2016年10月9日 主日礼拝「ヨシュア」
本日の聖書箇所
ヨシュア記1章
説教題
「ヨシュア」
今週の聖句
強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。
ヨシュア記1章9節
訳してみましょう。
1835 There are storms in the world today: storms of unbelief, materialism, secularism, moral degeneracy, and international difficulties, And there are storms in your life. (B.Graham)
(世界には嵐がある。不信仰の嵐、唯物論の嵐、世俗主義の嵐、道徳的堕落の嵐、国際的困難の嵐など。そしてあなたの人生にも嵐がある。)
説教題
1.モーセの死
祈りの中で申し上げましたように、ここ2〜3週間、御霊に満たされた生活についてお話ししてきました。ハワイに遣わされたダミアン宣教師、そして先日はステパノ、今日はヨシュアについてお話ししたいと思います。これからしばらくは、人物に光をあてていきたいと考えています。
まず、モーセの死について考えてみましょう。
出エジプトの際、イスラエルの民は成人男子だけで60万人いました。全体だとその4倍はいたのではないかと思います。長野県の人口は200万人ほどです。少なくともこのくらいの人たちの中で、たった二人を除いてすべて荒野で死んでしまいました。指導者であったモーセはどうだったでしょうか。モーセは約束の地カナンに入れませんでした。何故でしょうか。
モーセは、イスラエルの民の指導者として、自分も約束の地カナンに入りたかったのだと思います。モーセが神に懇願したことが記されています。
私は、そのとき、主に懇願して言った。
「神、主よ。あなたの偉大さと、あなたの力強い御手とを、あなたはこのしもべに示し始められました。あなたのわざ、あなたの力あるわざのようなことのできる神が、天、あるいは地にあるでしょうか。
どうか、私に、渡って行って、ヨルダンの向こうにある良い地、あの良い山地、およびレバノンを見させてください。」
しかし主は、あなたがたのために私を怒り、私の願いを聞き入れてくださらなかった。そして主は私に言われた。「もう十分だ。このことについては、もう二度とわたしに言ってはならない。
ピスガの頂に登って、目を上げて西、北、南、東を見よ。あなたのその目でよく見よ。あなたはこのヨルダンを渡ることができないからだ。」
(申命記3:23〜27)
モーセは約束の地に入りたいと懇願しました。しかし神さまはそれをお許しになりませんでした。何故でしょうか。神さまご自身ががその理由をおっしゃっています。
「エリコに面したモアブの地のこのアバリム高地のネボ山に登れ。わたしがイスラエル人に与えて所有させようとしているカナンの地を見よ。
あなたの兄弟アロンがホル山で死んでその民に加えられたように、あなたもこれから登るその山で死に、あなたの民に加えられよ。
あなたがたがツィンの荒野のメリバテ・カデシュの水のほとりで、イスラエル人の中で、わたしに対して不信の罪を犯し、わたしの神聖さをイスラエル人の中に現さなかったからである。
あなたは、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地を、はるかにながめることはできるが、その地へ入って行くことはできない。」
(申命記32:49〜52)
モーセの犯した罪というのは、神さまの神聖さを民の前で現さなかったことです。あの時、メリバテ・カデシュの水のほとりで、モーセは神さまの命令を聞き損なったのでしょうか?
主はモーセに告げて仰せられた。
「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。あなたは、彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に飲ませよ。」
そこでモーセは、主が彼に命じられたとおりに、主の前から杖を取った。
そしてモーセとアロンは岩の前に集会を召集して、彼らに言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」
モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、たくさんの水がわき出たので、会衆もその家畜も飲んだ。
しかし、主はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」
これがメリバの水、イスラエル人が主と争ったことによるもので、主がこれによってご自身を、聖なる者として示されたのである。
(民数記20:7〜13)
イスラエルの民が水がないと叫んだ時、主は水を与えるため、モーセに岩に「命じる」ようにいわれたことに対して、モーセは杖で2度岩を「打ち」ました。モーセは聞き間違えたのでしょうか。または、この時よりも以前の「経験」がそうさせたのかもしれません。
民はその所で水に渇いた。それで民はモーセにつぶやいて言った。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのですか。私や、子どもたちや、家畜を、渇きで死なせるためですか。」
そこでモーセは主に叫んで言った。「私はこの民をどうすればよいのでしょう。もう少しで私を石で打ち殺そうとしています。」
主はモーセに仰せられた。「民の前を通り、イスラエルの長老たちを幾人か連れ、あなたがナイルを打ったあの杖を手に取って出て行け。
さあ、わたしはあそこのホレブの岩の上で、あなたの前に立とう。あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう。」そこでモーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりにした。
(出エジプト17:3〜6)
この時は「岩を打つと、岩から水が出る。」と神さまは仰いました。ですからモーセは今回もそうなのだと早合点してしまいました。なのでモーセは持っていた杖で岩を二度叩いてしまいました。神さまはそれは罪だと仰いました。
ここで私たちが学ぶべきことは、私たちも聖書をしっかりと注意深く読んでいく必要があるということです。神さまの神聖さをないがしろにしてはなりません。それくらいいいじゃないですか、と私たちは言いたくなります。しかし神さまはお許しになりませんでした。ですから私たちは、心して神さまの仰るおことばに耳を傾けなければなりません。
聖書を読み進めていくと、
モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。
(申命記34:7)
そんなモーセですが、メリバの水の不従順によるただ一度の罪のために、ピスガの山の頂で約束の地を見渡すことができただけで、そこに入ることは許されませんでした。そこで人生を閉じることとなりました。先祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地を目の前にして、モーセは主のもとに呼び戻されて死にました。
約束の地を目指して荒野の旅を耐え抜いたモーセの人生は、決して不十分であったわけではありませんでした。また、未完了ではありませんでした。モーセはホレブの山で主に出会い、主の命令に従った時から、神さまがモーセの人生を完了させてくださいました。「約束の地には入れない。」との主の宣告を受けてからも、最後まで主に忠実に従って自分の任務を遂行しようとしました。荒野での40年間を、エノクのように主とともに歩み、そのまま地から天の御国に移されたという人生が、モーセにふさわしかったのだと思います。
私たちクリスチャンの人生も、主イエス・キリストを信じた時に、すでに私たちの人生を完了しているのです。
「私はこの地上で神の国を楽しみ、完了した人生を主とともに歩んでいく。私の働きが突然中途で終わったとしても、私の人生は完了しており、私は天にある神の国に移されるだけなのです。」モーセの死は、私たちの人生にもそのように意味を持たせてくれます。
私たちが主イエス・キリストを信じた瞬間に、私たちの人生は決定されます。
2.ヨシュアの任命
そのように、モーセが死に、ヨシュアの時代が来ます。
ヨシュア記1章1節には「さて、主のしもべモーセが死んで後…」と始まっています。まさに申命記の続きのようにヨシュア記が始まっています。
モーセの後、ヨシュアが指導者となりました。かなりの重圧があったと思います。ヨシュアは何歳くらいだったのでしょうか。エジプトを出たとき、ヨシュアは40歳でした。それから40年間荒野をさまよいましたので、この時は80歳くらいだったのでしょう。決して若くはありません。しかし、偉大な指導者モーセに対する重圧があったと思われます。本当にヨシュアが力ある指導者だったとしたら、「強くあれ、雄々しくあれ。恐れてはならない。」と何度も何度も繰り返し書かれなかったのではないかと思います。ここに指導者として立てられたヨシュアの不安のようなものが感じ取れるのではないでしょうか。イスラエルのリーダーとして、もちろん知恵に満たされていた人物ではありましたが、大変だったと思います。
主はモーセに仰せられた。「あなたは神の霊の宿っている人、ヌンの子ヨシュアを取り、あなたの手を彼の上に置け。
彼を祭司エルアザルと全会衆の前に立たせ、彼らの見ているところで彼を任命せよ。
あなたは、自分の権威を彼に分け与え、イスラエル人の全会衆を彼に聞き従わせよ。
彼は祭司エルアザルの前に立ち、エルアザルは彼のために主の前でウリムによるさばきを求めなければならない。ヨシュアと彼とともにいるイスラエルのすべての者、すなわち全会衆は、エルアザルの命令によって出、また、彼の命令によって、はいらなければならない。」
モーセは主が命じられたとおりに行なった。ヨシュアを取って、彼を祭司エルアザルと全会衆の前に立たせ、
自分の手を彼の上に置いて、主がモーセを通して告げられたとおりに彼を任命した。
(民数記27:18〜23)
ここでモーセがヨシュアにバトンタッチをしています。
ヨシュア記の1章2〜9節までには、主からヨシュアへの直接の任命が記されています。全般に神さまの約束と命令が語られています。そして後半にはヨシュアに対する個人的な励ましが語られています。約束の内容は、モーセとの契約の継続であり、神が語られた通り、「約束の地を与える」というものでした。また、励ましは、神がモーセとともにいたように、一生のあいだヨシュアとともにおられるという約束でした。「強くあれ。雄々しくあれ。」と何度も何度も繰り返し語られています。ヨシュアの内には、新たにリーダーになることに対しての恐れがあったのかもしれません。
ヨシュアはモーセに代わり、指導者となりました。次の箇所に、民の前に立つヨシュアの姿が描かれています。主から召しを受けたヨシュアは、リーダーとして民の前に立ちました。リーダーとして、最初の命令は、は約束の地への進軍の備えでした。これからヨルダンを渡り、エリコを攻めていくわけですが、そのために軍を進めて行く備えが必要でした。
3.民の前に立つヨシュア
そこで、ヨシュアは民のつかさたちに命じて言った。
「宿営の中を巡って、民に命じて、『糧食の準備をしなさい。三日のうちに、あなたがたはこのヨルダン川を渡って、あなたがたの神、主があなたがたに与えて所有させようとしておられる地を占領するために、進んで行こうとしているのだから。』と言いなさい。」
(ヨシュア1:10〜11)
まず、食料の準備が必要でした。今まで荒野では神さまが天からマナを降らせてくださっていましたが、ヨルダン川を渡ってから、その地の収穫物を食べた翌日からマナは与えられなくなりました。その地の産物から食料を調達しなければならなくなりました。食べ物は毎日のことですから、それが無くなるということは大変なことです。マナは降らなくなりました。食料は自分で調達しなければならなくなりました。そういう状況の中、ヨシュアは本当に大変だったと思います。今まではモーセに仕え、モーセの下で自分なりの力を発揮してくればよかったのです。しかしモーセは死んでしまい、モーセに代わり指導者となりました。約束の地の先住民族は進んだ文化を持ち、強大な民であり、城壁も堅固に囲われていました。ヨシュアが自分の使命の、歴史的、民族的意義の大きさに震えても不思議ではありません。それゆえ「強くあれ。雄々しくあれ。」と繰り返し語られているのです。
そのような中、何を信頼していたのかが問われます。
ヨシュアはモーセを信頼していたのか。それとも神を信頼していたのか。
ここで間違ってはいけないのは、ヨシュアはモーセの指導的体勢を後継しただけではなく、約束の地を継がせるという「主との契約を受け継ぐ者」とされたということです。アブラハム契約の祝福は、アブラハム、イサク、イスラエルの12部族へと受け継がれていき、モーセ、そしてヨシュアへと継承されてきました。その背景にあって主は契約に対して忠実なお方でした。ヨシュアの使命は主に信頼し、主がアブラハムに与えると約束された地を民に継がせることでした。
強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。
(ヨシュア1:6)
神さまはヨシュアに、土地はイスラエルに与えられている、あなたとともにいる、あなたを見捨てない、と保証されました。主の目には、それらすべては成就されたことです。それゆえに「強くあれ。雄々しくあれ。」と励まされます。ヨシュアは主と主の約束を信頼しました。
神さまにとって、すべては現在です。
ヨシュアにとってはこれから軍を整え、ヨルダン川を渡り、最初の町、堅固な城壁に囲まれているエリコに攻め入らなければなりませんでした。それを前にして、ヨシュアは恐れていました。しかし神さまはすべて現在のこととして分かっていました。すでにヨシュアによるエリコの町に対する勝利は分かっていました。
このことを私たちはいつも覚えておくべきでしょう。私たちにとってはまだ将来のことですが、神さまにとってはいつも現在のこととして見ておられます。神さまはすべてお見通しなのです。私たちには分からないけれど、神さまは分かっておられます。
しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――
キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。
(エペソ2:4〜6)
いつも申し上げますように、私たちは神さまの目から見て、すでによみがえらされ、ともに天の所にすわらせられた者とされています。
私たちにとってはまだまだ先の事ですが、神さまはすでにそれを知っておられます。だから過度な心配は必要ないのです。神さまがそう決めてくださっており、すべてのことを益に変えてくださる神さまがそこにおられ、その神さまに委ねていく時に、私たちは勝利を得ることができます。
ヨシュアは民を励ましました。そして軍を進めました。
彼らはヨシュアに答えて言った。「あなたが私たちに命じたことは、何でも行ないます。また、あなたが遣わす所、どこへでもまいります。
私たちは、モーセに聞き従ったように、あなたに聞き従います。ただ、あなたの神、主が、モーセとともにおられたように、あなたとともにおられますように。
あなたの命令に逆らい、あなたが私たちに命じるどんなことばにも聞き従わない者があれば、その者は殺されなければなりません。ただ強く、雄々しくあってください。
(ヨシュア1:16〜18)
ここでは民の応答が記されています。民は3つのことを約束しています。何でも行う。どこへでも行く。聞き従う。そして、最後にヨシュアを励ましています。安心して民を導くように励ましています。
ヨシュアは弱気になっていました。しかし、主が励ましてくださいました。
強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。
(ヨシュア1:9)
皆さんの生涯の中で、大黒柱や経済的な基盤などを失った時、大変な恐れや不安が生じるのではないでしょうか。その時、私たちが何を信頼して来たかが明らかになります。問われるのです。
この地上で何を失ったとしても、神の国を継承していく。主が共におられる。何も心配することはない。わたしがあなたとともにいるのだ。今まであなたの信頼はどこにあったのか。わたしがあなたとともにいるのだ。だから、雄々しく、強くあって良いのだ。そう私たちに語りかけてくださる神さまを私たちは信じているのです。
さらにヨシュア記を読み進めてまいりますと、様々なことがあり、偶像との関わりが出てきます。イスラエルの民は懲りない人たちです。偶像を拝んでしまい、そして失敗してしまうのです。ヨシュア記の最後にはこのように記されています。
「もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える。」
(ヨシュア24:15)
これがヨシュア記の締めくくりです。いかにイスラエルの民が堕落していったかが分かります。
私たちも気をつけなければなりません。
今は良いかもしれません。しかし、何かの嵐が襲ってきた時、世界に吹く嵐、不信仰の嵐、唯物論の嵐、世俗主義の嵐、道徳的堕落の嵐、国際的困難の嵐など、私たちのそれぞれの人生の中に嵐が吹き付けるとき、その時、これまでの信仰生活の締めくくりが堕落であっては残念です。私たちは神さまの標準ではなく、この世に標準を合わせてしまうことがあります。それではいけません。この世の倫理観、道徳観は時代や民族によって変化してしまうようなものです。永遠に変わらないのは神さまのおことばです。私たちクリスチャンは、神さまのおことばが私たちの生きる基準です。「主がこう言われる」のです。
今は良いかもしれません。私は大丈夫、躓くことなどないとお思いかもしれません。しかしイエス様はおっしゃいました。
「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」
(Ⅰコリント10:12)