2018年7月15日 主日礼拝「死人のよみがえり」

本日の聖書箇所

コリント人への手紙第一15章1〜28節

説教題

「死人のよみがえり」

今週の聖句

しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

 
 
訳してみましょう。
2003 Christ died for our sins to deliver us from our sins.
(キリストは私たちの罪から私たちを開放するために、私たちの罪の為に死なれた。)
2004 What we weave in time we will wear in eternity.
(私たちは時間の中で織り、永遠に身に着けるでしょう。)
《今をどう過ごすかによって、永遠が決まる。》
 
 

説教メモ

いきなりですが質問します。
皆さんは、死ぬのが怖いですか。ある兄弟はとても正直な方です。怖いと仰る。そして皆さんの正直な気持ちとしてどうでしょうか。
「あなたは死ぬ準備は出来ていますか」と問われたなら、皆さんはどうお答えになるでしょう。今日のメッセージが終わった頃には、死の準備が少しでも出来るようになっていれば良いと思います。
 

1.福音とは?

死に対しては、誰しもが恐れを感じていると思います。人は永遠に生きられず、いつか必ず死ぬことは全ての人が知っていることです。ある時が来れば、老衰や病気、事故などで人は死んでしまいます。生きている人間にとって一番関係の深いものが「死」です。生きていれば死ぬ。「生きる」に対して「死ぬ」。人間のあらゆる悲惨な出来事の原因も、元を正せば「死」他なりません。人間にとって死ほど平等なものはありません。誰もが死ぬからです。金持ちが長生きするわけではないし、教養がある人が長生きするわけでもありません。社会的地位も、年齢も、何も関係ありません。人は生まれた瞬間から死に向かって歩き出していると言えます。
どんなに愛する人とでも、いつか死別しなければなりません。人間は昔から不老長寿、その方法を懸命に探してきました。「死」と「生」は表裏一体のもの。人はみな、死を背負って生きているのです。
人は不慮の事故、災害、老後のためには色々な備えをします。生命保険に入ったりします。自分の為に、また残された人のために。そのような備えはしても、「死ぬため」の備えは案外としていないのが、この世の人々ではないでしょうか。
いくら死の備えをしても、死を免れることはできません。人間が死に直面するとき、大抵は絶望のどん底に陥ります。「世の財力も、権力も、知識も、墓場の先までは責任を負ってくれない」。ある墓場には「ここに入る人は希望を捨てなさい。」という看板が立てられているそうです。死は人間の敵です。私たちが対抗することの出来ない相手です。一体、死に対する解決はあるのでしょうか。感謝なことに、聖書の中にその答えがあるのです。
キリストを信じて罪赦された者は、たとえ死んでも生きるのです。私たちの教会のお墓には「わたしはよみがえりです。いのちです。」と刻まれています。ラザロに対してイエス様が言われたおことばです。

イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
(ヨハネ11:25〜26)

 
 

2.死者の復活

神さまのおことばである聖書によれば、クリスチャンにとって死とは天国への入口であります。それは決して広い道ではなく狭い道ではあるけれども、キリストを信じる者は天の御国に入れるのです。
私たちクリスチャンは、たとえ死んでも復活することが約束されています。死を見ずに天国に行ける可能性もあります。

主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
(Ⅰテサロニケ4:16〜17)

主の再臨の時です。主がふたたびこの世に来られるとき、すでに死んだ者たちを連れて来られると仰っています。しかし私たちがその時まだ地上で生きており、キリストを信じる信仰があるならば、その人は「空中携挙」、死を経験することなく生きたまま空中に引き上げられ、そこで主とお会いするのです。私たちが生きている間に主が再臨されるなら、私たちは栄光の姿に変えられ、死なずして天の御国に入ることができます。栄光のからだに変えられることについては、次週に見てまいりたいと思っています。
パウロはこのことをコリントへの手紙第一の書簡で言っています。
 
 

3.復活の初穂

本日の聖書箇所であるコリント人への手紙第一15章では、「福音とは何か」ということが書かれています。そこからパウロはキリストの復活へと結びつけようとしています。15章の初めにあるとり、これらのことはパウロが言っているのではなく、聖書が言っていることです。パウロが初めて「福音とは何か」を言ったのではなく、聖書がこのように言っているということです。コリント人への手紙第一15章1〜8節が、パウロが受けた福音です。

  • キリストが私たちのために死なれた
  • 埋葬された
  • 3日目の朝によみがえられた
  • 弟子たちに現れてくださった

「聖書が示すとおり」とパウロは言っていますが、この言葉がキーポイントになります。パウロ自身が言っているのではない、聖書が言っているのだと、パウロは聖書の権威を認めています。
キリストが十字架で死んだと言うことは、世界中の教科書にも載せられている歴史上の事実です。しかし、「キリストが3日目に、私のためによみがえられた」と信じる人だけが救われます。キリストが十字架で死なれたのは私の罪の身代わりとなり、キリストご自身をささげてくださったのだと信じる人だけが救われるのです。それを信じている人がクリスチャンと呼ばれます。
今朝の世の光ラジオでは、ある姉妹がヨハネの福音書3章16節からお証しをされていました。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネ3:16)

その方はこのみことばによって変えられました。はっきりと福音に触れて、そこで救われました。それまでは不倫の関係にあったそうです。そこで聖書に触れるまでは不倫を罪であるとは思っていなかったけれども、その罪をはっきりと示され、心から悔い改め、イエス・キリストを信じ救われました。どんな人でも、私の罪の為にイエス・キリストは十字架で死なれたのだと信じるならば、その人は救われます。イエス様が憐れみによって罪を帳消しにしてくださり、信じた者をご自分の子として受け入れてくださいます。
キリストが死なれたのは私たちの罪のため。そして死んで葬られ、葬られたということは完全に死んだということですが、葬られ、そして聖書に従って3日目によみがえられたのは「初穂」となるためでした。
キリストの復活は、キリストが神ご自身であることの証明となりました。そして十字架のみわざが神さまに受け入れられることの確証となりました。キリストが私たちのために父なる神さまに執り成しをしてくださる「仲保者」となられました。そして私たちクリスチャンの復活の保証となりました。
キリストは弟子たちに現れてくださいました。まずケパ(ペテロ)に。一度だけ現れたのではありません。続いて他の使徒たちの前にも現れてくださいました。そしてただ一人二人の者だけでなく、500人以上の者たちの前に現れてくださり、パウロがコリントへの書簡を書いた時、まだ生きている者も何人かいました。その後、「主の兄弟ヤコブ」にも現れてくださいました。最後にパウロは自分自身にダマスコへの途上で現れてくださったっことを言っています。パウロは自分のことを「月足らずで生まれた者」「使徒の中では最も小さい者」「使徒と呼ばれる価値のない者」と自己卑下して言っていますが、これは他の使徒たち、イエス様と3年半寝食を共にしてきた彼らと比べて、遅ればせながら使徒とされたことを言い表しているものと思われます。また自分がかつてはキリストの教会を迫害していた者であったことにもよります。そのような前歴がありながらも、パウロは使徒として召され、復活の証人として用いられていきました。このことについてパウロは、どれほど感謝して良いのか分からないほどに感謝していました。

ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。
(Ⅰコリント15:10)

パウロは自分の働きを誇っているのではなく、ただ神の恵み、他の使徒たちよりも多く働くことの出来た恵みを感謝しています。自らを少しも誇ろうとしない、「それは私ではなく、私にある神の恵みだ」と言っています。パウロはそのことを片時も忘れていませんでした。すべての栄光は神さまのものであります。
ついで12〜19節には、「復活の否定」という主題が付けられるのではないでしょうか。

ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。
(Ⅰコリント15:12)

当時のコリントの教会では、哲学者が多く住んでおり、霊魂の不滅が広く信じられていました。しかし死んだ者がよみがえるということは、彼らにはどうしても受け入れられるものではありませんでした。パウロは死者は復活することを主張しました。死者が復活しなければキリストも復活されなかっただろう。キリストが復活されなかったらどういうことになるであろうかと綴って行き、私たちの宣教、そしてあなたがたの信仰も実質のないものになると言っています。

それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしもかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。
もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。
そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。
(Ⅰコリント15:15〜17)

キリストの十字架は私たちの罪の身代わりのためでした。死ぬべき私たちに代わってイエス様が十字架で罪を負い、死んでくださいました。もしキリストが復活されなかったとしたら罪の解決はなく、私たちは今もなお罪の中にいることになります。

そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。
もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。
(Ⅰコリント15:18〜19)

私たちは単なる希望ではなく、キリストが死んで3日目によみがえられたという確証のもとに、私たちもまたよみがえらされるのだという希望を持てるのです。
 
ここで気をつけていただきたいのは、「イエスの復活」ではなく、パウロの言う「キリストの復活」なのだということです。その違いがお分かりでしょうか。「イエス」というのは、私たちに与えられた個人名と同じです。「キリスト」というのは、「油注がれた者」という意味であり、また「救い主」という意味です。私たちは祈りにおいて、「救い」ということを強調するならば「キリストの名によって」と祈るべきでしょう。救い主キリストの復活であり、人間イエスの復活ではないのです。パウロはここで、キリストの復活を宣べ伝えているのです。
コリント一般の人々は死者の復活はないと言っていました。しかしそうではない、キリストは死者の中から復活したのだから、そこに意味があるのだとパウロは言いました。
12〜19節までは復活の否定に対するパウロの反論です。イエスの復活ではなくキリストの復活という表現が使われています。キリストが復活されなかったならば、パウロが、また私たちが宣べ伝えていることは実質のないものとなってしまう。偽証していることになってしまう。また死者の復活がなかったなら、クリスチャンは今なお罪の中にいる。さらにキリストが復活されなかったのならば、クリスチャンとして死んだ人たちは滅んでしまったということになる。世に生きているクリスチャンはすべての人たちの中で一番哀れな者である。単なる希望を置いているだけならばわたしたちは一番哀れなものです。
このようにしてパウロはキリストは復活されたのだ。私たちの信仰の基本はキリストの復活という事実の上に立っているのだということ。パウロはここで「初穂」と言っています。

しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
(Ⅰコリント15:20)

農業をやっていると、麦や稲が初穂を出すということはとても嬉しいことなのです。初穂が出るとそれに続いてどんどん穂が出て来ることの約束となります。私たちも復活の希望を単なる希望だけで抱くのではなく、キリストが実際に初穂としてよみがえってくださったという信仰の原点がそこにあります。まぎれもない事実がそこにあります。世の人々はキリストの十字架は歴史的事実として信じているかもしれません。しかしキリストの復活は信じていません。キリストの復活を信じることはクリスチャンの特権でもあります。紛れもなくキリストは3日目によみがえられた。そこに私たちの確かな希望があります。そしてキリストは初穂としてよみがえられたのだから、私たちもそれに続いてよみがえらされるのだという約束があります。そのことを信じている人は幸いだと思います。冒頭にも申しましたが、まだ私たちがこの世に生きている間にキリストが再臨されたならば、私たちは棺桶に入れられて焼かれることなく天国へ行くことができます。私たちは一日も早く再臨してくださることを祈り、信じて待っています。しかしなかなか来られません。その一方において、まだ天国には行きたくない、この世に対する未練があるという思いもあるでしょう。それぞれにそれぞれの思いがあるので何とも言えませんが、神さまが定めてくださっているその時があり、それがいつであるのかは分からないのですから、そのことを受け入れて、聖書の約束を信じてまいりましょう。

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