蔓延しています。自己中心な生き方によって世の道徳とか秩序は乱れてしまいました。戦争や争いがあります。経済や物質的な繁栄を第一に追い求めた結果、皮肉にも食糧は不足し、物価は高くなり、弱肉強食の世界になって来てしまいました。これは完全に平和で完全に調和が保たれている神の国とは真逆の世界です。神のみことば、神の命じられたこと「神と隣人とを愛しなさい。神の国とその義とをまず第一に求めなさい」。神が言われることばを無視してパンを第一とする生活、自分の欲望を満たすことを第一とする生活を続けていくなら、私たち一人ひとりは、また家庭は、教会は、人類全体はやがて本当に滅びてしまうでしょう。私たちが真剣に考えなければならないことだと思います。
私たちは自分の空腹が満たされない、自分の欲望がそのまま理想通りに、楽に満たされないことに対して苦しみます。そこで試みられます。しかし同じ試みを受けて苦しまれたイエス様は、そのような私たちを確実に助けてくださることのできるお方です。
聖書(申命記)のみことばをもって答えられたイエス様に対して、悪魔も同じ聖書のみことばをもって第二の誘惑にかかりました。
4章5節 すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、
4章6節 言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」
4章7節 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」
悪魔はイエス様を、谷を見下ろす目もくらむほどの高さの城壁の頂きに立たせて言いました。「下に身を投げてみろ。あなたが本当にメシヤであるなら、神は必ずあなたを助けてくれるだろう。あなたは神に愛されている子なのだから、神があなたを見殺しにするはずがない」と、詩篇91篇11〜12節のみことばを用いてイエス様に迫りました。悪魔も同じ聖書に精通しているのです。イエス様が聖書に絶対的に信頼しているのを知って、今度は自分が聖書のことばを引用して、イエス様の反論を封じようとしたのです。
イエス様は、今度は申命記6章16節を引用して答えられました。「『あなたがたがマサで試みたように、あなたがたの神、主を試みてはならない』とも書いてある」。ここには歴史的背景があります。昔、イスラエルの民がエジプトを脱出して荒野を旅していた時、マサという所で飲み水がなくなってしまい、指導者であったモーセに水を求めて、「主は私たちの中におられるのか、おられないのか。もし私たちの中に主がおられて、私たちを守ってくださるというのなら、水を与えてくださるはずだ」と叫びました。一見信仰的に見えますが、実はそうではないのです。「水が与えられたら主がおられるのだと信じてやろう」、そう言って神を試みたのです。神を自分の思い通りにさせようとする罪人の姿です。イエス様はこのような背景を持ったみことばを引用して、「わたしが身を投げて、父なる神が助けてくださるかどうか試してみて、そのうえで神を信頼するのではなく、神が助けてくださろうが、そうでなかろうが、わたしは神を信頼するのだ」ということを言われたのです。信仰によって生きようとする時、神の国とその義とを第一とする時、神のみことばを最優先にする時、そこで私たちの身の安全、将来が保証されるかどうか、私は本当に大丈夫なのだろうかと、ここでも私たちは大いに試されるのではないでしょうか。本当に苦しむと思います。しかし同じ試みを受けられたイエス様は、そのような私たちを確実に助けてくださることのできるお方です。
4章8節 今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、
4章9節 言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
悪魔は第二の誘惑に失敗すると、ただちに第三の誘惑にかかりました。悪魔はイエス様を非常に高い山に連れて行き、全世界を見せました。しかし世界中が見渡せる山などありませんから、これはイエス様の心の中での出来事の象徴として語られているのでしょう。
悪魔がこの世界を支配しているということは、ここでは暗示されているだけですが、聖書には実際にそうであると証言しています。「もしひれ伏して私を拝むなら、今あなたが見ているこの全世界をあなたに差し上げましょう」。
イエス様にとってこれは大きな誘惑だったことでしょう。心もからだも益々非常に貧しくなっていた中でのことです。第一の誘惑ですでに、イエス様のメシヤとしての公の活動、それはしもべとしての苦難の道であり、終わりには十字架の苦しみと死が待っている道、神のみことばに従ってその道を行くのだと確かめた後なのに。第二の誘惑でも、たとい自分が十字架にかかり神に見捨てられたように見えたとしても、わたしは神を信じるのだと心に決めた後なのに、悪魔は執拗に弱さを狙って誘惑してくるのです。悪魔はイエス様に栄えている全世界を見せて、自分を拝みさえすれば全世界を与えると約束するのです。人間を救うには本当にこの道しかないのだろうか。悪魔の誘惑に一瞬でもそう思われたのかもしれません。全世界が与えられたなら、メシヤとして世界の頂点に君臨して、正義と公平による支配を確立し、悪や不正を一切追放し、そうすれば人類に幸福をもたらすことができるのではないか。そうすれば、自分が死ぬなどという苦難を味わわなくてもよいのではないか。しかし、イエス様は即座に否定されました。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある」。ご自分が拝むべきお方、仕えるべきお方、聞き従うべきお方は主のみであると。
人間にとって最大の誘惑は、自分が全世界を手に入れて、支配者となって、すべての者、すべてのことを自分の意のままに動かすことかもしれません。世界とか国という大規模なものに限らず、それは会社や学校、組織、サークル、家庭にまで及んでいます。イエス様の弟子たちの中でも「誰が一番偉いか」という議論が起こると皆熱くなりました。自分が一番偉くなりたいのです。これは人間の罪の姿です。イエス様に対する悪魔の誘惑は、私たち人間の自己中心という弱点を突いた悪魔の抜け目ない誘惑でした。しかも悪魔は、「ただ私を拝むだけでこの世をすべて差し上げましょう」と言いました。ただ頭を下げるだけで良いのだと。何の危険も犠牲もなく、ごく簡単に。ここにも悪魔の巧妙なわながあるのです。誘惑というのは、誰にでもできるごく簡単なことから始まるのです。気をつけなければ「こんなこと」と思われるようなことによって、それを足がかりとして簡単に誘惑されてしまうのです。そしてまんまと悪魔の虜となってしまうのです。しかし同じ試みを受けられたイエス様は、そのような私たちを確実に助けてくださることのできるお方です。
イエス様はここで初めて悪魔のことを「サタン」と呼びました。これは悪魔の真の目的を表す名前です。その名前「サタン」の意味は、神と神の救いの目的とに対する「敵対者」「対抗勢力」を意味するのです。まさに荒れ果てた荒野、肉体的にも精神的にも様々な困難を覚える荒野で神に近づこうとする者に対して、それを阻もうと立ちはだかる存在です。そのサタンに対してイエス様は言われたのです。
4章10節 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」
4章11節 すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。
悪魔はイエス様を離れていきました。【離れる・ἀφίημι】はとんずらする、逃げ去るという意味の語です。イエス様が神と神のみことばに対する絶対的な信頼、信仰を告白した時、悪魔は逃げ去りました。そして御使いたちが近づいて来て仕えました。イエス様の勝利です。御使いは神からのメッセンジャーです。神からのニュースや願いを伝えるものです。その御使いたちが近づいて来て、神への信仰を告白する者に仕えるのです。エリヤのもとに神に命じられてカラスが食糧を運んできたように、御使いたちの奉仕には、霊的、肉体的、両方の必要の満たしが考えられます。神の国とその義とをまず第一とするなら、すべて必要なものは与えられることの証明です。
イエス様は悪魔の誘惑に打ち勝たれ、同時にその背後にある、実は悪魔をも支配される神のご計画、試練、試験(テスト)にパスすることによって、メシヤとして必要な資格を十分に備えておられることを明らかにされました。ご自分に対して。そしてすべての人々に対して。ご自分を強く立たせ、またご自分こそ人が救いを求め、真に信頼できるメシヤであることを私たちに明らかにされたのです。
イエス様はこの後、二度と誘惑に遭うことはなかったのでしょうか。そうではありませんでした。ルカの福音書では「悪魔はあらゆる試みをおえると、しばらくの間イエスから離れた」(ルカ413)と記されています。悪魔はしばらくの間、離れるのです。誘惑、試練、試験はずっと続きました。イエス様は神の子だから試みを受けないのではなく、神の子だから試みを受け続けたのです。そして神のみことばを心から信頼し、神のみことばによって、またはっきりと注がれた聖霊(神の愛、親心)に助けられ、守られ、一つ一つ勝利されていったのでしょう。
私たちも同じです。イエス様が経験された同じ誘惑、また試練は、天の御国に至るまで、この世の荒野のような旅路の中で幾度となく繰り返し経験させられることでしょう。私たちはイエス・キリストを通して神の子とされているので試みを受けないのではなく、神の子とされているから試みを受けるのです。私たちの救いは決して、私たちの思い込みや勘違いではなく、神から恵みとしてイエス・キリストを通して与えられているものであることも、このことから証明されるのです。イエス様は祈ってくださっています。「わたしがお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです」(ヨハ1715)。人がその人生の中で経験するすべての試みを自らも経験され、その激しい戦い、苦しさをご存知の主は、今も神の右の座で私たちのために真実にとりなしてくださっています。悪から守られ、試みに勝利し、また試みをも試練として用いられるように。私たちがそれぞれの人生、この世での信仰の旅路を通して、ますます天の御国の住人にふさわしい者、聖い者、完全に神のものとして取り分けられるものとして整えられるようにと、とりなし祈ってくださっています。イエス様に注がれた聖霊と同じ聖霊が私たちにも注がれており、聖霊も弱い私たちを助け、ことばにならないうめきをもってとりなしてくださっています。イエス様は、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを本当に助けることがおできになります。イエス様がいつも生きておられ、私たちのためにとりなしをしてくださっているので、私たちは神に近づこうとする私たちの前にいつも立ちはだかり、妨害しようとする敵対者に完全に勝利できます。このイエス様こそ、私たちにとってまさに必要な方です。このイエス様から目を離さずにいれば、私たちは大丈夫です。失格者になることはありません。霊肉ともに真の必要も満たされます。唯一、もし失格者となるのだとしたら、それは私たちが敵対者の誘惑に負け、イエス様から目を離し、イエス様に対する信仰を捨ててしまった時です。その時私たちは、神に背を向け自分の足で神のもとから去って行ってしまうのです。私たちが助けを求めてイエス様のもとに駆け寄り、愛のうちにとどまり、信仰にとどまり続けるならば、今生きている荒野での試み、誘惑に一つ一つ勝利して行くことができます。ますます聖められていくことでしょう。その勝利の経験は私たちの自信にもなり、私たちの信仰をさらに強めてくれるものにもなるでしょう。主に依り頼み、主に守られ励まされながら、主の愛、信仰にとどまり、天の御国を目指して歩んでまいりましょう。