2021年3月14日 主日礼拝「キリストが苦しまれたのは」

本日の聖書箇所

ローマ人への手紙5章6〜11節

説教題

「キリストが苦しまれたのは」

今週の聖句

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

ローマ人への手紙5章8節

訳してみましょう

2076 To live like Christ is not natural; it’s supernatural.

2077 Only as we yield to the Holy Spirit can we ever hope to exhibit the life of Christ. —-Henly G.Bosch

礼拝式順序

開 祷
讃美歌  10番「わがたまたたえよ」
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  138番「ああ主はたがため」
聖 書  ローマ人への手紙5章6節〜11節
説 教  「キリストが苦しまれたのは」佐藤伝道師
讃美歌  332番「主はいのちを」
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷


動画はこちら 

https://youtu.be/LsrzsxFv1HE

説教「キリストが苦しまれたのは」

ローマ人への手紙5章6〜11節

 先日、母がかかりつけのいくつかのお医者さんに連れて行って欲しいということで付き合ったのですが、その帰りに、せっかくだから一緒にお昼を食べて帰ろうということになり、母と妻と私の3人でお昼を食べて帰りました。しかも私たちがご馳走したのです。恐らく初めてだったと思います。この歳になって初めてだなんて何だか情けないのですが、母はとても喜んでくれました。私も喜んでもらえてとても嬉しかったのです。昼食を終えて帰り際に、スーパーに寄って妻が買い物をしているのを待っている車の中で母がポツリと、「はぁ、幸せ」と言いました。

 母とは本当に偉大です。身を粉にして、自分を犠牲にして子どもを育てる。母も人間ですから、聖書的に言ってしまえば罪人ですから、不完全な人です。それは当たり前のことです。私もそうです。ですから時には嫌ったり、ぶつかり合ったり、そんな時代もありました。それでも振り返ってみると、私のために色々とやってくれたこと、家族の誰よりも遅く寝て、誰よりも早く起きる毎日。食事の用意とか洗濯とか。洋服など必要な物を買ってくれたり。でも母が自分のために何か買ったという記憶がありません。犠牲的な母の愛というものが一つ一つ思い浮かんで来るようです。私は愛されていたんだなぁと、改めて考えると恥ずかしく思いますが、そう思わされます。そんな母に、ほんの小さなことで「幸せだ」などと言わせてしまう自分を本当に情けなく思い、申し訳ないと思わされました。

 完全なる愛をお持ちの私たちの天の父なる神さまは、日々、私たち一人ひとりに気を配り、片時も目を離さずに守り、養い育ててくださっています。どうしたら神さまに喜んでいただけるのでしょうか。今朝もお献げする礼拝でしょう。そして私たちの砕かれたたましい、砕かれた悔いた心、感謝と賛美、父なる神さまに対する真実の愛をお献げしましょう。この朝もともに主のいのちのみことばに聴いて、いのちの養いをいただいて、ここからまた主を喜ぶ日々へと、新しく遣わされてまいりましょう。

 お祈りを致します。
 天の父なる神さま、御名を崇め賛美致します。過ぐる一週間も、私たちに賜った平和な関係をもって、守り、導いてくださったことを覚えて心から感謝致します。主に注がれる祝福、恵みに十分に応えられない、弱い私たちをどうぞ憐れんでください。しかし神さまは今朝も私たち一人ひとりをこのようにして礼拝に招いてくださいました。主の私たちに対する変わらぬ愛を感謝致します。様々な都合によってこの場に集えない方々もおられますが、その心は同じこの時、御前に進み出ていることと思います。御前に進み出て、礼拝をお献げする私たちをどうぞ祝福してくださって、みことばをもって養ってくださいますようにお願いを致します。聖霊様がとりなしてくださいますから感謝です。この時、私たちの一切をあなたに信頼しお委ねいたします。感謝して主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。

 私たちは今朝もこのようにして、神さまの御前に大胆に進み出ることが赦されています。それは私たちの主イエス・キリストによって、神さまとの平和を持っているからです。恵みによって、信仰によって導き入れられました。

 先週はどのような一週間だったでしょうか。すべてがうまく行ったと心から言える人はいないのでしょうか。大なり小なり、やはり患難、苦難というものがあったと思います。同時に大なり小なり感謝もあったかと思います。この世にあってどうしても避けられない患難、苦難。しかしそれは神さまが私たちに対して怒っておられるからではない、私たちに対する神さまの報復などではない。なぜなら私たちはすでに神さまとの平和な関係をいただいているからだ、というのが、前回見たところでした。それだからこそ、患難さえも喜ぶことができるのだということでした。

 また、私たちの内には御霊なる神さま、聖霊が注がれており、聖霊は私たちが本当に大変な時、神さまなんて信じられないとつい思ってしまう時でさえ、聖霊は神さまを信じておられるし、神さまに執り成しをしてくださっている。何があっても、私たちがどのような状態となっても、決して私たちを神さまの愛から、神さまとの関係から離れさせることはさせない。神さまから決して離れないようにと、信じる者に聖霊を送ってくださいました。そのようにして神さまの愛が聖霊によって私たちの心に注がれているのです。私たちは全能であり、父である神さまに愛されている。本当に感謝なことではないでしょうか。もう飛び上がって喜びたいほどではないでしょうか。

 前回の箇所となりますが、パウロは5節で「神の愛」と言っています。そこでまた今朝の箇所の6節から脱線してしまうのです。以前も申し上げましたが、パウロが脱線する時と言うのは、どうでもいい話しで脇道に逸れるわけではなく、むしろとても大事なことを私たちに念押しして確かめさせる時なのです。

 今日の脱線箇所の6〜8節では、どのようなかたちで神の愛が私たちに示されたのかを説明しています。この6〜8節に示される神さまの愛が、これまでどれほどの人たちの心を慰め、どれほどの魂を救ってきたことでしょう。実にこのみことばが救いの確信として与えられたという方々が多くおられるのではないでしょうか。私たちの心の奥底から湧き出るようにして与えられた神さまの愛に対する確信、じんわりと心に染みるようにして与えられた暖かな信仰、あるいは燃え立たせるような神さまに対する信仰だったのではないでしょうか。

 それは聖霊なる神さまが、神さまが遣わされた御子イエス・キリストによるみわざ、十字架を私たちに指し示す時に、私たちは十字架を、十字架の福音をただ知識として知るだけではなく、霊、たましいから知ることができ、私たちは震えるほどに、おののくほどに神さまの愛を知るのです。神さまの愛の前にひれ伏すしかなくなるのです。それが私たちの神さまの愛に対する確信の基、基礎、土台となったのです。

5章6節      私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
5章7節      正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
5章8節      しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

 もう何も言うことはありません。ありませんけれども、改めてこの喜びを分かち合い、喜びをもって力づけられたいと思います。力づけられた後、私たちはまたこの世の人々の間に遣わされて行くのです。

 6節の「弱かったとき」は、8節の「罪人であったとき」と同じ意味で用いられていると見て良いと思います。罪のために無力とされ、神さまに対して何一つ善をなし得ない時に、という意味です。また6節に「不敬虔な者」とありますが、この箇所を「神なき者」と訳しているものもあります。「弱かった時」「罪人であったとき」「不敬虔な者、神なき者」。これはまさに以前の私たちの姿そのものではないでしょうか。私たちはまさにそのような者たちでした。罪人の深刻で悲惨な状態の中にいたのです。それは私たちがローマ書1章から学んで来たことです。真の神さまを知らず、知ろうともせず、心は様々な偶像で満ちていました。偶像とは何か木や石で造られた像だけではありません。人間の様々な欲望、貪りです。偶像とはまことに親しくしながら、真の神さまとは関係なく生きていて、神さまに背を向け、その足は自分勝手な道に進んで行ってしまっていた。その心は憎しみや争いの方向ばかりに知らずして傾いてしまっていました。カントという人が言っていることですが、「人間は気ままに生きると、争う悪になる」のだそうです。確かにそうだと思います。その心から出てくる言葉は、いつも人を、同時に自分をも傷つけてしまうものばかり。争い、破壊。その行き着く先は死、永遠の滅びでした。生きて行くにあたって起こってくる様々な問題の多くは、人との関係の中で起こってくるものです。親子、夫婦、あるいは恋人、友人とか、仕事での人間関係、そのような中で他人を傷つけ、自分も傷つき、罪ゆえに苦しくてどうしようも耐えきれなくなっていた私たちのために、キリストは定められた時、およそ2000年前の実際にポンテオ・ピラトがいたあの時代の、あのエルサレムの郊外の丘に立てられた十字架に架かり死んでくださいました。父なる神さまが定められた、ご計画された時でした。

 キリストは私たち不敬虔な者、神なき者たちのために死なれました。それは実に驚くべきことでした。正しい人とは、義務をきちんと果たして、正義を行う人のことでしょうか。人生における優等生のことでしょうか。しかし、たとえ誰かが正しい人であっても、その正しい他人のために自分のいのちまで投げ出そうとする人はまずいないでしょう。情け深い人とは、あの良きサマリヤ人のように隣人愛に富む人のことでしょうか。他人に対して暖かい愛と理解を持って接する人のことでしょうか。そのような他人のためなら自分のいのちを捨てても良いと考える人が、あるいはいるかもしれません。しかしやはり考えるだけであって、たとえ信仰者であったとしても、あの塩狩峠の主人公のような愛と信仰に生きられる人はごくまれであると言わなければならないでしょう。もしかしたら親子の間の関係においては例外と言えるかもしれませんが、それほどに、他人のために自分のいのちを捨てるということは、人間の現実においては大変難しいことなのです。

 しかし神さまの愛は逆なのです。神さまは、私たちがその時まだ罪人で、何の価値もない者であると知りつつも、御子を十字架の死に渡されたのです。「私たちのために」は「私たちに代わって」の意味です。旧約の時代の動物犠牲のように、キリストは私たち罪人の身代わりとして死なれたのです。キリストが贖いの供え物として、宥めの供え物として屠られ、苦しまれ、血を流され、そして死なれたのです。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされた」のです。「ここに神さまの愛がまざまざと現れている」のです(Ⅰヨハ410)。

 キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神さまは私たちに愛を示されました。死ぬほどに私たちを愛してくださったのです。私たちが神さまに愛されるために、このような大きな犠牲があったことを忘れてはなりません。この信じられないほどの愛を知らされ、そしてすがるようにして信じた時、罪人であった私たち、神なき者であった私たちは、まさに身も心も救われた、命拾いした、ホッとした、心の底から嬉しかった。そんな経験をしたのではないでしょうか。私などはその時、救われた人の証しの中で、空が青く見えたと言われていたのを聞いていたのですが、まさにそんな経験をしました。家から出ていつもの曲がり角を曲がった時に、まるで景色が違って見えて、スキップしたくなるほど嬉しかった。そんな経験をしました。皆さんはどうでしょうか。人それぞれ、色々なかたちで救いの喜びを経験されていると思いますが、その時の経験、神さまの愛を知った経験が今の私たちの信仰の基となっていることを、いつまでも、どんな時にも忘れずにいてください。私も忘れないようにしなければと思っています。

 9、10節は、再び信仰者の希望を取り上げています。1節の「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています」からつながるところです。

5章9節      ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。

 信仰によって義と認められた私たち、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を今すでに持っている私たち。その私たちは主イエス・キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさら、いっそう確かなことであると力強く宣言しています。

 「キリストの血」はキリストの十字架の死を指します。罪人であった私たちが、キリストの「死」によって義と認められました。さらにパウロは「この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことである」と言っています。これは何を意味しているのでしょうか。

 パウロは別の手紙でこのように言っています。「やがてイエス様は天から来られ、そしてやがて来る御怒りから私たちを救い出してくださる」(Ⅰコリ110)と。パウロがここで主張したいことは、私たちが救われるべき神の怒りとは、現在の時点だけでなく、むしろ来るべき審判の日に示される怒りです。終わりの日にすべての人が裁かれ、有罪または無罪、滅亡または救い、死またはいのち、御怒りまたは憐れみが下されます。しかし「キリストの血によって」「キリストの十字架の死によって」義と認められた私たちは、「この方によって」有罪、滅亡、死、御怒りから救われます。神さまが罪人であった私たちを受け入れて、義と認めてくださったので、私たちが救われるのは極めて当然だという、それがパウロがここで言おうとしていることなのです。キリストの十字架において明らかにされている神さまの愛は、今現在における救いの確信であると同時に、将来における救いの希望でもあるのです。この現在と未来の両方の希望があるからこそ、私たちは困難の多いこの世にあって、何とか立ち続けられるのでしょう。

5章10節   もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。

 イエス・キリストの十字架の死、そして復活、今も生きておられ、やがて再びこの世に来られるイエス・キリストが示されています。十字架のみわざにおけるイエス・キリストのいのちという大きな犠牲によって、神さまの敵であった私たちが和解させられた。神との平和が与えられた。しかしそれで終わってはいません。神さまの愛はそこで終わっていないのです。イエス・キリストは復活されました。よみがえられました。「今も」生きておられ、「今も」私たちに愛を注がれ、日々、私たちを救ってくださっています。苦難の中でも脱出の道を備えてくださり、聖霊によって励まし、身も心も守り、救ってくださっています。そして将来においても、それは変わることがありません。なおいっそう確かなことなのです。それが神の御子イエス・キリストの死によって神さまと和解させられた者、神との平和をすでに与えられている者の幸いなのです。

5章11節   そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。

 私たちは神さまを喜んでいます。この世にあって避けられない苦難や困難を無理矢理喜ぶのではなく、全能であり私たちの父である神さまがいつでも、どんな時でも味方でいてくださる、その神さまとの平和を喜ぶことが出来るのです。必ず最善がなされる、最善の解決が与えられる、さらには将来の終わりの時においても、喜ばしい結果がすでに用意されていて与えられる。そのことを確信して、神さまを喜ぶのです。感謝して喜ぶことができるのです。いつでも、どんな時でも神さまが味方でいてくださる。神さまとの平和を与えられた者の、何と幸いなことでしょうか。そんなことを覚えると、もう飛び上がるほどの喜びではないでしょうか。この喜びによって私たちは今日からも生きていけるのです。本当に感謝なことです。

 ですが、私たちはただこの喜び、感謝に浸っているだけで良いのでしょうか。私たちはまだ天の御国に迎え入れられずに、まだこの世に生かされています。世の人々の間に主によって遣わされているということです。

 私たちは今、受難節を過ごしています。主イエス・キリストが私たちの身代わりとなって苦しまれ、十字架に架かり死んでくださった。そのことを深く覚える時です。私たちがこれほどまでに神さまに愛され、守られ、救われていることの背景に、主イエス・キリストの大きな犠牲があったことを覚える時です。

 神さまは、「わたし(神)と人類との関係は修復された」と宣言することだってできたはずです。なのになぜ神はさまは、あえて十字架という血まみれの、痛みと苦しみ、悲しみが伴う和解の方法を選んだのでしょうか。

 私たちが、「私は愛されている」と感じる時、知る時はどんな時でしょう。愛と言ってもエロスの愛ではありません。もっとあたたかくて神聖なアガペの愛、無償の愛です。「私は大切にされている」「私は愛されている」と知る時はどんな時でしょう。
 よくよく考えてみると、それは私に愛を注ぐ相手の「犠牲」を知る時なのではないでしょうか。例えば母の子に対する犠牲、自己犠牲を知る時、「私は愛されている、大切にされている」と知るのではないでしょうか。大なり小なりはあっても、誰かが自分を犠牲にしてまでこの私のためにしてくれたことを思うと「私は愛されていた、愛されているのだ」と感じたり、知るのではないでしょうか。
 思い起こしてみると、創世記で罪を犯したアダムとエバのために、神さまは動物を犠牲にして服を与えてくださいました。どうでも良かった動物ではなかったはずです。神さまが造られて「非常に良かった」と言われて、恐らく大切に養われてこられた動物を、罪を犯したアダムとエバのために血を流して殺された、犠牲にされた。ここからして「犠牲」にともなう愛というものが示されています。そして人間は皆、この記憶を持っているのかもしれません。

 そして「友のために自分の命を捨てることほど、大きな愛はない」とイエス様ご自身が言われました(ヨハ1513)。そのイエス様は、私たちのためにご自分のいのちをお捨てになったのです。苦しまれ、苦痛を味わわれ、血を流された。ここに私たちに対する愛が示されていて、そこに私たちは私たちに対する神さまの愛、以前取り上げました「デウスの御大切」を知るのです。

 私たちはかつて、弱かった、罪人だった、不敬虔、神なき者でした。罪ゆえに苦しみ、悲しみ、絶望し、それこそ死にそうでした。それが今、イエス様の犠牲によって、飛び上がるほどの喜びに生かされているのです。イエス様が苦しまれたのは、明らかに私たちを救うためでした。神さまとの平和をいただき、神さまを喜び、神さまを愛する者とされるためでした。

 しかし、今はまだ弱い人、罪人である人、不敬虔、神なき者である私たちの多くの隣人が、「かつての私たち」であることを忘れてはならないのではないでしょうか。私たちを愛してくださった、愛してくださっている神さまは、今はまだ弱い人、罪人、不敬虔、神なき者をも愛されるのです。いつか今の私たちのように救われて、神さまとの平和をいただき、喜びに満たされて生きる日が来るのです。今はまだ弱い人、罪人、不敬虔な人、神なき人のためにも、キリストは定められた時に苦しまれ、死んでくださったのです。神さまがこれほどまでに愛される人たちを、神さまにこれほどまでに愛されている私たちも愛さずにはいられないでしょう。

 そしてその愛とは犠牲を伴うものです。尊い犠牲を通して知られるものです。

 すべての人を愛することは、残念ながら私たちにとって現実的ではありません。教えられたり勧められたりして出来ることではありません。それが私自身、正直な思いです。
 そんな私には、度々思い出される、私の中に深く印象に残っているある神父のメッセージがあります。それはこのようなメッセージでした。
 「今、赦せない人がいるなら、一つでも良いから、その人があなたにした良いことを思い出してください。そして、そのことのゆえに、その人を赦してあげましょう」。

 どんなに赦せない人であっても、思い起こしてみれば一つくらい、その人が私のためにしてくれた良いことがある。それは大なり小なり、自己犠牲を伴うものです。時間とか労力、お金とかを使ってくれたこと。私が仕事で犯した失敗のためにカバーしてくれたこと。助けてくれたこと。必要なものを貸してくれたこと。お茶をいれてくれたこととか、缶コーヒーを買ってくれたこと。ご飯を作ってくれたこと。私を気遣ってくれたり、大切にしてくれたこと。愛してくれたこと。

 もし赦せない人、愛せない人がおられるならば、一つでもその人の自分に対する犠牲的な愛を思い起こしてみてください。それに気付く時、私たちは自分の相手に対する怒りと憎しみを恥じることになるでしょう。私などは心がキュッと締め付けられる気がします。そして相手を赦し、愛せるようになるのではないでしょうか。なぜなら、私たちは大きすぎる犠牲に伴う神さまの愛を知っている者たちだからです。その犠牲的な愛を誰よりも体験している者たちだからです。

 どのような人の中にもキリストがおられること、キリストの犠牲、愛が注がれていることを覚えさせ、私たちもその人を本当に愛することができるようになるために、キリストは苦しまれたのではないでしょうか。また、たとえ私たちの赦せない人の中にも私たちに対する犠牲的な愛があることを気付かせるため、その犠牲的な愛の重大さに気付き、私たちの心が砕かれて、私たちの怒りが宥められて、その人を心から赦し、愛することができるために。そのことのためにも、キリストは苦しまれたのではないでしょうか。

 私たちは、キリストの苦しみを通して神さまの計り知れない愛に気付かされるのです。その計り知れない愛は、私たちが罪人であった時に、私たちに注がれました。今、私たちのすぐそばにいる親しい人たち、まだ神さまを知らない隣人に注がれているのです。「愛している」と言葉で言うのは簡単ですが、愛を自己犠牲の伴った行動で示すということは、本当に容易いことではありません。そこで私たちは受難節を迎えている今、キリストの受難、苦しみから目を背けることなく、その深い意味を今一度、黙想すべきであると思わされています。聖霊なる神さまに、私たちの思いをキリストの十字架、苦しみへと導いていただきましょう。

 お祈りを致します。
 天の父なる神さま、御名を崇め賛美致します。みことばを感謝します。みことばを通し、イエス様の大きな犠牲を知り、またイエス様の復活を覚えて、改めて私たちがどれほど愛されたのか、今もこれからも愛されているか、大切にされているかを見ることができました。この感謝と喜びをもって今日からまた人々の間に遣わされてまいります。そこで様々な困難や葛藤を覚える時もあります。そんな時も主がともにいてくださいますから感謝します。いつでも、どんな時でも、イエス様が苦しまれたのは何のためであったのかを覚えさせてください。主を喜び、主に栄光を帰する日々となりますようお守りください。救い主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。

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