2021年3月21日 主日礼拝「恵みの勝利」

本日の聖書箇所

ローマ人への手紙5章12〜19節

説教題

「恵みの勝利」

今週の聖句

こういうわけで、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。

ローマ人への手紙5章19節

訳してみましょう

2078 The ravens brought him bread and meat in the morning and bread and meat in the evening, and he dark from the brook.

2079 How has God provided for your needs in surprising ways? How has this deepend your trust in Him?

礼拝式順序

開 祷
讃美歌  12番「めぐみゆたけき主を」
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  136番「血しおしたたる」
聖 書  ローマ人への手紙5章12節〜19節
説 教  「恵みの勝利」佐藤伝道師
讃美歌  495番「イエスよこのみを」
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷


動画はこちら 

https://youtu.be/1D-1VN5Oyrc

説教「恵みの勝利」

ローマ人への手紙5章12〜19節

 「親は子に似る」と言われますが、本当にそうだと思います。親から子を見るなら、自分に似て欲しくないところほど似てしまっているなんてことがあります。けれども忘れてならないことは、良い面もしっかり似ているのだということです。私たちはとても謙遜ですから(笑)、口には出さないにしても、こういうところは自分に似ていて良かったと思うところが一つや二つあるのではないでしょうか。ですが、こういったことは、ただ血のつながりよるものなのでしょうか。アニメの魔女の宅急便の中で主人公のキキという少女がこう言っていました。「魔女は血で空を飛ぶのだ」と。アニメの世界でのことですから良い例ではないのですが、言いたいことは分かると思います。不思議なもので、血のつながりによって引き継がれるものがある。それもあるでしょう。しかしそればかりではないと思います。親の姿を見て子は育つとも言われますし、親が教えたり、わざわざ教えなくても、親の考えや行動を見て教えられ、それに倣って行く。そんなこともあるでしょう。成長する過程の中で、色々な人と接し、その関係の中で形成されていくものもあると思います。人というのは人との関係の中で色々と影響され、自分というものがどんどん確立されていくものなのではないでしょうか。ある偉大な人から影響を受けて、生き方が変わったということもあります。偉大な方。影響を受けて生き方が変えられる。それは私たちにとっては主なる神さまです。

 私たちには、私たちを「我が子よ」と呼びかけてくださる主がおられます。「わたしの兄弟たち」「友よ」と私たちを親しく呼んでくださる主がおられます。このお方から、今朝も恵みをいただき、恵みの影響を大いに受けて、ますます主に似た者とされてまいりましょう。お一人お一人に礼拝を通して主の祝福が豊かに注がれますように。お祈り致します。

 天の父なる神さま、御名を崇め賛美致します。私たちのこれまでを最善をもって守り導いてくださったことを覚えて感謝致します。その歩みの中で、神さまの愛と信頼に十分に応えられなかった自分自身を覚えます。どうぞ全能なる主がすべてを顧みてくださり、私たちを憐れみ、お赦しくださいますようにお願いを致します。すでにキリストの十字架と復活を信じる私たちは、過去、現在、未来、すべての罪が赦されております。感謝致します。主との平和を頂いている私たちが、心から主を喜び、感謝をもってこの礼拝を進めて行けますようにお守りください。様々な思いが迫ってきますが、すべて主にお委ねし、信頼し、ひたすらにみことばに聞くことができますようにお守りください。聖霊様がお一人お一人に臨んでくださり、主を見上げ、私たちの思いをはるかに超えた主の御心を知ることができますように。私たちの主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。

 パウロはローマ書1章18節以下で罪の普遍性というものを徹底的に示してから、その後で信仰による義認の恵みをこれまた徹底的に語ってきました。5章の前半では、キリストにある者が受ける祝福、恵み、キリストの十字架における犠牲、そして復活に表される神さまの私たちに対する深い愛が示されました。神さまの愛に心が揺さぶられ、感謝と感動の思いが与えられました。あぁ、この神さまを信じよう。そう思わされたところでしょう。しかしパウロはそこで止めないのです。

 パウロがここで取り上げることは、なぜ私たちは、キリストによって真実の救いと喜びを得ることができるのだろうか。遠い地で起こったイエス・キリストの十字架と復活。それが自分たちとどこでどう繋がるのか。現代を生きる私たちであるならば、およそ2000年も前に外国で起こった出来事が、今の私とどこでどう繋がっているのか。どうして私たちの救いとなるのか、あるいは救いとなったのかという、もしかしたら何かのタイミングで誰もが抱く疑問であり、また極めて重要な、決してあやふやにしておいてはならない重大な問題を扱うのです。パウロはこれまで散々、信仰による義というものを語ってきたのに、ここへ来てまた重ねるようにしてこのような話しをするのはなぜなのでしょうか。

 それはやはり、私たちのうちに本物の信仰を確立させるためなのです。

 本物の信仰とは基本的に、理性的なものです。私たちが何かを感じる。何かを信じる。でもその前に、必ず何かを理解しているはずなのです。人間というものは、自分が納得できないものは決して信じないのです。信じようとしない、心の底からは信じることができないのです。そうではないでしょうか。神さまは他の動物とは違う理性的な存在として人間を創造されました。

 確かに私たちに信仰が与えられるのは聖霊なる神さまのみわざです。「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(ヨハ1426)とあるように、聖霊が私たちの信仰を助け導いてくださるそのために、イエス様が語られたみことば、聖書が語る神さまのみことばを私たちに思い起こさせて、歴史とか、私たち自身に起こった出来事と重ね合わせたりして、そこから私たち自身が時には苦しみながらも考えて、納得できるように導いてくださって、そしてただ感情的なだけではない、情熱的だけではない、本物の信仰へと至らせてくださるのです。

 そこでパウロは、私たちの信仰が理性に基づいたしっかりとした、どっしりとした揺るぎない本物の信仰であること、イエス・キリストの十字架と復活がこの私とどう繋がり、どう関係し、どう影響して、確かに私たちは神さまに愛されている存在だ、神さまとの平和をすでに頂いているのだ、今私たちは恵みの中を生かされている本当に幸いな者なのだということを説明するのです。説明を通して、この幸いがどのようにして与えられたのか、その経緯を前回とはまた別の角度から述べるのです。

5章12節      そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、−−−それというのも全人類が罪を犯したからです。

 「そういうわけで」とパウロは始めるのですが、ここだけを見ると前後のつながりが曖昧で、どういうわけなのかが良く分かりません。そして「同様に」という文章の後に別の話しに飛んでしまって、何と同様なのかが出てこないのです。その結論はどんどん読み進めて行って18節になってようやく出てきます。

5章18節      こういうわけで、ちょうどひとりの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、ひとりの義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられるのです。
5章19節      すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。

 11節からの流れを見ると、この12節、18節へと流れるのが自然なのでしょう。けれどもパウロは13節からまたお得意の脱線をするのです。パウロの脱線はどういう時にされるのでしたか。そうです。重要なことを教えるためです。

 結論から先に言ってしまうならば、パウロが今日の箇所ではっきりとさせたいことは、5章1節からの今の私たちが置かれている本当に幸いな状況は、前回見たところの、ただ神さまの深い愛と憐れみ、恵みによって、ひとりのイエス・キリストを通して私たちに与えられている。そのことは実に確かなことなのだということの証明です。

 12節でパウロは、創世記3章の堕落を念頭に置いています。蛇が出てきて「善悪の知識の木からは、食べてはならない」という神さまの命令とエバを利用してアダムを誘惑すると、アダムはその誘惑に負けて罪を犯してしまいました。このことによって、初めて罪がこの世界に入ったのです。ここで初めて罪という名前が付けられてこの世界に侵入してきたのです。名前が付けられるということは、その影響力ある存在が誕生し、認められたということです。アダムがこの時犯してしまった罪は「原罪・オリジナルな罪」とも呼ばれます。その影響力のある罪によって死というものも、また同じように侵入してきました。「こうして死が全人類に広がった」。広がったというのは、ウイルスの感染拡大を意味するような語です。人類の初めであるアダムは神さまの命令に従わず、恐るべき悪影響、罪と死を人類にもたらしました。罪と死が全人類、時代も場所も越えて、今、ここに至るまで伝染病のように広がってしまったのです。その事実は私たちの目にも明らかです。今の世は罪に満ちています。そして例外なくすべての人に死があるからです。

5章13節      というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。
5章14節      ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。

 律法が与えられるまでの時期にも罪は世にありました。すべての人が罪の影響を受けていました。罪人でした。罪を罪と知らずとも、すべての人が死んでいったからです。律法が与えられた後も同じです。すべての人が死んで行ったし、死ぬからです。アダムの罪は実際に脈々と受け継がれて拡大していっているのです。

 罪を犯したのはアダムなのに、なぜすべての人類が同じ罪人とされてさばきを受けなければならないのか。今の時代の個人主義的な考え方によれば、パウロの説明を聞いても納得がいかないと感じるかもしれません。

 ところで、科学の発達によって色々な事実が判明してきています。もともと科学というのは、キリスト教から生まれたものであることをご存知でしょうか。例えば、ガリレオ・ガリレイにとって科学とは、自然界の中に創造主なる神さまのみわざを見いだしていく手段でした。ところがいつしか、科学は信仰を否定しようとするものとなってしまったようです。しかし皮肉なことに、科学の進歩によってDNA調査研究が進み、その結果、「現在地球上にあるすべての人が一対の夫婦から来ている」という事実が判明しました。まさに創世記を証明しているのです。恐らくもっと科学が進歩するなら、もっと聖書が証明されることになるでしょう。それはさておき、DNAが証言しているとおり、すべての人類はアダムの子孫、血縁関係にあるということです。ですから血によって罪の性質が引き継がれている。そう言えるのかもしれません。

 しかし血縁関係ばかりではなく、ひとりの人によって全体に悪影響を与える例は、私たちの周りにいくらでもあります。例えば会社などどうでしょう。会社が悪いことをすれば、いくら会社に善良な人がいようとも、会社全体が悪いことをしているのです。国も同じです。いくら善良な国民がいたとしても、国のトップが率いて悪いことをすれば、国全体が悪と見なされてしまうでしょう。そこで自分だけは悪くないとは言えません。なぜなら、無意識の信仰がないように、無意識の罪もないからです。どこかで罪の意識があるはずです。これくらいは仕方ない、これくらいは赦されるだろう。車のスピード違反などは、皆がスピード出しているから仕方ないとか、このくらいなら大丈夫だろうとか、そのような意識があるのではないでしょうか。大きな組織、会社、国、あるいはこの世に属している限り、罪からは逃れることができません。どうしようもなく罪を犯してしまうのです。人間の弱さです。罪の力がこの世を支配しているからです。神さまの愛と信頼に応えて生きたいと願いつつも、この世に属している限り、どうしても完全には応えきれないのです。律法を完全に守り行える人などいないのです。そのように、人間は罪と死を解決するために何もできず、完全に無力で無能なのです。そんな哀れな状態の人間を憐れみ、神さまが直接介入して罪と死の問題を解決してくださったのです。くださっていたのです。神さまは、ご自身で造られた初めのアダムによって入って来た罪と死を、冷たく黙って見ておられはしなかったのです。その反対です。胸を焦がして人類に目を注いでおられました。罪と死の支配によって苦しめられている人類を憐れんで、解決するために、神の子イエス・キリストを人類の代表として世に遣わされることをご計画なさっていたのです。この世が少し良くなったからではありません。ますます罪に満ちて悲惨な状態にあった時に。ここに神さまの愛があるのです。

5章14節      アダムはきたるべき方のひな型です。

 アダムはきたるべき方のひな型です。きたるべき方とは、神さまが罪に満ちた世に、人類の代表として遣わされたイエス・キリストです。ひな型であるというところを、他の訳では「実にアダムは、きたるべき方を前もって表す者だったのです」と言っています。アダムというのは、最初の人間として旧約聖書に登場するのですが、その時からずっと、やがて来られる救い主のことを前もって指し示すような存在だったというのです。

 しかし、アダムがイエス・キリストの単なるひな型ではないことは明らかです。むしろここでアダムとイエス・キリストが並べられていることの目的は、ひとりの人アダムによって罪が入り、そのアダムの罪によって今やすべての人が罪の支配下にあり、死がすべての人に広がってしまっているという現実を、ひとりのイエス・キリストがすべて解決してくださったという、罪と救いの対比を鮮やかに描き出すためなのです。ひとりの人から始まった罪の解決を、ひとりの人がすべて成し遂げてくださった。このことをはっきりと示すために、パウロは繰り返しアダムとイエス・キリストを対比するのです。

 15節からはその比較によって、イエス・キリストによる救いの影響力の確実さ、また素晴らしさを描き出して行きます。

5章15節      ただし、恵みには違反の場合とは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。
5章16節      また、賜物には、罪を犯したひとりによる場合と違った点があります。さばきの場合は、一つの違反のために罪に定められたのですが、恵みの場合は、多くの違反が義と認められるからです。
5章17節      もしひとりの違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりのイエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。

 15節に「恵み」とありますが、これ何を意味しているのでしょうか。原語を見ると「カリスマ」となっています。「カリス」とは「恵み」のこと。与えられるにふさわしくない者に与えられるもののことです。このカリス、恵みの受け身形が「カリスマ」です。カリスマ美容師なんて言いますが、本来は神さまから特別に恵みとして賜物が与えられているということです。また「カリス」には「愛顧、贔屓」という意味もあるのです。神さまから特別に愛されている。正に私たちキリストにある者たちが本物のカリスマです。カリスマクリスチャンです。

 私たちキリスト者に与えられた恵み。神さまが恵みによって与えてくださった賜物、プレゼント、無償の贈り物。それはイエス・キリストです。そしてイエス・キリストというプレゼントの中身はすでに3章24節で語られている「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」というものです。このイエス・キリストの十字架の贖いを通して与えられる救い、罪の赦し、神さまの怒りが宥められて完全な平和な関係。贔屓されているとしか思えないほどに愛されている。それこそがカリスマ、私たちに与えられた恵み、恵みの賜物です。

 パウロは「アダムと違反」、そして「イエス・キリストと恵みの賜物」を繰り返して対比します。

 恵みの賜物、プレゼントは、罪のプレゼント「死」とは比較にならない。ひとりの人アダムの罪によって多くの人が死ぬことになったけれども、たった一度のイエス・キリストの十字架と復活によって、イエス・キリストひとりを通して、もっと多くの人に豊かに注がれることになったし、注がれることになるのだから。

 恵みのプレゼントは、罪を犯したアダムによってもたらされたようなものではない。アダムの裁きの場合は、一つの罪で有罪の判決が下されて楽園、パラダイスを追い出されてしまったけれども、イエス・キリストの十字架と復活は、私たちが歩み出した罪が支配するこの世で、否応なくどんどん増し加わってしまったたくさんの罪があったにもかかわらず、そのすべての違反に対して無罪の判決が下されて、イエス・キリストが待っておられるパラダイスに再び入ることが赦されることになったし、赦されることになるのだから。

 もしアダムの罪によって、アダムを通して死が世の絶対王者となって支配し、影響を免れなくさせられたとすればなおさらのこと、神さまの恵み、プレゼントをこれほど豊かに受けている私たちは、十字架と復活によって罪と死に完全に勝利されたイエス・キリストが、私たちの人生すべてを支配してくださっているのだから、今から永遠に至るまで、何があっても生き生きと喜んで生きることができるようになったし、できるようになるのだ。

 ここでパウロが私たちに伝えようとしている中心は何だと言えるでしょうか。神さまの恵み、恵みの賜物の絶対的、圧倒的勝利です。逆転勝利です。そのこころは、今、イエス・キリストがたった一度の十字架と復活によって、すべての罪と死に完全に打ち勝ったこと。そのために今、これまでは否応なく私たちを支配し恐ろしく悪い影響を与えていた罪と死に変わって、イエス・キリストの恵みの賜物が私たちの内に否応なく満ちあふれて確かに素晴らしい影響を与えてくださっているという事実です。私たちは恵みの中に、恵みによって生かされているという本当に幸いな、飛び上がりたいほどの喜ばしい事実です。

 私たちはみな、誰一人として例外なく罪のもとに生まれてきた者たちです。生まれながらにして罪人でした。その起源を辿れば、最初の人アダムの違反に辿り着きます。そしてその罪の影響からは本来ならば誰一人逃れることができないものです。罪と死の支配に対しては全くの無力な私たち。それにもかかわらず、神さまはご自身の御子イエス・キリストを与えてくださり、この一人のイエス・キリストの義の行い、十字架の贖いによってのみ私たちの罪の赦しを勝ち取り、私たち罪ある者をそのままに義と認めてくださった。これこそが神の恵みの賜物です。私たちはこの恵みの賜物を受けるにまったく価しない者であったにもかかわらず、今やこの恵みの賜物をイエス・キリストの十字架と復活を通して受け取り、神さまとの平和な関係の中に入れられ、神の子とまでされている。これこそが私たちの今の現実の、間違いのない姿なのだ。そうパウロを通して神さまが語ってくださっているのです。

5章18章      こういうわけで、ちょうどひとりの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、ひとりの義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられるのです。
5章19節      すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。

 アダムの違反、不従順とは何だったでしょうか。神さまの命令を完全に正しく聞くことができず、曲げて聞いてしまい、それ故に神さまの命令に従い通すことができなかった。自分を愛するあまり、神さまを犠牲にしてしまったのです。私たちはそれに倣う者となってしまいました。そのような強力な力が働いたのと同じ様に、いやそれ以上にとパウロは言います。

 キリストの正しい行為とは何だったでしょう。神さまに対する、また神さまの命令、みことばに対する徹底した従順でした。十字架の死にまで従い通す従順でした。自己犠牲でした。このキリストの従順、十字架と復活によって強力な力が働いて、私たちは神さまに喜ばれる良い存在となり、そして私たちはイエス・キリストに倣う者とさせて頂いているのです。

 確かめておきたいことは、義と認められるすべての人、また多くの人というのは、このひとりのイエス・キリストを通して義とされた人のことです。唯一、イエス・キリストを通してのみ与えられる神の恵みの賜物を受け取る人のことです。そして私たちは恵みによって、イエス・キリストを通して神との平和を得ています。イエス・キリストを通して罪と死から救い出され、新しく生まれ変わり、神の子とされ、永遠のいのちをいただき、その名がいのちの書に記されるという祝福、プレゼントをいただきました。恵みが注がれることも、プレゼント、賜物が与えられることも、すべて神さまの御手によるものです。ただひとりのイエス・キリストを通して神さまが手渡してくださったことです。私たちは何もする術がありませんでした。感謝して受け取ることしかできませんでした。このようにして恵みの賜物が与えられた経緯を理解するにつれて、それをなしてくださった神さまの恵みの大きさを、私たちはますます悟らされていくのではないでしょうか。

 私たちは今、私たちが置かれている幸い、イエス・キリストのいのちによる支配、影響のもとに生かされていることを本当に実感しながら生きているでしょうか。罪や死に対して絶対的、圧倒的勝利をおさめられたイエス・キリストが私たちの主であるにもかかわらず、私たちの思いが、いまだ罪と死の支配を受けているから仕方ないと思って諦めているところはないでしょうか。何かエラーが起こっても、神さまはすべてを義と認めてくださる、最後にはすべてを益としてくださることを信じているでしょうか。

 思いは行動を支配するものです。思いは行動に影響してきます。キリストの恵みがあると考えるだけで、アダムのように罪と死をもたらすように生きるのではいけません。キリストの恵みを存分に味わい、喜び、感謝して生きるために、私たちはここでまた改めて恵みの賜物が与えられた経緯、方法が理解できるように、聖霊なる神さまに助け導いていただきましょう。そして私たちの信仰を確信に満ちたものとしていただき、イエス・キリストの十字架はまことに私のためであったと、イエス・キリストの十字架を通して表された神さまの愛は、まことにこの私に注がれているのだと、心から喜んで、感謝して歩む者とさせていただきましょう。実に十字架にまで従われたイエス・キリストに倣う者とさせていただき、神さまのみことばに従順に歩んでまいりましょう。喜びと感謝に満ちた私たちの思い、そして行動が、回りの多くの人々に影響を与えます。私たちはカリスマ美容師ならぬ、カリスマクリスチャンです。私たちに与えられている賜物は自分はもちろんのこと、他の人の益となるために用いてこそ神さまに喜ばれるものです。一人の人の罪によってすべての人が罪人になってしまったのと同様に、一人のカリスマクリスチャンによって多くの人が義と認められ、いのちに至るようになるのです。私たちは今日からも、神さまの栄光を表して行く者でありたいと願います。

 お祈りを致します。

 天の父なる神さま、御名を崇め賛美致します。みことばを感謝します。イエス・キリストの十字架と復活がまことに私たちのためであったこと、そして私たちの救いが確実なものであることを心から信じることができますように、聖霊の助けを頂き、天からの知恵と理解力をもって導いてくださいますようにお願いを致します。心からの信仰と、心からの感謝と喜びをもって、今日からの歩みも神さまの栄光を表してくことができますようにお守りください。感謝して主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

コメントを残す