2023年7月16日 主日礼拝「本当の安息日のルール」
礼拝式順序
賛 美
前奏(黙祷)
招 詞 ヨハネの手紙第一4章13〜16節
讃 美 讃美歌84「かみにたより」
信仰告白 使徒信条 讃美歌566
主の祈り 讃美歌564
祈 祷
讃 美 讃美歌132「めぐみにかがやき」
聖書朗読 マタイの福音書12章1〜21節
説 教 「本当の安息日のルール」佐藤隆司牧師
讃 美 讃美歌242「なやむものよ」
献 金 讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報 告
今週の聖句 マタイの福音書12章12節
頌 栄 讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝 祷
後 奏
本日の聖書箇所
マタイの福音書12章1〜21節
説教題
「本当の安息日のルール」
今週の聖句
人間は羊よりはるかに価値があります。それなら、安息日に良いことをするのは律法にかなっています。」
マタイの福音書12章12節
説教「本当の安息日のルール」
マタイの福音書12章1〜21節
前回、イエス様は「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく(心地よく)、わたしの荷は軽いからです」(1129-30)そのように人々を招かれました。そして今朝の12章1節からでは、そのイエス様のくびき(くびきとは、主人の指示に従わせるために牛などの家畜の首にかける道具である)、それが具体的に何を意味するのかを教えられます。
すでに皆さんご承知のとおり、「くびき」とは人々の重荷となっていた「律法」のことです。律法とは、人間が神の前に正しく生きて行くためにどのようなことをしなければならないか、神の祝福をいただくためにはどういう生活をしていかなくてはならないか、その道筋、ルールを記したものです。ですからイスラエルの人たちは、律法を守るということに一生懸命でした。今日の私たちが考え及ばないこと、あるいは考えても理解できないようなことまでを、馬鹿馬鹿しいと思わず笑ってしまうくらいまで、しかし真剣に真面目に厳格に守ったのです。それは自分が何としても神の前に正しい者になりたい、またそうならなければならないという願いや信仰が彼らにあったからです。イエス様はそのような願い、神への信仰があるイスラエルの人々を愛し、そしてあわれんでおられます。イエス様に真っ向から反対し、敵対する律法学者やパリサイ人たちさえもあわれんでおられるのです。どうやってイエス様を殺そうかと相談するような反対者たちさえも主は愛しあわれんでおられる。信じられない愛、驚くばかりの恵み。そのことを覚えて12章へと進んでまいりましょう。
今朝の箇所では、律法の中でも特に「安息日律法」について取り上げられています。安息日律法は、安息日にしてもよい活動、してはならない活動について細々と規定されているものです。今日でも、未だイエス・キリストを救い主と信じ受け入れていないユダヤ教の方々が厳格に守っているものです。ひと言で言えば労働を禁止するものです。以前、私のクリスチャンの知り合いが東京のシナゴーグでの礼拝を体験した話しをうかがったことがあるのですが、車の運転、食事を作るために火をつけること、電気のスイッチを押すこと、エレベーターのボタンを押すこと、スマホの使用も労働とされており禁止されているそうです。そのために、作り置きの料理を一定温度に保つ電熱プレート、定時になると照明が消えるタイマー、ボタンにふれなくとも各階で自動開閉するエレベーターといった安息日便利グッズが色々発明されて存在しているそうです。エレベーターに関しては、ユダヤ教以外の人をわざわざ呼び出してエレベーターのボタンを押してもらうなどということまでするそうです。それでいいの?そこまでする?と思ってしまいますが、それでも彼らは神の前に真剣なのです。本当に神は安息日にそのようなことを人に要求しておられるのでしょうか。
さて、12章1節からです。イエス様とパリサイ人たちとの安息日律法に関する議論は、ある安息日の出来事を発端として起こりました。
12章1節 そのころ、イエスは安息日に麦畑を通られた。弟子たちは空腹だったので、穂を摘んで食べ始めた。
イエス様は11章1節のところで12弟子を町々へ遣わされました。働きを終えて戻って来た12弟子がここでイエス様に合流します。そして、「イエスは安息日に麦畑を通られ」、弟子たちは「穂を摘んで食べ始め」ます。
実は、他人の畑の穂を摘んで食べる行為自体は律法で許されています。聖書(申2325)にはっきり記されているのですから、もちろんパリサイ人たちも承知していました。問題となったのは、その日が安息日だったことです。彼らは弟子たちが安息日の律法を犯していると非難したのです。安息日にしてはならない労働というのが39個定められており、収穫、脱穀、もみがらのふるい分けがその中に含まれていました。弟子たちが穂を摘んだことは刈り入れをしたこと、手で穂をもんだことは脱穀したこと、もみがらを除いたことはそれをふるい分けたことであると、そのようなことを言ってきたのです。パリサイ人たちは常にイエス様を訴えよう、揚げ足をとってやろうとイエス様の後をつけ回していました。イエス様のおられるところにパリサイ人あり。逆に彼らのイエス様に付き従う姿勢、イエス様に注目して目を離さないでいる姿勢、関心は大したものです。
それにしても、安息日であるこの日、パリサイ人たちはこんなことをしていて良かったのでしょうか。確か安息日には歩いて良い距離が決められていたように思います。「安息日の道のり」という表現も聖書の中にあります。つけ回すことは律法違反とは考えなかったのでしょうか。自分たちはどうなんだという話しです。
12章2節 するとパリサイ人たちがそれを見て、イエスに言った。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」
「まったく、あなたの弟子とやらはこんなことをして。これは安息日律法で許可されていないことではないか。彼らの先生は何を教えているのやら。顔を見てみたいものだ」と言わんばかりに、イエス様を真っ向から非難したのです。それに対してイエス様は、聖書に記されているダビデのしたこと、神に関する歴史的事実を思い出しなさいとして答えられます。
12章3節 しかし、イエスは言われた。「ダビデと供の者たちが空腹になったときに、ダビデが何をしたか、
12章4節 どのようにして、神の家に入り、祭司以外は自分も供の者たちも食べてはならない、臨在のパンを食べたか、読んだことがないのですか。
「読んだことがないのか」。パリサイ人たちは旧約聖書に通じていながら、サムエル記第一21章にある歴史的事実を通して示されている神の原理に盲目であったことを指摘します。「あなたがたは見てはいるが見ていない。聞いているが聞いていない。自分の都合の良いところだけしか見ない、聞かない。自分の都合の良いように解釈してしまっている」。私たちも本当に気をつけなければならないところです。
旧約聖書に示されている神の霊的原理によれば、神に供えられたパンを食べることは祭司にしか許されていないのだけれども、緊急に必要な時には、そのような儀式的な規定を破ることも許されるのです。それでイエス様は、安息日を儀式的に守ることよりも、人間の緊急の必要を満たすことが優先すると主張したのです。
12章5節 また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日を汚しても咎を免れる、ということを律法で読んだことがないのですか。
また「読んだことがないのですか」と言われています。パリサイ人たちは安息日には働くことはいっさい禁じられていると言いますが、礼拝に奉仕する祭司だけは神殿で働くことが許されています。パリサイ人たちのように厳密に言えば安息日の規定を破っていることになります。しかしこれは、安息日の主、安息日の目的である神を礼拝すること、また神を礼拝する一人一人が神からの恵みを受けるために欠かせない奉仕です。神を愛し、隣人を愛するために必要な奉仕、労働です。
「読んだことがないのですか」、その意味が分かりますか。イエス様は言われます。安息日の本来の目的は、労働を禁止することにあるのではなく、神を礼拝することにあるのだと。そして神を礼拝する一人一人が神の恵みを受けることにあるのだと。従って、いたずらに、必要以上に文字にこだわるようにして安息日を守ろうとするのは誤りであると、イエス様は主張しておられるのです。
12章6節 あなたがたに言いますが、ここに宮よりも大いなるものがあります。
あなたがたの目の前に今、宮よりも大いなるものがここに【ある】。「ある」とはとても重要な語です。「エゴー・エイミー、I am」「わたしはある」。神ご自身がご自身を指してそう呼ばれる。「エゴー・エイミー、I am」「わたしはある」「わたしはそれである」「わたしはいる」。イエス様はここでご自分について宣言しておられます。イエス様は安息日であるこの日、パリサイ人たちにご自身を本当の意味で見出すようにと、有名で偉大なみことばを投げかけ、主の宣言を受け入れるようにと励まし導いておられるようです。
12章7節 『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、咎のない者たちを不義に定めはしなかったでしょう。
イエス様は旧約聖書のホセア書6章6節を引用し問いかけておられます。同じホセア書のみことばが、すでに9章13節のところで言われていました。「『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです」(マタ9 13)。行って学びなさいと言われたのに、彼らはイエス様をつけ回していたにもかかわらず、頑なに学んで来なかったのです。
「わたしが喜びとするのは真実の愛である」。わたしが喜び、心地よいと感じ、受け入れることができるのは、あなたがたの真実の愛である。「真実の愛」とは、隣人に対する慈悲、憐れみ、同情です。そして「いけにえ」とは、結局のところ動物を屠り、ズタズタに切り裂き、殺すということです。隣人を罪ありとして殺すこと。神はそれは喜ばれない、受け入れることはできないと。そのような神を知っていたなら、あなたがたは「咎のない者たち」、別訳では「罰する必要のない者たち」を罪ありとはしなかったであろう。もしパリサイ人たちが聖書、律法を正しく悟っていたならば、弟子たちが空腹でいたのをあわれんだはずであり、本当は律法で許されており、潔白である彼らを罪ありとはしなかったであろう。
12章8節 人の子は安息日の主です。」
マルコの福音書では、「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません」ということばが付け加えられています。神が6日間で世界を創造されたのも、7日目に休まれたのも、7日目の安息日を祝福したのも、安息日を聖なるものとされた(ご自分のものとして取り分けられた)のも、すべて私たち人間のためであると言うのです。私たち弱い人間のために定められた神の命令、ルールです。先日のレディスランチョンのテーマは「幸せのルール」でした。ゲストに来られた浜岡典子さんの代表曲でもある「幸せのルール」という歌の歌詞には「幸せのルールは、愛」と歌われています。その通りだと思わされます。神ご自身が「わたしも休むから、みんな休みなさい。大丈夫だから、一旦重荷、労働から解放されなさい」と命令される。ルールを定められる。休まざるを得ない。これほど強力で愛とあわれみに満ちたルールはあるでしょうか。もし世の会社のトップが同じことをしたら、社員全員従うのではないでしょうか。自分たちは大切にされているなと。また休み明けから会社のために頑張ろうと。しかし考えて見ると、神は眠ることもなく、まどろむこともないお方です。「あなたを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない」(詩1213-4)と詩篇の記者は歌います。そのお方が、「わたしも休むから、大丈夫だから、みんな休みなさい」と言われる。愛です。恵みです。
だからと言って、イエス様は決して安息日をおろそかにしても良いと言われたのではありません。パリサイ人のように表面的な意味で安息日を守るのではなく、神が定められた本来の意味に立ち返って守るべきであると言っておられるのです。安息日は神が人のために定められた祝福の日。安息日は一旦重荷を降ろし、労働から解放され、私たちが人間としての尊厳、自分が神の目に高価で尊い存在であることを神にあって思い出す日。そしてそのことを神に感謝し、神をほめたたえる日です。神の愛に応えて、神を愛する日です。その人が本当に神を愛していることは、その人が隣人を愛することによって分かるのだとイエス様は言われ、またパウロを通して聖書は言っています。
パリサイ人たちは、自分たちも含め、すべての人が神のあわれみを受けていることを知らなかった。イエス様を通して知ろうとしなかった。安息日を造られた愛とあわれみに満ちておられる神ご自身が、今自分たちの目の前にいるのに、その方を逆に問い詰めたのです。
12章9節 イエスはそこを去って、彼らの会堂に入られた。
しかしイエス様は、ご自分を問い詰めるパリサイ人たちと対決し、彼らを挑発することを避けられました。無益な言い争いを避けてそこを立ち去られ、彼ら(パリサイ人)の会堂に入られました。そこにはパリサイ人の影響を大きく受けている多くの人たちが集まっていました。イエス様は明らかに意図があって多くのパリサイ人仲間が集っている所に入られ、そこで何かを教えようとされました。
12章10節 すると見よ、片手の萎えた人がいた。そこで彼らはイエスに「安息日に癒やすのは律法にかなっていますか」と質問した。イエスを訴えるためであった。
彼らはイエス様を訴えるために、片手の萎えた人をわざわざ連れて来て質問したのです。「片手が萎えた人」とは、手が麻痺した状態でしたが、すぐに治さなければいのちに関わるというものではありませんでした。彼らはイエス様を訴えるために質問するのです。つい今し方、イエス様はダビデの例を取り上げて、安息日を儀式的に守ることよりも、人間の緊急の必要を満たすことが優先すると主張しました。そこで、安息日が終わってから癒やしても良い病を、もし今癒やしたら、今度こそ安息日を犯しているとイエス様を訴えることができると彼らは考えたのです。今度はイエス様は、彼らの訴えが間違った隣人に対する価値判断から出ていることを指摘され、穴に落ちた一匹の羊の喩えで彼らに問い返します。
12章11節 イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうちのだれかが羊を一匹持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それをつかんで引き上げてやらないでしょうか。
ルカの福音書では、「自分の息子や、自分の牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者が、あなたがたのうちにいるでしょうか」と問い返しておられます。当時の井戸は大きく深いものでした。螺旋状に道が作られ、大きな水を運ぶ入れ物を担いで、または家畜に背負わせていのちをつなぐ水のある深い穴の底まで水を汲むために下りて行きました。途中で道を踏み外して転落してしまう危険もありました。しかしそれは死に直結する事故ではないかもしれません。けれども目の前を滑り落ちていく何か。それが自分の羊、牛、ましてや自分の息子であったなら、安息日だからと言って「おやおや」と見て見ぬ振りなどできますか。きっとあなたがたはそれらを憐れんで、掴もうと慌てて手を伸ばすだろうし、掴んだならば必死に引き上げようとするのではないか。マルコの福音書では、それでも黙っている彼らを「怒って見回し、その心のかたくななのを嘆かれた」(マコ35)と記されています。主は悲しみ嘆かれたのです。
12章12節 人間は羊よりはるかに価値があります。それなら、安息日に良いことをするのは律法にかなっています。」
「安息日に良いことをするのは律法にかなっている、正しいのだ」というイエス様のことばは、イエス様の思想を端的に表しています。それは神の思想そのものでもあります。一人一人のいのちを愛され、慈しまれ、大切にされているという思想。「あなたはわたしの目に高価で尊い」という思想。
もし彼らが安息日に羊を生かすのが正しいと考えるなら、羊よりも尊い人間を生かすことも正しいはず。目の前にいる病人、弱い人、困っている人に何もしないことは、あなたがたであっても間違っていると分かるだろうという論理です。
12章13節 それからイエスはその人に「手を伸ばしなさい」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は元どおりになり、もう一方の手のように良くなった。
イエス様は片手の萎えた人の手をその場で癒やされました。このことを通して、安息日の真の意味を教えられました。
「萎えた手」とありますが、これは直訳すると「枯れた手」です。萎えた手、枯れた手にもう一度いのちを通わせる。安息を与え、人を憩わせ、リフレッシュさせ、これまでの労苦を労い慰め、そしていのちを回復させられる。もう一度再びいのちを通わせる。これこそ安息日に真の意味。罪によって苦しみ、傷ついている人が、安息日の主なるイエス様にあって癒やされ、再びいのちを得るという幸いをともに喜ぶ。これこそ安息日の真の意味。
もしかしたら私たちは、安息と聞いて、ユダヤ教のシナゴーグの人たちのように、その日には何かをしない、自分さえ良ければという風に考えてしまっているのかもしれませんが、本当は何をしたら神が最も喜ばれるかという面から考えるべきなのではないでしょうか。「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」(出208)の積極的理解を、安息日の主が私たちに与えておられる。何かをしないようにしようではなく、神を愛し、隣人を愛し、私に何ができるだろうかと考える。そのようなことを覚えながら、安息日の礼拝に臨みたいと私自身思わされています。
12章14節 パリサイ人たちは出て行って、どうやってイエスを殺そうかと相談し始めた。
イエス様の説き明かしを聞いても、なお頑なな彼らは、イエス様を訴えるどころか、殺すための計画を議論し始めるのです。彼らはイエス様に対する敵意をますます強め、「どのようにしてイエスを殺そうか、滅ぼそうか。イエス一派をどうしたら滅ぼせるか」と相談しました。
12章15節 イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。すると大勢の群衆がついて来たので、彼らをみな癒やされた。
ここでもまた、イエス様はこの危機にあたってパリサイ人たちをさらに挑発することを避け、そこを立ち去られました。弟子たちに「一つの町で人々があなたがたを迫害するなら、別の町へ逃げなさい」(1023)。そう言われた原則にイエス様ご自身従われたのです。
そしてそれは、イザヤの預言にかなうことでした。やがて異邦人にまで、癒やしと福音が伝えられることになるのです。イエス様は無益な争いを避けてそこを立ち去り、さらに多くの人を癒やされました。ご自分を無にして、低くし、みじめに敗北するようにしてまでも弱い者、貧しい者をなお救おうとされるお方。そのようなお方に人々はついて行ったのです。そしてそのようなイエス様を信じる信仰によって癒やされたのです。
12章16節 そして、ご自分のことを人々に知らせないように、彼らを戒められた。
12章17節 これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。
12章18節 「見よ。わたしが選んだわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は異邦人にさばきを告げる。
12章19節 彼は言い争わず、叫ばず、通りでその声を聞く者もない。
12章20節 傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともない。さばきを勝利に導くまで。
12章21節 異邦人は彼の名に望みをかける。」
「しもべ」と訳されているギリシヤ語は「子ども」という意味をも持つ語です。そして「愛する者」とは父なる神の最愛の人、最愛の子ども、つまりキリストの称号です。神はイエス・キリストの上に神の霊を注がれました。ヨハネからバプテスマを受けた時にです。神の霊、聖霊、それは神の心、神の親心、愛です。その親心、愛をもって、すべての神の子とされる人々にさばきを告げる。神の決定、判断、判決を宣言する。神の決定、判断、判決とは何でしょうか。罪を言及し責め、厳しくさばくことでしょうか。
神はイエス・キリストをすべての罪人の身代わりに十字架に架け、罪とともに完全に葬られ、そして3日目によみがえらせました。そのことを信じるならば、信じるすべての人のすべての罪は赦され、帳消しにされ、無罪放免、ただ恵みによって神との関係を回復してくださり、神の子の身分にまでしてくださる。永遠のいのち、神とともに永遠に生き生きと喜んで生きられる人生を与えてくださる。それが父なる神が下した決定、判断、判決です。
しかしこのイエス・キリストは、大声で自己主張することもなく、むしろ穏やかで、弱っている人や傷ついている人々を助けるお方。イエス・キリストは反対者たちと争ったり、騒動をあおったりもしない。通りでその声を聞く者のない。騒ぎを起こす軍事的革命家ではありません。神の役に立たない傷んだ葦のような私たち、くすぶって消えるばかりになっているような私たちの心の灯を消えないように守ってくださるお方。慈しみの御手をもって、灯芯を、心の真ん中を、私たちの内なる人を優しく包み込み、守られるお方。さばきを勝利に導くまで。私たちが無罪判決を勝ち取るまで。救われるまで。罪人を責め、痛めつけ、滅ぼそうとされるのではなく、愛し、慈しまれ、そして生きることを望まれる主。その愛は、その愛による働きは、なんと不思議にも異邦人にまで広がって行く。私たちは以前に学びましたが、パウロがローマ書で述べているまさにそのことです。世の悪の力を前に、力のない弱いキリストの教えであると思われがちですが、キリストの教えはそれでも消えておらず、キリストの教えによって救われる人々がおり、それはイザヤの預言の成就であり、それはイエス・キリストによってまさしく成就した、成就しようとしているのです。
安息日を覚える今日、安息日の主のみことばに導かれ、その真の意味を、安息日のルールを、そして安息日の主であるイエス・キリストご自身のことを、もう一度思い巡らせたいと思います。そして私たちは主の前に、一切の心の重荷を降ろし、落ち着いて、すべてを主に委ね、神、主を愛し、御声に聞き従い、幼子のように主にすがる者でありたいと思います。安息日は、神が人の為に定めた祝福の日。安息日は、人間としての尊厳、自分が神の目に高価で尊い存在であることを、神にあって思い出す日。この安息日に対して、安息日の主に対してどのような態度を取っている私たちであるのか、今一度省みたいと思います。主はまことに良いお方であるのに、私に良いことをしてくださるのに、なおも聞き分けのない子どものように、思春期反抗期の子どものように、主の前で大騒ぎをして、あるいはふてくされて、無視して、主を訴える者となってはいないだろうか。それでもそのような私たちに、主はあわれみを注ぎ続けられる。赦しの御声を聞かせ続けてくださる。それでも主は、私たちを最後まで愛し抜いてくださるのです。この主の愛に、私たちはどうしたら応えることができるのでしょうか。安息日を愛し、主への礼拝を大切にし、主にあって私たち自身が癒やされ、再びいのちが注がれ、回復し、そしてそのことをともに喜び合う。その喜びを、自分たちさえ良ければそれで良いというのではなく、主の赦しの御声を周りの人々に、諸国の民に宣べ伝えることではないでしょうか。