2024年6月2日 主日礼拝「わざわいだ」
礼拝式順序
賛 美 新聖歌204「わが友にます贖い主」
新聖歌496「うるわしの白百合」
前奏(黙祷)
招 詞 イザヤ書66章1〜2節
讃 美 讃美歌19「みこえきくとて」
罪の告白・赦しの宣言
主の祈り 讃美歌564「天にまします」
祈 祷
讃 美 讃美歌339「君なるイエスよ」
聖書朗読 マタイの福音書23章13〜24節
説 教 「わざわいだ」佐藤隆司牧師
讃 美 讃美歌511「みゆるしあらずば」
聖餐式 信仰告白 讃美歌566「使徒信条」
讃 美 讃美歌206「主のきよきつくえより」
献 金 讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報 告
今週の聖句 ミカ書6章8節
頌 栄 讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝 祷
後 奏
本日の聖書箇所
マタイの福音書23章13〜24節
説教題
「わざわいだ」
今週の聖句
わたしが目を留める者、それは、貧しい者、霊の砕かれた者、わたしのことばにおののく者だ。
イザヤ書66章7b節
説教「わざわいだ」
マタイの福音書23章13〜24節
前回は、当時の霊的リーダーであった律法学者たちやパリサイ人たちについてのイエス様の評価と意見を見ました。
ところで、聖書にはどうしてこれほどまでに律法学者やパリサイ人についての記述が多いのでしょうか。しかもそのほとんどが非難であったり、警告であったりします。それは読者である私たち自身の内に律法学者やパリサイ人が潜んでいるからです。私たちが他者を非難したり警告するためではなく、彼らについて書かれている聖書のみことばを通して自分自身を省み、そして神に聖めていただき(世から取り分けていただき)、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げるためです。神に真実に仕え、用いられる者となるためです。聖めると申しましたが、これは神が世からご自身のために取り分けることです。たとえ100円均一の皿だとしても、神がそれをご自身のものとして取り分けて用いてくださるなら、その皿は聖いのです。神のものです。またいくら高価で美しい皿でも、犬のポチのご飯に用いるなら、それはもったいないことに本来の価値が発揮されませんね。
前回を振り返りますが、イエス様から見た律法学者たち、パリサイ人たち、神によって世の霊的(霊的というのは、目に見えないもの、この世的ではないもの、神の領域というもの)リーダーとして立てられていた彼らは、現代のSNSの「映え」ではないですが、見た目ばかりを気にして実が伴っていない人たち。具体的には聖句を入れた小箱を必要以上に大きくしたり、衣の房に派手な装飾を施し、長さも引きずるほどに長くしたりなどして、人からのたくさんの高評価「いいね!」の数を増やそうと頑張る人たち、インフルエンサー(世間や人の思考・行動に大きな影響を与える人物)でした。「あの方は敬虔な方だね」「さすがだね」などという人々の反応を喜び、しかし実態はそうではなかったのです。霊的リーダーとして主のみことばを学び、主のみことばを教え、自らが主のみことばに生きることが神から求められていたにもかかわらず、実際はそうではなかった。神から与えられた権威を間違って用い、人々には通常の生活をしながらでは守れないほどまでに守るべき掟や定めをどんどん増し加えながら、自分たちのためにはちゃっかり抜け道を用意しているような者たち。そのような彼らが「先生」「父」「師」と呼ばれ高慢になっている。「先生」「父」「師」いずれの呼び名も「偉大な人物、尊敬される人物、特にみことばを教える教師、神のもとへ人々を導く人」を指して呼ぶ呼び方でした。そのような者が世での霊的リーダーであって良いわけがない。それがイエス様の彼らに対する評価でした。そしてやがて先生と呼ばれなくても、先生のように見られることになるであろうあなたがたは、そうであってはならないと、イエス様は群衆と弟子たち言われました。そうです。私たちは皆、先生なのです。教会の中では皆が必ず誰かにとって先生であり、またあることに関しては先生です。教会の外においても、私たちは皆が世の人々、家族や友人や知人の間に神のみことばを教える先生として遣わされているのです。ただ先生と言っても、「キリストにあって神の愛とあわれみ、恵みによって先に生まれただけの者」であることを忘れてはなりません。決しておごり高ぶれる者ではないのです。この世に神によって立てられる真の霊的リーダーとは、主のみことばを学び、主のみことばを教え、自らが主のみことばに生きる者たち。自らがみことばに完全に従えない自分を悲しみ、みことばと格闘し、一生懸命みことばに従順に生きようとする者たちであると。そのような者たちこそが真の先生、父、師。天において偉大な人物、尊敬される人物とされる者。そのような者に天の御国の鍵が与えられている。そのような者たちこそが神のもとへ人々を導く人者である。そのようにイエス様は言われました。
続くマタイの福音書23章13節からも律法学者とパリサイ人たちに対する批判は続きます。それは36節までの間で7つの項目に分けられ、各項目は「わざわいだ」で始まります。イエス様は彼らにある7つの問題点を指摘されます。本朝はそのはじめの4つの項目となります。
「わざわいだ」と言われているのはもちろん「偽善の律法学者、パリサイ人」です。彼らは霊の目の見えない者で、彼らの教師また指導者としての罪はとても大きいものでした。ここからの7つの警告は、世での霊的リーダーの堕落の問題点を示しています。イエス様は霊的リーダーが正しく立っていないことを深刻な問題として教えておられます。なぜなら、その間違った指導が、神が愛し、イエス様が愛する人々を永遠のいのちから遠ざけてしまいかねないからです。イエス様は引き続き、律法学者とパリサイ人の罪を指摘しながら、彼らの行いの真実を明らかにし、弟子たちに警戒すべきことを教えられます。また、これは次回になりますが、彼らが受ける神のさばきがいかに大きいことかを告げ、同様の罪を悔い改めるように弟子たちに迫られたのです。このところから、イエス様が捨てるよう告げておられる罪が私たち自身の内にないかをよく省みる必要があるでしょう。
1つ目の批判は、「自分も人々も天の御国に入れないようにしている。他の人に悪い影響を与えた」というものです。
23章13節 わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々の前で天の御国を閉ざしている。おまえたち自身も入らず、入ろうとしている人々も入らせない。
イエス様が最初に指摘された律法学者とパリサイ人の罪は、他の人に悪い影響を与えたことでした。彼らは律法、神のみことばに対する誤った解釈によって、自分たちだけでなく、その影響を受けた人々まで天の御国に入れないようにしたと言われるのです。指導者の悪というのは、その人自身だけでなく、周囲の人々の信仰をも迷わせてしまいます。
彼らは人間的な観点から見れば、道徳的には正しく、まじめな人間だったのでしょう。しかし、彼らはどこまでも律法を守り行うことによって義とされること、救われることを求めていたので、イエス様が宣べ伝えた福音(イエス・キリストを信じる信仰による義、恵みのみによって義とされる)を激しく拒絶し、また人々にもそのように教えて、神の国に入らせようとしませんでした。彼らは自分たちの言い伝え、自分たちが信じていること、つまり律法を完全に守り行うことによって救われるのだということを人々に教え、そして信じるように導いたことは、人々を神のみこころから遠ざけることになりました。神のみこころとは、正しい行いなどでは決して赦されることのできない神に対する罪人人間を、イエス・キリストの十字架による贖い、罪の赦しを信じる信仰によって、恵みによって赦そう、救おうというものです。しかし彼らは神の愛とあわれみ、恵みを拒絶しました。
私たちがこのような彼らの罪を避けるためにはどうしたら良いのでしょうか。まずは神のみことばである聖書をよく知るように努めなければなりません。福音を本当に理解する必要があるでしょう。そのためにも絶えず聖書を読み、祈り、黙想し、神は何を言われているのか、神は何を私に求めておられるのかを知り、みことばを自分自身に適用してそれを実践するのです。そこで悩み、格闘し、砕かれ、そして本当に知ることになるのです。あぁ、私はただ神の愛とあわれみ、そして恵みによって、十字架によってのみ救われたのだ、救われるのだということを真実に知るのです。知っていくのです。砕かれ、悔い改めに導かれ、自分の価値観が変えられて行くことを通して、日々ますます正しく福音を知っていくのです。そうすることで人々に神のみことば、福音を正しく伝え、神の愛を正しく伝え、そして人々に良い影響力を与えることができるでしょう。それでこそ真の先生です。霊的リーダーです。
23章14節 異本に十四節として以下を加えるものもある。〔わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはやもめの家を食いつぶし、見栄のために長い祈りをしている。だから、おまえたちは人一倍ひどい罰を受けるのだ。〕
14節はもともとの本文にはなかったと思われるところです。ですので7回ある「わざわいだ」からは除外してあります。
そして2つ目の批判となりますが、それは「ユダヤ改宗者たちを得るために熱心に努力しても、彼らが教えている義ではゲヘナの子にしかなれない」というものです。
23章15節 わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは一人の改宗者を得るのに海と陸を巡り歩く。そして改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするのだ。
彼らは人々を改宗させようと「海と陸を巡り歩く」ほどに情熱にあふれ、その彼らの伝道に対する情熱と労苦は、他の追随を許さないほどでした。それは私たちも見習うべき点でしょう。「いいね!」を押したくなりますが、どうやらそう単純ではなさそうです。
当時、異邦人はユダヤ教に改宗すると、その人は熱狂的なユダヤ教徒になる傾向にあったようです。少し共感できますね。はじめ信仰に燃える傾向にあること。ですからなおのこと、正しい福音、正しい信仰を教える必要があります。
彼らは伝道には熱心でしたが、その教えが間違っていました。異邦人をユダヤ教に改宗させると、彼らに律法や割礼を強要し、ユダヤ人よりも熱心なユダヤ教徒にさせ、それによって改宗者を神の国からますます遠ざけ、滅びに至らせていました。なぜなら、彼らの教えを信じることでは天の御国に入れないのですから。さらに改宗者は信仰に燃えていますから、間違った教えをますます熱心に隣人に宣べ伝えて行ったのです。誤った教えを熱心に宣べ伝える者は、残念なことに、不熱心な者より何倍も悪いと言わざるを得ません。本当に残念なことです。
私たちも気をつけなければなりません。間違った福音を宣べ伝えてはいないだろうか。間違った福音を宣べ伝えさせてしまってはいないだろうか。もしそうであるとするなら、私たちはゲヘナの子、すなわち滅びの場所へ行くように定められてしまう者となり、また宣べ伝え信じた人をさらにゲヘナの子にしてしまうことになってしまいます。私たちの教えが本当に正しくないかぎり、ゲヘナの子の数を増やしてしまうだけです。神からの「いいね!」評価どころではなく、低評価の嵐です。私たちは熱心に伝道することはもちろん必要で、大前提ではありますが、そこに正しい教え、福音が伴っていなければなりません。ここでも絶えず聖書を読み、祈り、黙想する必要があること。これまでの自分の人生に重ねるようにして自分に適用し、天からの知恵と理解力、洞察力を聖霊を通して与えられ、真の福音を知り理解する必要があることを思わされます。
3つ目の批判は、「彼らの間違った律法解釈」についてです。
23章16節 わざわいだ、目の見えない案内人たち。おまえたちは言っている。『だれでも神殿にかけて誓うのであれば、何の義務もない。しかし、神殿の黄金にかけて誓うのであれば、果たす義務がある。』
3つ目の批判では、「わざわいだ、目の見えない案内人たち」と言われています。それはイエス様の批判が彼らの間違った律法解釈に対してであったからです。彼らの律法解釈、ここでは誓いに関する教えが取り上げられていますが、それは間違っているというものでした。彼らは「神殿にかけて誓うのであれば、何の義務もない。しかし、神殿の黄金にかけて誓うのであれば、果たす義務がある」と教えました。しかしこれは彼らが考え出した、誓いを果たせなかったときに言い逃れであり、聖書が教えていることではありませんでした。自分たちの都合の悪いことには目をつぶっていたのです。見て見ぬ振りをしていた。そのような律法解釈、神のみことば解釈は許されるのでしょうか。イエス様は厳しく批判しておられます。
23章17節 愚かで目の見えない者たち。黄金と、その黄金を聖なるものにする神殿と、どちらが重要なのか。
イエス様の指摘は単純明快です。神殿の黄金よりも神殿自体の方が重要であることは誰が考えても明らかでしょう。イエス様は常識でも分かることを曲げてまで言い逃れをする、勝手にみことばを間違って解釈をするのは明らかに誤りであり、罪であること。それゆえ、疑いの余地がないほどに、神のみこころに反した教えをする彼らは、盲目の先生であるとイエス様は決めつけておられます。
イエス様はもう一つの例をあげ、彼らの誤った理解を批判されました。
23章18節 また、おまえたちは言っている。『だれでも祭壇にかけて誓うのであれば、何の義務もない。しかし、祭壇の上のささげ物にかけて誓うのであれば、果たす義務がある。』
これも先のものと同様で、誰が聞いてもおかしなこと、常識でも分かることを曲げてまで言い逃れをする、勝手に、自分に都合の良いようにみことばを間違って解釈をするのは明らかに誤りであり、罪であるという指摘です。そしてイエス様は次のように問いかけられます。
23章19節 目の見えない者たち。ささげ物と、そのささげ物を聖なるものにする祭壇と、どちらが重要なのか。
どちらが重要だと思われますか。日本人である私たちであっても当然のように分かるのではないでしょうか。
23章20節 祭壇にかけて誓う者は、祭壇とその上にあるすべてのものにかけて誓っているのだ。
23章21節 また、神殿にかけて誓う者は、神殿とそこに住まわれる方にかけて誓っているのだ。
23章22節 天にかけて誓う者は、神の御座とそこに座しておられる方にかけて誓っているのだ。
イエス様はすでに5章のところで教えておられます。私の記録によると、2022年11月13日に取り上げられていました。「しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。天にかけて誓ってはいけません。そこは神の御座だからです」(マタ534)。
イエス様は「決して誓ってはいけません」と言われました。「あなたがたが誓ったことはすべて誠実に果たすべきである。最初から言い逃れができるように抜け道を考えて誓うようなことは一切してはならない」という意味で厳しく言われたのです。抜け道を考えるとは、つまりどういうことでしょうか。やはり律法を、みことばを、聖書を曲げて自分の都合の良いように解釈するということでしょう。律法学者、パリサイ人たちはそのような罪を犯し、さらに罪を重ねるようにして自分たちの教え、言い伝えを人々に教えていたのです。それも海と陸を巡り歩くほどに情熱にあふれて。みことばを間違って解釈し、それを海を越え、山を越えて教え広める。考えて見るとこれは非常に恐ろしいことではないでしょうか。まさに「わざわいだ」です。私たちの宣べ伝えている福音、神のみことばは純粋なものでしょうか。混じり物がないでしょうか。薄められていないでしょうか。間違っていないでしょうか。「そのままの君で良い」「ずっと今のままの君で良い」というのは、一見すると素晴らしい福音のように聞こえますが、それは本当に神のみことばでしょうか。
4つ目の批判は、律法学者とパリサイ人が律法で定められている10分の1を守ることで満足し、すべての律法の土台にある精神、神に対する愛と隣人に対する愛、また正義、あわれみ、誠実をおろそかにしていたことに対する批判です。
23章23節 わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはミント、イノンド、クミンの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ。
モーセの律法には、地の産物である穀物、果物、ぶどう酒、油などの10分の1を主にささげることが命じられています。律法学者たちはその範囲を超えて庭の薬草、言ってしまえば放っておいても繁茂する雑草であるミント(教会の花壇にもあり、なかなか厄介なもの)、イノンド(英語ではディルと呼ばれるハーブ。自生する植物)、クミン(香辛料として用いられますが、こちらも広い範囲で自生する植物)など、あまり重要でないものに至るまで、その10分の1を主に納めていました。これ自体に問題はありません。かえって見上げた心意気でしょう。しかし実際には、自分たちがいかに律法を重んじているかを周囲の人々に誇示するために行われていました。また神への献げものは痛みを覚えるくらいの犠牲をもって献げるものですが、彼らのある献げものはまるで余り物のような、あまり価値のないようなものの献げものでした。彼らは宗教的な行為があるだけで、その本質を見失っていたのです。彼らは敬虔を装っていたのですが、律法の中でもっと重要なものである神と隣人に対する正義やあわれみ、誠実をおろそかにし、罪人や取税人をあわれまず、やもめの家を食いつぶして、不正の利益を貪っていたのです。
イエス様は宗教的な行為を否定しているのではもちろんありません。人が得たものの中から10分の1を納めることはもちろん重要なのですが、それに神と隣人に対する正義とあわれみと誠実が伴っているかを問われたのです。律法のすべてを守ることは重要なのですが、神が律法を通して期待された正義とあわれみの心、誠実さ、また信仰が彼らの中には見られませんでした。
律法学者とパリサイ人に対してイエス様が投げかけられた警告は、私たちにも向けられています。うわべではなく、神が律法を通して私たちに期待しておられる神に対する誠実、信仰、隣人に対する正義とあわれみと誠実をもって、世に良い影響を及ぼして、インフルエンサーとなって福音を証ししなければなりません。それがイエス様が私たち教会に期待しておられることです。
23章24節 目の見えない案内人たち。ブヨはこして除くのに、らくだは飲み込んでいる。
イエス様は偽善を行う者たちの悪を指摘されました。その悪は「ブヨは除くのに、らくだを飲み込む」ような大きな悪でした。そのような大きな悪を行う彼らをイエス様は「目の見えない案内人だ」と厳しく言われます。「目の見えない」とは、見ることのできる能力を失ったことを意味します。そして「案内人」とは、指揮者、指導者、教師、先生という意味で用いられる語です。
「ブヨ」は非常に小さな虫で、ぶどう酒の中に入ることがあるので、ユダヤ人たちはぶどう酒をこしてブヨを取り除いていました。つまりイエス様は何を言いたいかと申しますと、律法学者、パリサイ人たちが非常に小さな点については厳格であるのに、重要な点をおろそかにしているということです。律法の細かな条項は守りながらも、最も重大な律法の精神に反しているということです。取るに足りないささいなことにこだわって、重要なことをおろそかにしている律法学者、パリサイ人の罪を、イエス様は見過ごしにすることができなかったのです。なぜなら彼らは「先生」だったからです。イエス様が決して見過ごしにはなさらないその悪に、私たちもよくよく注意しなければなりません。
本朝は律法学者とパリサイ人たちに対する7つの批判のうち、4つの批判を見てまいりました。彼らは霊の目の見えない者で、彼らの教師また指導者、先生としての罪はとても大きいものでした。イエス様は世の霊的リーダーが正しく立っていないことを深刻な問題として教えておられます。なぜなら、その間違った指導が、神が愛し、イエス様が愛する人々を永遠のいのちから遠ざけてしまいかねないからです。救いから遠ざけてしまいかねないからです。イエス様は律法学者とパリサイ人の罪を指摘しながら、彼らの行いの真実を明らかにし、弟子たちに警戒すべきことを教えられました。またこの後、彼らが受ける神のさばきがいかに大きいことかを告げ、同様の罪を悔い改めるように弟子たちに迫られます。
私たちは今日の律法学者、パリサイ人に対するイエス様の批判を他人事として考えずに、しっかりと受けとめ、この1週間心に留めつつ歩み、霊の目を開いていただき、イエス様が捨てるよう告げておられる罪が私たち自身の内にないかをよく省みたいと思います。そして次週、続けて語られる主のみことばに、へりくだって聞くものとして整えていただき、主のみこころを求めるものとされ、再び主の御前に集めていただきたいと思います。そこで幸いな悔い改めの実、献身の実を豊かに結ばせていただき、自らを神によって聖めていただき(欠けだらけの器である私たちを、神がご自身のものとして取り分けてくださる)、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物としていただきたいと思います。神に真実に仕え、用いられる者とならせていただきましょう。