2026年3月29日 主日礼拝「まことの愛はイエス・キリストのうちに」

前  奏  黙祷
賛  美  新聖歌113「君もそこにいたのか」
      新聖歌108「丘に立てる荒削りの」
招  詞  イザヤ書53章11節
讃  美  讃美歌121「馬槽のなかに」
使徒信条  讃美歌566「我は天地の造り主」
主の祈り  讃美歌564「天にまします」
祈  祷  
交読文   イザヤ書53章(新聖歌 交読⽂50)
讃  美  讃美歌134「いざいざきたりて」
聖書朗読  ヨハネの福音書18章28節〜19章40節
説  教  「まことの愛はイエス・キリストのうちに」
讃  美  讃美歌136「血しおしたたる」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告  
今週の聖句 イザヤ書53章5節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

ヨハネの福音書18章28節〜19章40節

説教題

「まことの愛はイエス・キリストのうちに」

今週の聖句

しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。

イザヤ書53章5節

説教「まことの愛はイエス・キリストのうちに」

ヨハネの福音書18章28節〜19章40節

はじめに

私たちには生きていると、「どうしてこんなことに。どうしてこんな目に遭わなければならないのか」と問いたくなることがあります。

私たちは今週、イエス・キリストがこの地上で歩まれた最後の1週間「受難週」を過ごします。私は先々週、毎週欠かさず見ているテレビのドラマを見た話をしましたが、ついに先週、最終回を迎えました。人生の中に理解できないような色々なことがあったけれども、全部今に繋がっているんだ、という心温まる最終回でした。そして先週は受難週を迎えるにあたり、ある映画を見ました。それは「パッション」という映画です。原題は英語で「キリストの受難」という意味です。2004年に公開されたアメリカの作品で、何年も前にT兄がこの教会でも上映会をしてくださった映画です。この映画は、イエス・キリストが愛の教えと癒やし(しるし)により、周囲から尊敬されながら生活していた状況から一転、裏切られ、処刑されるまでの12時間に何が起きたのかが、およそ2時間にわたって描かれています。そして最後の1分間だけ、イエス・キリストの復活が描かれている。他はすべてイエス・キリストの受難が描かれている。見た人の中に、あまりにもむごくて衝撃的な映像の連続に心臓発作を起こして倒れてしまった人がいたとか。そのような作品です。そのベースとなっているのは、おもにヨハネの福音書18〜19章です。ですから今日の箇所は、イエス様のこの地上での生涯の最後の12時間のところです。そしてそれは受難でした。

映画の中の台詞はすべてヘブル語(アラム語)とラテン語となっており、ストーリーはもちろんのこと、日本語に翻訳された台詞も聖書のみことばに忠実に訳されているように思いました。最後の1分間の他は、最初から最後まで「どうしてこんなことに。どうしてこの方がこのような目に遭わなければならないのか」という思いに駆られる、本当にむごくて、悲惨で、目を覆いたくなるほどのイエス・キリストの受難の映像が流れます。確かに映画です。脚色もされているかもしれません。しかし、この映画の監督(メル・ギブソン)は、イエス・キリストの最後を客観的に描こうとしたものではなく、イエス・キリストの生涯とメッセージによって人生が変えられたひとりの信者として制作したのだと、ご本人が語っていました。そして聖書と聖書研究(原語や当時の時代背景など)に基づいて、「極めて忠実に」「リアル」を求めて制作したそうです。無理矢理に見る人の感情を揺さぶろうとしたのではなく、事実を忠実に描いたのです。ですから、目を覆いたくなるほどのむごいシーンは、実際のものとそうかけ離れたものではないのでしょう。映像です。イエス・キリストを迫害する登場人物の表情が見られるのです。声色が分かるのです。それはそれは恐ろしいものでした。ゾッとしました。本当にここまでできるのだろうかと。

「どうしてこんなことに。どうしてこの方がこのような目に遭わなければならないのか」。イエス・キリストの受難を記録する4つの福音書を忠実に描く、2時間の映画の中のむごくて悲惨なシーンの連続に、常に「どうして、どうして」と、まさに自分の胸を叩き続け、問い続けながら見た映画でした。しかしその答えははっきりしているのです。「まことに、彼(イエス・キリスト)は私たちの病(罪)を負い、私たちの痛み(悲しみ)を担った。…彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。…主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた」(イザ534-6)。「この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです」(コロ114)。どうして? そうです。私の罪のため。私を愛し、私を救うため。あなたの罪のため。あなたを愛し、あなたを救うためです。

「あなたがたは誰を捜しているのか。わたしがそれだ」

私が神学校の3年生の時、受難週にあたる早天祈祷会でこのような経験をしました。その朝、なぜかピラトという人物に自分が重なるというリアルな感覚に襲われました。また「十字架につけろ!」と叫ぶ群衆の中に、なぜか私がいるというリアルな感覚に襲われました。朝早くて寝ぼけていたわけではなかったと思います。私は他の神学生がいる中で、どうしても悲しみと悔い改めの涙が止まりませんでした。あの朝、私はイエス・キリストに出会ったのだと思います。

先週、私たちはヨハネの福音書18章のところで「あなたがたは誰を捜しているのか」と言われた主のみことばに聞きました。「あなたがたは誰を捜しているのか」。その声を聞いたのは、イエス・キリストを捕らえに来た人たち。またその場にいたイエス・キリストの弟子たち。さらには福音書の読者である私たち。私たちはみことばを通して「あなたがたは誰を捜しているのか。わたしがそれだ」との主の御声を聞き、そして「私の主、私の神よ」と信仰によって応答し、それぞれがイエス・キリストと実際に出会われた経験をされたことと思います。

そして今日の箇所にも多くの人物が登場します。その一人ひとりにご自分を重ねることはできないかもしれません。あの人が私だと思えないかもしれませんが、「君もそこにいたのか」と先ほど賛美しましたが、「私もそこにいたのだ」という信仰と従順、へりくだりによって今朝もまた、イエス・キリストと実際に出会われるという経験となれば幸いと思います。よみがえられ、今も生きておられる主は、私たちの礼拝を通して、私たちが「私の主、私の神よ」と信仰によって求めるならば、実際にお一人おひとりに出会ってくださいます。

ユダヤの宗教的指導者たち

18章28節のところで、まずは総督ピラトにイエス様を引き渡した祭司長たち、民の長老たち、律法学者たちが登場します。ユダヤの宗教指導者たちはピラトの官邸の中には入りませんでした。異邦人の居住地に入ると汚れたことになってしまい、そうすると、過ぎ越しの食事を食べることができなくなってしまうからです。彼らには偽善的な信仰が見られます。神の御子イエス・キリストを殺そうと、亡き者にしようとしておきながら、宗教的な儀式を守ろうとしたのです。

そして彼らは異邦人のピラトの手でイエス様を死刑にしたかった。彼らがずっと信じてきた聖書の預言のとおりに「ユダヤ人の王」として来られたイエス様を、自分の手を汚さずにこの世から葬り去ろう、抹殺しようとしたのです。彼らは神がこの世に遣わされた神の御子、イエス様を妬み、憎んでいました。ついにイエス様を捕らえ、縛り、そして大祭司たちのうちのある者たちは、イエス様に唾をかけ、顔に目隠しをして拳で殴りました。今まで自分たちに様々な利益をもたらした民の心が自分たちから離れ、イエス様のもとに行ってしまい、そのためにこの世における自分たちの権威や利益を失うことを恐れ、なりふり構わず「十字架につけろ、十字架につけろ」、それはつまり、「彼を信じるな、信じるな」でしょうか。そう叫びました。

また、エルサレムには過ぎ越しの祭りのために世界各地から集まって来ていた多くの群衆がいました。彼らは救い主を求めていました。と言いましても、彼らのうちの多くは政治的な救い主を求めていたのですが、そうだとしても、やはりすべての人は奥深いところで霊的な飢え渇きを覚え、神を求め、まことの救いを求めているものでしょう。ユダヤの宗教指導者たちはそのような群衆を扇動し、まことの救い主であるイエス・キリストを「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫ばせました。ついには、神の民の祭司長たちは「カエサルのほかには、私たちに王はありません」とまで言いました。彼らは自分の利益を守るために、思わずだったのか、意図的だったのか、神を信じる者として越えてはならない一線を越える言葉を放ってしまったのです。神の民の宗教指導者たちが妬みと欲望にとらわれ、なんと自分たちを支配し、自分を神とする異邦人の皇帝を「我らの王」と告白したのです。神よりもこの世の王を崇めた。選んだ。祭司長たちはイエス・キリストを神の御子、待ち望んでいた救い主だとは信じられずに、それどころか自分たちが望む素晴らしい体験や利益を奪おうとする救い主を憎み、亡き者にしたいと思うあまり、神を裏切り、自分たちが軽蔑し大嫌いな異邦人(神を知らない人々、偶像を拝む人々、神の民を迫害する人々)と同じことをしてしまいました。

ピラト

次に総督ピラトです。彼は異邦人です。彼はイエス様に「あなたはユダヤ人の王なのか」と質問しました。しかしこれはただユダヤ人の質問であって、自分の質問ではないと言いました。また彼は「真理とは何なのか」と尋ねました。これは彼が真理を知りたいと思っているような言葉ですが、その行動を見るとそうではないことが分かります。彼は真理やイエス・キリストに興味はありませんでした。彼の統治方法は力によるものでした。ですから万物の王であられるイエス・キリストを目の前にしながらも、その方が真の王、真の救い主であることを知ることが出来ませんでした。なぜならイエス・キリストは同胞に捕らえられ、縛られ、侮辱され、鞭打たれ痛めつけられ、見るからに力のない姿だったからです。ピラトはそのような姿のイエス様を神の民ユダヤ人の群衆の前に連れ出し、「この人を見よ、おまえたちの王だ」と言いました。神の民ユダヤ人を馬鹿にし嘲る言葉です。「このような者が、おまえたちの王なのか」。

イエス様はピラトのほとんどの質問に対して沈黙されました。何も答えないイエス様にピラトは苛立ち、自分のこの世の力を誇示しました。権威を振りかざしました。「何も答えないのか。私には権威があるのだ」。

私たちも同じようなことをしてしまいます。祈りや求めに何もお答えにならず沈黙を守られる主に対して、「あなたは私を愛しているのでしょう。私を助ける責任があるのではないですか」と。これは脅しです。神の約束を信じ、それに依り頼んで祈るのとは違います。神の約束を信じ、神の愛に依り頼んで諦めずに祈ることを主は私たちに求めておられます。しかしまるで主を脅迫するようにして責めてしまうことはないでしょうか。

ピラトはイエス様に何の罪もないことは分かっていました。分かっていながらも、囲いの外から聞こえて来る群衆の声に敏感に反応し、人々の脅しに似た言葉に揺るがされ、圧力に屈して、取り返しのつかない罪を犯してしまいました。その結果、イエス・キリストを死に至らしめた責任者として世界中に永遠に名を残すことになってしまったのです。私たちは外から聞こえて来る声、また逃げ場のない非常に苦しい立場や絶体絶命の危機的状況の中での選択の分かれ道で、イエス・キリストを裏切り、ピラトのように世の歴史に悪名を残すのではなく、イエス・キリストを絶対的に信じて神の国に名前が記される選択をしなければなりません。

しかし全能なる主は、ピラトのような主を恐れない罪人さえも用いられ、ご自身の栄光をあらわされます。ピラトは奇しくも神の民に「この人を見よ」と促しました。イエス・キリストがつけられた十字架に罪状書きを掲げました。「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」。それは真理でした。「私の主、私の神よ」と告白し、真の救いを求める者は、そこに真理を見出すのです。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」(ヨハ146)。

兵士たち

兵士たちが登場します。兵士たちはイエス・キリストをむちで激しく打ちました。イエス様が彼らに何をしたというのでしょうか。何か彼らに不利益を被らせたでしょうか。それなのに、兵士たちはイエス・キリストを激しくむちで打ちました。当時のむちには、革の紐に鉄の棒や骨片がついていました。犯罪人を台に縛って固定し、動いたり逃げられないようにして鞭で打ちました。打たれた人は肉が引き裂かれ、息をするたびに激しい痛みと苦しみに耐えなければならないほどでした。イエス・キリストに何も不利益を被らされたわけでもないのに、兵士たちはそれを楽しむようにイエス・キリストを激しくむちで打ち叩き続けました。映画パッションでは、顔に返り血を浴びながらも、それでもやめずに、躊躇もせずに、笑さえ浮かびながら打ち続けました。本当に残忍な姿、そして恐ろしい表情。

兵士たちはむち打たれ、死に瀕しているイエス・キリストに茨で編んだ冠を頭にかぶらせ、紫色の衣(マント)を着せ、手には葦の棒を持たせました。これは王の真似ごとをイエス様にさせたというものです。馬鹿にして、侮辱したのです。さらに彼らは「ユダヤ人の王様、万歳」と言って、抵抗する力がイエス様にはないことを知りながら、顔を平手で叩いてからかいました。唾をかけ、持たせていた葦の棒を取り上げて頭を叩きました。彼らはイエス様の体を痛めつけるばかりでなく、霊的にも、精神的にも激しく痛めつけたのです。その後、彼らは着せた紫色の衣を脱がせました。肉が裂け、血が噴き出していた皮膚は、血が渇き、衣に密着していたことでしょう。彼らは無残にもそれを引き剥がしたのです。激しい痛みです。また「衣を脱ぐ」という表現は、他の箇所では「いのちを捨てる」という意味で用いられています。イエス様は兵士たちに「いのち」を奪われたようなものです。

兵士たちはイエス様を十字架につけると、イエス様のその衣を取って4つに分け、1つずつ自分のものにしました。また彼らはイエス様の下着も取りました。ローマの法律によると、死刑執行をする者たちは、死刑囚の所持品を取って副収入にすることが許されていました。イエス様がご自分のいのちを差し出されるそのすぐ真下で、自分の欲望を満たそうとする兵士たちの姿。

そして兵士たちはイエス様をあざ笑い、イエス様にこの世の王にぶどう酒を差し出す行為を真似て酸いぶどう酒を与え、イエス様を侮辱しました。そして言いました。「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」(ルカ2336-37)と。

まさにイエス様はこの時、ご自分を救うことがおできになったにもかかわらず、肉体的にとことん痛めつけられ、また侮辱され、それを耐えられて、十字架を前にしてもご自身のいのちを捨てるという経験をなさったのです。それは誰のためだったのでしょうか。

群衆

この時、エルサレムには過ぎ越しの祭りのために世界各地から大勢の人たちが集まっていました。また、イエス様のしるしを見て、イエス様についてきた群衆もいました。彼らはつい先日、イエス様がエルサレムに入城された際に自分たちの上着を道に敷き、また木の枝を切って道に敷き、王として、救い主としてイエス・キリストを迎えました。「ホサナ、ホサナ」「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に」と叫び、イエス・キリストを喜んで迎え入れました。ところがそれからほんの数日後、彼らは「この人を見よ」と言われ、鞭打たれ、弱り果て、力のかけらも見られないイエス様の姿を見て、また宗教指導者たちに扇動され、同じ口をもって「除け、除け、十字架につけろ!」と叫びました。イエス・キリストの内に、自分たちが待ち望んでいた救い主の姿を見ることができなかったからです。「除け、除け、十字架につけろ!」

「この人を見よ」。せっかくこのように促されたのに。またせっかくイエス・キリストの頭上にヘブル語、ラテン語、ギリシア語、エルサレムにいたすべての人たちが読める字で「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」と書かれた看板が掲げられていたのに。そこに真理を見出すことができませんでした。

イエス・キリストの間近で「この人を見よ」と促された人がいました。イエス様の左右に十字架に付けられていた2人の犯罪人です。1人は「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言い、もう1人は「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください」と嘆願しました。この対照的な違いはどこから来るのでしょう。

アリマタヤのヨセフとニコデモ

19章28節    それから、イエスはすべてのことが完了したのを知ると、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。
19章29節    酸いぶどう酒がいっぱい入った器がそこに置いてあったので、兵士たちは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝に付けて、イエスの口もとに差し出した。
19章30節    イエスは酸いぶどう酒を受けると、「完了した」と言われた。そして、頭を垂れて霊をお渡しになった。

激しい迫害の後、ついにイエス・キリストは十字架の上で死なれました。その後で、アリマタヤのヨセフが登場します。彼がいつイエス様を信じたのかは明らかではありません。彼はイエス様がメシアであると信じていましたが、自分の信仰を隠していました。イエス様に敵対し、殺そうとしていたユダヤ人たちを恐れていたからです。

ニコデモという人も同じでした。彼もイエス様を信じていましたが、その信仰を完全に現すことができませんでした。なぜなら、彼は自分が築いた社会的な地位と名声を失いたくなかったからです。

この2人は、十字架につけられたイエス・キリストを見て生まれ変わり、人目を恐れず信仰を表す人になりました。

10人の弟子たち

今日の箇所にはイエス様の弟子たちのうち、自分の身を守るためにイエス様を3度「知らない」と言ったシモン・ペテロと、「愛する弟子」の他、弟子たちの姿はありません。姿はありませんが、重要な隠れた登場人物(隠れキャラ)です。10人の弟子たちはイエス様を見捨てて、散り散りに逃げてしまいました。

いのちまで惜しまない愛

イエス様は十字架の上で「わたしは渇く」と言われました。これはイエス様が十字架上で発せられた7つのことばのうち、5番目のことばです。

ローマの兵士たちにあれほどひどく鞭打たれ、また十字架につけられたイエス様は、多くの血を流され、ひどい脱水症状によって渇きを感じられたことでしょう。肉体的な渇きばかりではありません。ほとんどすべての人に裏切られ、見捨てられ、言葉でも態度でも行動でも侮辱され、嘲られ、ひどい仕打ちを受けられたイエス様。どれほどの霊的な渇き、魂の飢え渇きを覚えられたことでしょう。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」、そう大声で叫ばれた、それほどの霊的な渇きを覚えられたのでしょう。

「どうしてこんなことに。どうしてこの方がこのような目に遭わなければならないのか」。イエス様の地上での最後の12時間は、そのような最後でした。どうして。どうして。その答えは明らかです。今日のすべての登場人物のためです。そして「君もそこにいたのか」「私もそこにいたのだ」。すべての人のためです。それは私の罪のため。私を愛し、私を救うため。あなたの罪のため。あなたを愛し、あなたを救うため。

先週、私は「現代の私たちはあまりにもたやすく愛を語る。しかし、私たちは愛すると言いながら条件を付け、自分が損を受けないように構えているものだ」と申し上げました。しかしイエス・キリストは、ご自身の人生最大の危機を前にしてまでも、残された最後の12時間においても、ご自分の救いよりも、罪人の救いを第一にしてくださったのです。12時間もの間、罪人のために絶えずご自身の「いのち」を捨てられました。

最後にイエス様は「完了した」と言われました。「完了した」のギリシャ語は、「負債がすべて返された」を意味する財政用語です。また「完了した」のヘブル語にも、「代価をすべて支払った」という意味があります。イエス・キリストはイエス・キリストを愛する人のためだけではなく、すべての人、ご自身を憎んだり、蔑んだり、嘲ったり、鞭打ったり、ご自身を信じず、頑なに受け入れない人のためにも、逃げたり隠れたりした人のためにも、罪の代価を代わりにすべて支払ってくださいました。イエス・キリストはそのために世に来られ、最後の悲惨で、恐ろしくて、暗くて、汚くて、むごて、辛くて、悲しい12時間を過ごされ、ついに十字架で死ぬことによってその使命を果たされました。それでも人を愛するがゆえに。私を、あなたを愛するがゆえに。

愛を言葉で言うことは簡単ですが、それを実践することは難しいのです。しかしもっと難しいのは、その愛の行いを最後まで、何があっても果たすことでしょう。人間の愛は条件や環境の影響を受けてしまうような、本当に弱く小さなものです。自己中心的な愛です。(自己中心的な愛と聞いて、誰の顔が浮かびましたか? 自分の顔が浮かばないならばまずいです。今日の説教は何の役にも立ちません。)自分の思い通りにならないと、持っていたはずの愛をすぐに捨て、すぐに相手を憎み、文句を言ってしまう。大事な時間やお金や地位や名誉やプライドを捨てることができない。そのような愛です。しかしイエス・キリストの愛は、自己犠牲の愛です。ご自分のいのちを罪人のために喜んで差し出される愛です。私たちが罪人であったときから、いのちまで惜しまず差し出してくださった愛です。その愛は永遠で一途です。私たちの罪も、弱さも、すべてをご存知でも、変わることなく私たちを最後まで愛してくださる愛です。最後まで、天の御国に至まで成し遂げてくださる愛です。

そして最後にイエス・キリストは、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と言われ、頭を垂れて霊をお渡しになりました。イエス様はご自身の苦しまれた霊を神にささげられました。そして十字架上で語られた最初の言葉「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」という祈りが聞き届けられたのです。

「まことに、彼(イエス・キリスト)は私たちの病(罪)を負い、私たちの痛み(悲しみ)を担った。…彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。…主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた」(イザ534-6)。「この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです」(コロ114)。

この人を見よ

「あながたがたは誰を捜しているのか」。「わたしがそれだ」。「この人を見よ」。私たちは、最後の12時間のイエス・キリストの御姿、そして十字架上で死なれたイエス・キリストの御姿のうちに。また、今日の登場人物の内に自分の姿を映し、それでもこの私に注がれる神の真の愛、真の力、真の救いを見出せていただく者でありたいと願います。

私たちは今朝も主イエス・キリストの十字架のみわざを歌と詩にして賛美しました。しかし、いくらそのメロディーや詩が悲しげで暗いものであっても、暗やみのような十字架の出来事、イエス・キリストの痛みや苦しみ、罪の悲惨さ、汚さ、むごさ。そのすべてを表現することはできないのだと思わされます。しかし神は私たちに、イエス・キリストの十字架のみわざを賛美するように言われるのです。悲しげで暗いメロディーや詩の中にさえも、希望、美しさを感じさせてくださるのです。そこに神の愛と赦し、救いがあるからです。

「あなたがたは誰を捜しているか。わたしがそれだ」。受難週となる今週、私たちは「この人を見よ」と言われる十字架の主イエス・キリストを見上げ、悔い改めつつも賛美し、歩ませていただきましょう。そして、そこからまた悔い改めと信仰をもって立ち上がり、イエス・キリストの復活のいのちに与り、まことのいのちを頂いて、そのいのちによって喜んで歩んでまいりたいと願います。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

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