2022年2月13日 主日礼拝「敵を愛せよ」

礼拝式順序

礼拝前賛美
報 告

開 祷
讃美歌  544番「あまつみたみも」
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  23番「くるあさごとに」
聖 書  ローマ人への手紙12章14〜21節
説 教  「敵を愛せよ」佐藤伝道師
讃美歌  389番「敵を愛せよとの」
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷

本日の聖書箇所

ローマ人への手紙12章14〜21節

説教題

「敵を愛せよ」

今週の聖句

あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。

ローマ人への手紙12章14節

今週の祈り

神は正しい方であって、あなたがたの行いを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。
(へブル人への手紙6章10節)

愛なる神よ、私の至らない働きでも、あなたは受け止めて、喜んでくださることを感謝します。あなたに仕えられるように様々なものをくださり、ありがとうございます。

説教「敵を愛せよ」

ローマ人への手紙12章14〜21節

 今朝与えられましたみことばは、ローマ書12章14節から21節ですが、今朝の箇所を黙想した時に思い浮かんだ光景がありました。それはルカの福音書の9章53〜55節のところです。

【ルカの福音書】
9章53節 しかし、イエスは御顔をエルサレムに向けて進んでおられたので、サマリヤ人はイエスを受け入れなかった。
9章54節 弟子のヤコブとヨハネが、これを見て言った。「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」
9章55節 しかし、イエスは振り向いて、彼らを戒められた。

 イエス様のことを受け入れなかったサマリヤ人に対して、イエス様の弟子のヤコブとヨハネは、自分たちには彼らを焼き滅ぼすことができる権威があると考えていたことが分かります。二人の中に何か特権意識、エリート意識、高ぶりが見えます。いつから芽ばえたのでしょうか。いつもイエス様の福音を一番近くで聞いて、私は罪人だ、私はそれでも神に愛されている者だとひしひしと感じ知っていった。そのはじめの頃の感謝、感動を忘れてしまったのでしょうか。かつての自分と同じような暗闇の中にいる人々に対する憐れみの心は失われ、イエス様が否定されたことに対して感じる怒りの感情。それはもしかしたら正しい一面ではあるかもしれませんが、しかし二人の中には、自分が何か偉い者になったかのような勘違いがあり、自分は人から認められるべきだ、自分も一目置かれるべきだ、何か力を見せつけて自分こそ正義、自分に従わせてやりたいという欲求があり「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか」という言葉が出て来た。これこそが思い高ぶってしまっている信仰者の姿です。

 その時、先頭を歩く主は振り向いて叱責されるのです。間違った特権意識、エリート意識を手放すことをイエス様は願われるのです。それは主の弟子としてふさわしい態度ではないからです。主の真の弟子とは、主に倣い、主の愛を実践する者のことです。人々の間で神の国の福音、平和の福音、和解の福音を宣べ伝える者のことです。ヤコブとヨハネの態度とか言動は、それとはまるで正反対でした。

【ローマ人への手紙】
12章14節 あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。

 パウロはここから、キリスト者の愛は、キリストにある兄弟姉妹に対してだけではなく、さらに教会の外の人々にも向けられます。

 【迫害する者】という語は、「私を追求してくる者、私を責め立てる者、私を害するために後をつけ回す者たち」を指しています。【祝福する】とは、恵みの言葉、優しい言葉をかけること。そして【呪う】は、ヤコブとヨハネのように相手の滅亡を求めること。また、悪態をつくとか、毒突く、祟るという意味もあります。

 パウロはパウロの主、イエス様のみことばに従順に従い、そして強く命じるのです。「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。あなたを迫害する者に恵みのことば、やさしい言葉をかけるべきであって、相手の滅亡を求める言葉を語るべきではなく、また悪態を突いたり毒突いたりしてはいけません」。しかしそれはパウロ自身、決して簡単なことではありませんでした。パウロは自分を顧みてこう言っているのです。

【コリント人への手紙第一】
4章11節 今に至るまで、私たちは飢え、渇き、着る物もなく、虐待され、落ち着く先もありません。
4章12節 また、私たちは苦労して自分の手で働いています。はずかしめられるときにも祝福し、迫害されるときにも耐え忍び、
4章13節 ののしられるときには、慰めのことばをかけます。今でも、私たちはこの世のちり、あらゆるもののかすです。

 あのパウロでさえこのように言うのです。「ののしられては祝福し、迫害されては耐え忍び、中傷されては、優しいことばをかけています。私はこの世の屑、あらゆるものの、かすになりました。今もそうです」と。自分を迫害する者、自分の敵を愛して、呪うこと、悪態を突くことさえ許されず、赦し、なおも祝福する、優しい言葉をかける。この主の言われることに従順である時、私たちも同じだと思いますが、本当に惨めな思い、恐怖が襲ってくるのではないでしょうか。敗北感、悔しさとか、自分がまるでこの世のちり、ゴミ、かすになってしまう、されてしまうような。それでなかなか赦すのが難しいのでしょう。どうしたら主のみことば、主の御姿、ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことせず、十字架に至るまで、正しくさばかれる方、神にすべてをお任せになった、私たちの主イエス様の生き方に倣えるのでしょうか(Ⅰペテ222−23)。

 パウロは12章のはじめで「神のあわれみ」を引き合いに出しました。続いて兄弟愛を述べました。偽りのない兄弟愛による慰め合うこと、励まし合うこと。そして今朝の箇所冒頭の14節では、いよいよ教会外の人々への愛の実践を述べましたが、またすぐに15節から、再びキリストにある共同体、教会の兄弟姉妹の間の愛を強調しています。

12章15節 喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。

 私たちキリスト者が、主の真の弟子としてこの世に遣わされて行くために、主の真の弟子として主の愛を実践していくために、そして出て行って、神の国の福音、平和の福音、和解の福音を宣べ伝えるためには、どうしても教会の兄弟姉妹の間の偽りのない愛の交わりが必要なので、それでパウロはすぐに教会内の兄弟愛、肉親の間の愛にまで引き上げられた信徒同士の愛に再び戻って述べるのです。

 パウロは12章13節では物質的な交わりを説きました。ここでは霊的な交わりを勧めています。私たちが喜び、また泣くのは、大抵が人間関係においてです。それぞれの場所に出て行って、そこで経験する様々な人間関係によって喜び、また泣くのです。そしてパウロは、「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」と言うのです。私たちは、喜ぶ人と嘘偽りなく心から喜び、泣く人、悲しむ人、悔やむ人、塞ぎ込んだりしている人と嘘偽りなく心から、同じ心、同じ思いで泣く。そのような教会の霊的な交わりによって真に慰められ、励まされて、ようやくまたそれぞれの任された場所へと、迫害や生きづらさを覚える場所へと、信仰を新たにして、献身の思いを新たにして、主の真の弟子として出て行くことができるのです。日ごとの主との1対1の交わりは何よりも大切ですが、色々と弱い私たちにはそれで十分ではないのでしょう。そのためにあわれみ深い神さまは、私たちに教会を与え、そこに一人ひとりをお互いの真の慰め、励ましのために必要な存在として集めてくださっているのです。

12章16節 互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。

 機械的に同じ考えを持ちなさいというのではありません。喜ぶ人、泣く人とまったく同じ思いになって、思いを同じにして喜んだり泣いたりしなさいと。「牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやる」(ヘブ133)。高ぶった思いを持たずに、あの旧約聖書に出て来るヨブの友人たちのように、苦しむヨブを励ますつもりが、慰めるつもりが、いつの間にか高ぶって、鼻息を荒くするように自分の正義を押しつけてはならないのです。私たちが気をつけないと失敗しやすいところです。一つ心になって、喜び、泣く。これほど私たちを真に慰め励ますものはないのです。

 かえって、身分の低い者に順応しなさい。2017では「むしろ、身分の低い人たちと交わりなさい」すすんで交わりを持ちなさいと言うのです。身分の低い人、その意味は地位の低い人の他、謙遜な人、平凡な人という意味もあるのですが、そのような人たちこそ迫害されるのではないでしょうか。理不尽な扱いを受けやすく、生きづらさを誰よりも感じているからではないでしょうか。ローマの教会であるなら、ローマ人の信徒よりも、ユダヤ人信徒の方が圧倒的に迫害の標的になったでしょう。強い者にはへつらい、弱い者を攻撃するのはこの世の常だからです。私たちはこの世と調子を合わせてはいけません(ロマ122)。弱い者こそ真の慰めと励ましが必要なのです。それなのに、地位の低い人、謙遜な人、平凡な人は辛い目にあっていることをなかなか言い出せないといったこともあるでしょう。その人たちがどこかで諦めて、力を失って、信仰を失って、悪に、滅びに向かって行ってしまうことのないように。善に親しみ、悪に近づくことのないようにすすんで交わり、関心を持って、一つ心になって笑って泣いて、接して行くことが必要でしょう。

 教会の霊的な交わりが、ひとつ心になる時、何が起こるでしょうか。使徒の働き1章にひとつの出来事が記録されています。イエス様が十字架に架けられ死んでしまった。迫害を恐れた弟子たちは屋上の部屋にこもって、いつも心をひとつにして祈っていました。五旬節の日、心をひとつにして祈っていたところ、聖霊が降りました。恐れと不安の中にあって、臆病になっていた弟子たちは、力と愛と慎みの霊が注がれて(Ⅱテモ17)変えられたのです。出て行って福音を証しする者、臆することなく主の愛を実践する者へと変えられたのです。

 17節からは再び、一般の人々に対する愛の教えとなります。主の弟子たちが教会の霊的な交わりによって力を受けたのなら、再び教会の外に出て行って、そこでの愛の実践が勧められます。

12章17節 だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。

 私たち人間というものは、悪には悪をもって報復しやすい存在ではないでしょうか。悪をされたら倍にして返してやらないと気が済まない。そんな性質が染みついた者ではないでしょうか。

 しかし神さまは「『あの人が私にしたように、私もあの人にしよう。あの人の行いに応じて、仕返しをしよう』と言ってはならない」(箴2429)と言われます。聖霊はイエス様のマタイ5章のみことばを思い起こさせるのです。「しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着も取らせなさい。あなたに一ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。借りようとする者に背を向けてはいけません。『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです」(マタ539–45)。聖霊はⅠテサロニケ5章を通して私たちに教えるのです。「だれも、悪に対して悪を返さないように気をつけ、互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うように努めなさい。いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」(Ⅰテサ515−18)。

 私たちにとって、自分を迫害する者を赦して、さらに祝福しなければならないなんて、主から負わされた重荷の何ものでもない。主はどうしてこのような負いきれない重荷を私に背負わせるのだろうか。そう思われるでしょうか。しかし主は、「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない」(詩5522)と言われるのです。主は背負いきれない重荷を負わせる方ではなく、ともに負ってくださる、代わりに負って下さるお方なのです。

12章18節 あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。

 自分に関する限り。2017では「自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい」となっています。あの人がこうだからではない、あなたがたは、できるだけ、なるたけすべての人と平和を保ちなさい。人々の中にあって、あなたは、あなただけは、できる限り平和に暮らすようにしなさい。祝福するようにしなさい。祝福すべきであって、呪ってはいけません。

 ペテロはこのように言っています。

【ペテロの手紙第一】
3章9節 悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。

 私たちはイエス様の十字架と復活によって救い出され、贖われ、主のものとされました。祝福を受け継ぐために召されたのです。のろうため、復讐をするために召されたのではありません。

12章19節 愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」

 2017 では「愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。『復讐はわたしのもの。わたしが報復する。』主はそう言われます」となっています。

 「愛する者たち」。ギリシア語ではもっと明確な意味をもって語られます。「神に愛されし者よ」と。私たちは神に愛されているのです。神に愛されている私たちは、神の怒りに私たちの敵への復讐、報復を期待しても良いということでしょうか。そうではありません。【神の怒りに任せなさい・ゆだねなさい】。その動詞の原形は【渡す】です。そして【怒り】と訳されているギリシア語は【怒りの空間】という意味です。怒り、怒りから来る衝動、鬱憤、そのようなものは、自分の怒りの空間におくのではなく、神さまの怒りの空間、神さまの御前に差し出しなさいということです。私たちの大切な心の空間を怒りに与えてしまうのは本当にもったいないのです。私たちの心の空間は神さまと神さまの愛でいっぱいにしておきたくないでしょうか。その方が幸せでしょう。

 自分の怒りを神さまの怒りの空間に差し出してしまう。すると「あの人が私にしたように、私もあの人にしてやろう。あの人の行いに応じて、仕返しをしてやろう」(箴2429)と言った心の空間は必要はなくなるのです。その空間をもっと良いもので満たすことができるのです。

12章20節 もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。

 敵が飢えたなら。敵が空腹であったり、困窮に陥ったり、何かを真剣に願っているなら、食べさせなさい。自分の持っているものから彼の必要を分け与えなさい。敵が渇いていたなら。それは喉が渇くだけでなく、ヘブル語で喉は 「魂・いのち・霊・精神」などの奥深い意味をも持つ語ですから、霊的な渇きも含まれるのでしょう。敵が渇いていたなら飲ませてあげるのです。「そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです」とパウロは言っていますが、皆さんはここでどのようなことを感じるでしょうか。復讐を感じますか? 結局は復讐ではないかと。そうではないのです。当時は炭火を運ぶときには頭にのせて運んでいました。炭火を頭にのせてあげなさい。手伝ってあげなさい。敵に親切にしてあげなさい。危なそうだったら「大丈夫ですか?」と優しいことばをかけてあげなさい。それだけです。注解書には「敵に親切にするなら、その敵は恥じ入ることになる」と説明されているものもありますが、敵が恥じ入ることを期待しての親切は、結局のところ復讐、報復ではないでしょうか。そうではなく、純粋に親切にしてあげなさい。主を完全に信頼して、主にすべてお任せして、私たちはただ敵を祝福するだけなのではないかと思うのです。私たちはただすべての人に祝福を与える、恵みのことば、優しいことばを語る、善を行うだけで良いのです。

12章21節 悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。

 「剣をもとに収めなさい。剣を取る者は、みな剣で滅びる」とイエス様は言われました(マタ2652)。悪によって悪に報いる。それであるならば、いつまでも悪の連鎖が断ち切られずに続くならば、そこはサタンの勝利、神の国ではなく、サタンの支配する世界です。いつまでも不幸の連鎖です。私たちはその連鎖を私たちが断ち切るために召されているのです。あの人が断ち切るべき、あの人が私に対する悪をやめれば良いではないのです。主は私たちの心、また呟きさえも聞いておられます。心や言葉にある敵への復讐の祈りが本当に聞かれてしまったら、私たちは本当に嬉しいのでしょうか。一瞬はスカッとするかもしれません。けれども、罪の呵責がいつまでも残って自分自身が苦しくなるのではないでしょうか。それにとらわれて、生き生きと生きられないのではないでしょうか。主はそれを望んでおられません。尊い血潮をもって贖ってくださった私たちのいのちが傷つくことを、主は悲しまれるのです。

 私たちはすべて主におゆだねすることができる。「復讐はわたしのもの」と言われる主に引き渡してしまいなさい。しかし神の怒りはどこまでも正義でありどこまでも愛であり、決して間違いがありません。人の復讐は相手を傷つけ滅ぼそうとするものですが、神の復讐はどうでしょうか。その人を取り扱い、癒し、救うものなのではないでしょうか。私たちは神が義と愛による復讐をしてくださって、私たちを迫害していた人たちが救われたならば嬉しいと感じる自分でありたいと願うのではないでしょうか。

 しかし正直なところ、私たちはなかなか敵を赦すことはできません。ひどいことをされればされただけ、神さまにすべて引き渡すことのできない者です。怒りを神さまに引き渡して、心から自分を迫害する者、敵を愛し、赦し、祝福する、優しいことばをかけることなどできない者です。先ほども申しましたが、あのパウロでさえ、困難を覚えているのです。神さまに自分の怒りをすべて引き渡してしまったら、自分がこの世のちり、あらゆるもののかすになってしまう、そのような扱いをされてしまうだろう。そんな敗北感、恐れを抱いているのです。簡単ではないのです。

 私たちを愛し、私たちをあわれまれる主は言われます。「恐れるな」と。私自身は数えたことはないのですが、ある方から聞いたところによると、聖書の中には「恐れるな」という表現が365回出て来るそうです。それはあたかも、神さまが私たち一人ひとりに、毎日毎日「恐れる必要はない」と語りかけてくださっているかのようです。「恐れるな、わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。…わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザ431−4)。私たちは何も恐れることなく敵を赦すことができます。何も恐れることなく、敵を祝福することができます。主は私たちに重荷を負わせられる方ではありません。ともに重荷を担ってくださるお方です。あなたは怒ることをやめよ。敵を赦し、善を行い、悪から離れろ。復讐はわたしのすることだからと、私たち一人ひとりを「怒る、赦せない」そんな悪から離れさせるために、罪から守るためにそう仰ってくださる愛の主。本当に感謝なことではないでしょうか。これほどまでに私たちは守られている、かばわれている、愛されているのです。

 兄弟姉妹が怒りの中にとどまっていたら、私たちはどうするでしょうか。ともに喜びともに泣きなさいとありますが、ともに怒りなさいとは命じられていません。なかなか赦せない私、なかなか赦せないあなた。私たちはそれぞれに偽りのない愛と慰め、励ましが必要です。それらは愛なる主との親しい交わりから与えられます。それらは主に愛される兄弟姉妹との真実な交わりから与えられます。真実な主に慰められ励まされ、兄弟姉妹が互いに慰め合い励まし合い、愛と力と慎みの霊に満たされて、今日もここからそれぞれの場所へと遣わされてまいりましょう。

 私たちは何も心配せずに、すべて主に信頼し、お任せして、ひたすらに目の前の善を選び取り、善にむかって安心して進んで行けば良いのです。天のエルサレムに向かって先頭を行かれる主が、私たちの手本となり、罪を犯すことのないように守り導いてくださいます。今、主が振り向いて戒められる御声を聞いたなら、自らを省みて、みことばに従順に従ってまいりましょう。そして日ごとに主の愛、あわれみ、恵みを覚えてまいりましょう。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

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