2016年12月25日 クリスマス礼拝「博士たちの礼拝」
本日の聖書箇所
マタイの福音書2章1〜12節
説教題
「博士たちの礼拝」
今週の聖句
あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
訳してみましょう
1854 Wise men today worship not only the child of Bethlehem, but also the Man of Calvary.
(今日の賢人たちは、ベツレヘムの子どもだけでなく、カルバリーのイエス様も礼拝します。)
1855 For the Christian, the dark sorrows of earth will one day be changed into the bright songs of heaven.
(クリスチャンにとって、地上の暗い悲しみは、ある日、天国の明るい歌へと変えられるだろう。)
説教メモ
1.めぐみはすべての人に
先週は、羊飼いたちの礼拝についてお話ししました。
本朝は博士たちの礼拝についてお話しを進めて参ります。
神さまの恵みは、まず最初に羊飼いたちに表されました。羊飼いは、当時ユダヤ社会から最も認められていなかった人たちです。色々な事情で仕方なく羊飼いをしていたという人がほとんどだったのではないでしょうか。彼らは住所不定であり、遊牧生活をし、主の日ごとの礼拝も守れませんでした。さらに貧しく、人々から忘れられていた人たちでした。その羊飼いたちに、まず初めに神さまはクリスマスの良き訪れを知らせたのです。
ルカの福音書は羊飼いに良きおとずれを告げられたことが記されておりますが、マタイの福音書には「東方の博士たち」のことが記されています。まず羊飼いたちに、次に東方の博士たちにと私たちは思うのですが、救い主が生まれたとの知らせは、羊飼いたちと「同時に」東方の博士たちにも知らせられたのではないかと思っています。東方の博士たちがやって来て、ヘロデ王に会い、
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」
(マタイ2:2)
律法学者や当時の宗教的指導者は、聖書のミカ書などに記されていますから、ユダヤのベツレヘムで生まれたということは知っていたはずです。しかし、ユダヤ人は誰一人としてベツレヘムに行って礼拝しようとは思っていませんでした。それなのに、遠くからわざわざやって来た東方の博士たちは何ヶ月もかけて、また贈り物などの準備を整えて礼拝にやって来ました。そのニュースを目の当たりにしながらも、ユダヤ人の指導者たちは何の反応も示していません。これは現代社会にも見られることではないでしょうか。多くの人たちはクリスマスを知っていますが、本当にクリスマスをお祝いしているのはごく一部の人たちでしょう。当時も現在も同じ事が言えるのです。
2.東方の博士たち
日本語では「博士たち」と訳されていますが、なぜ博士とつけられたのか私には分からないのです。ギリシャ語の本文を見ますと「マーゴイ(μάγοι)」となっており、聖書の中ではここにだけ使われている単語です。英語の聖書では「メイジャイ(Magi)」となっており、マーゴイから派生して出来た単語ではないかと思われます。他にも「Wise men(賢い人たち)」と訳されているものもあります。
彼らは何をしていた人たちでしょうか。彼らは異邦人でした。彼らは星の研究をしていました。そればかりでなく、星占いとか魔術的なこともやっていた人たちでした。「東方」というのは、昔、北イスラエルはアッシリヤに滅ぼされ、その後バビロンに滅ぼされ、70年にわたるバビロン捕囚というものがありました。その時、多くの優秀な人たちはバビロンに連れて行かれてしまいました。
ある日、星の研究をしていると普段は見られない明るい星を発見しました。古文書を開きそれを調べると、捕囚されてバビロンに住んでいたイスラエル人の末裔から聞いて知っていた「ユダヤに新しい王が生まれる」ということが今、起こったのだと分かりました。これはただ事ではない。そこから彼らは旅支度をし、贈り物を携えて旅に出ました。
彼らは星占いとか、魔術とか、色々な職業に携わっていましたが、社会的立場としては「領主」と言って良いのでしょうか。ある程度の経済力もあり、バビロンの王様に仕えていました。聖書には書かれていませんが、その王様に許しを得てエルサレムへと旅立つわけです。
彼らは星占い、夢占いなどをしていた異邦人でしたが、何か心から求めているものがあったのだろうと思います。それで明るい星を見て、行ってみようと思い立ちました。彼らは救い、真の神。そのようなことは把握できていなかったとは思いますが、何か変わったことが起こっているに違いないと、期待を持ってユダヤにやって来ました。王様の許可を得て、言うなれば王様の大使として遠い国からイスラエルにやって来ました。何ヶ月も旅をしました。そして、ヘロデ王に会いました。
ヘロデは東方の博士たちがもたらした知らせに驚き、また恐れました。ヘロデは自分以外の王の存在を知らされ色々と調べさせると、ベツレヘムに実際にそのことが起こるのだと古文書、預言書に書かれていることを知りました。それで博士たちにユダヤのベツレヘムだとうことを教え、言いました。
そして、こう言って彼らをベツレヘムに送った。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。
(マタイ2:8)
「私も行って礼拝する」と言ったヘロデの心は穏やかではありませんでした。自分の子どもでもない、まるで知らない人がユダヤの王になるというのですから。
博士たちは星に導かれ、ベツレヘムの幼子のもとを訪れ礼拝しました。すると、
それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。
(マタイ2:12)
博士たちはヘロデ王の元に返りませんでした。
その後、ヘロデは、博士たちにだまされたことがわかると、非常におこって、人をやって、ベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子をひとり残らず殺させた。その年令は博士たちから突き止めておいた時間から割り出したのである。
(マタイ2:16)
ここで、最初のクリスマスはいつだったのか、ということを考えたいと思います。
今年は2016年です。ですから最初のクリスマスは2016年前だと大雑把に言えばそうなります。しかしそこには微妙な狂いがあることを、私は再三申し上げてきました。ヘロデは「2歳以下」の男の子を殺させました。2歳というのは、博士たちがつきとめた時間から割り出したものでした。
歴史的な事実として、ヘロデ王は紀元前4年に死にました。ここですでに4年のずれがあります。2歳以下の男の子を殺せとの命令を出してすぐに死んだとしても4年のずれです。命令の後ヘロデ王が何年生きたのかは分かりません。しかし、博士たちから星の出た時間から計算して、ヘロデは2歳以下の男の子を殺せば大丈夫だと思いました。
ところで、博士たちがみた星。新改訳聖書のチェーン式を見ると、博士たちが見た星とは、前7年に起こった木星と土星の大接近かも知れない。すろち、イエスの誕生は前7年ごろとなる(イエスの誕生は、ヘロデ大王が死んだ前4年前でなければならない)と書かれています。
木星と土星が重なるのは、794年の周期で重なるのだそうです。
これらのことから、イエス様がお生まれになったのは、紀元前7年頃だということになります。
羊飼いたちはユダヤ人の底辺の存在。
東方の博士は異邦人の代表。
その二組がイエス様を礼拝しに来ました。
神さまのみ思いである、すべての人が悔い改めることを望んでおられるというその聖書のおことばが、このように実現していったのだと思います。
ベツレヘムに行き、博士たちは3つの贈り物をささげました。黄金、乳香、没薬です。「三人の博士」これは贈り物が3つあったことから、人間の浅はかな考えによって生み出された人数です。3人だと断定することはできません。
そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。
それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。
(マタイ2:11〜12)
「家にはいって」という表現があります。家畜小屋でイエス様を生んだマリヤとヨセフは、どこか家を借りて1〜2年ベツレヘムにとどまって住んでいたようです。その家に博士たちが訪ねたことが分かります。
3.喜びの陰に
メシヤ誕生の知らせが、東方の博士たちによってヘロデ王に知らされてしまいました。決してそこに悪意はありませんでした。しかしそれによって、まるで関係のない2歳以下の男の子が殺されるという惨劇となりました。なぜこんなむごいことが起こるのか。確かにヘロデ王は死にました。しかし惨劇によって傷ついた親たちの心の傷は決して癒されることはなかったでしょう。神さまはなぜ、ヘロデ王に知らせてはならないと東方の博士たちに知らせなかったのでしょうか。なぜ、なぜ・・・。
今を生きている人たちも「なぜ」という疑問の中に生きております。そして教会には様々な「なぜ」という悩み、色々な問題を抱える人たちが多く来ます。教会には様々な信仰歴を持つ方々が集っています。そのような方が、もし教会に新しく来た人、あるいは信仰歴の浅い人を自分たちの信仰のはかりによって裁いてしまうとしたら、それは間違ったことです。実際に裁いてしまうものです。
様々な問題を抱えて教会を訪れる人。自分のことをうまく言い表せない人もいます。またとても誠実で繊細な方が多いことも事実です。教会はそのような人たちとどのように接していくべきでしょうか。誠実な人たちが教会で傷つけられてはいけません。いわゆる先輩であるクリスチャンが自分の信仰のはかりで他人を裁いてはいけないのです。精神的にタフな人だけが教会に残れるのだという、そのようなことになってはいけません。初めての教会の敷居がとても高く感じることは、皆さんもご存知でしょう。教会には色々な人が礼拝に訪れます。すべての人々が心から礼拝をささげられるように、私たちは互いに愛を持って受け入れ、配慮していかなくてはなりません。そしてそれぞれ霊的に成長していきたいものです。
クリスマスには世の中にも、教会にも喜びが満ちています。その喜びの陰に、苦しんでおられる方々がいます。戦争、テロ、災害、飢餓、復興の途上、悩み、苦しみ・・・。そのようなことのまっただ中におられる方々にも思いを向けたいと思います。