2024年8月25日 主日礼拝「信仰と悔い改めによってもう一度立ち上がる」
礼拝式順序
賛 美 新聖歌196「祈れ物事」
新聖歌197「祈りの園生を」
前奏(黙祷)
招 詞 詩篇23篇1〜6節
讃 美 讃美歌67「よろずのもの」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白 讃美歌566「使徒信条」
主の祈り 讃美歌564「天にまします」
祈 祷
讃 美 讃美歌124「みくにをも宝座をも」
聖書朗読 マタイの福音書26章17〜25節
説 教 「信仰と悔い改めによってもう一度立ち上がる」
讃 美 讃美歌252「主よ、今わが身は」
献 金 讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報 告
今週の聖句 ローマ人への手紙12章11〜12節
頌 栄 讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝 祷
後 奏
本日の聖書箇所
マタイの福音書26章17〜25節
説教題
「信仰と悔い改めによってもう一度立ち上がる」
今週の聖句
勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。望みを抱いて喜び、苦難に耐え、ひたすら祈りなさい。
ローマ人への手紙12章11〜12節
説教「信仰と悔い改めによってもう一度立ち上がる」
マタイの福音書26章17〜25節
皆さんはイエス様を信じてクリスチャンになられて何年になるでしょうか。イエス様の弟子となられてどれくらい経たれたでしょうか。何ヶ月、何年、何十年、生まれた時から、様々な方がおられると思います。使徒と呼ばれる12人の弟子たちは、この時イエス様の弟子となっておよそ3年〜3年半、イエス様とともに歩んで来ました。この3年という期間はどうなのでしょう。昔ヒットした歌謡曲で「3年目の○○」という歌がありました。教会にはあまりふさわしくない歌ですが、しかしもし「3年目の霊的姦淫(偶像崇拝)」なんてタイトルだったらどうでしょう。それはともかく、人間というのは慣れた頃に色々とエラーが起こってくるものです。ベテランばかりではありません。今年入社した新入社員などは、入社から数ヶ月経った今ごろ、会社や仕事に少し慣れてきた頃でしょう。そろそろ先輩から独り立ちして1つの仕事を任されるなんてこともあるでしょう。慣れることや指導者から離れることでポカミスといったような悪い事も起こってきます。そのように人間が起こすミス(ヒューマンエラー)、失敗は慣れた頃が一番危ないと言われています。慣れによる思い込み。肉体的・精神的な疲れを感じ出すのも慣れた頃。慣れによる見落としや確認忘れなどの不注意、判断ミス、手抜き。慣れによって現場の雰囲気に流されてしまうなんてこともあるでしょう。慣れによって適切なコミュニケーションがとれていなかった。慣れによる連絡不足。予測できない事態が起こるのも慣れた頃だったりします。いつの間にか感じていた過度のプレッシャーに押しつぶされるのも慣れた頃。慣れた頃にこのようないくつもの原因が重なって起こってくるミス、失敗。
私が学ばせていただいた新潟聖書学院ですが、かなり昔に1度全焼してしまったことがありました。きっと誰のせいだとか言う詮索や、自分が原因ではありませんようにという切実な祈りもあったでしょう。幸いと言いますか、原因は誰か1人のヒューマンエラーではなく、電気配線の漏電という予測できない事態によるものだったのですが、やはりそれも慣れた頃に起こった突然の出来事で、信仰者であってもなかなかそこから再び立ち上がるのには難しさを覚えたと思います。ところが、全焼して崩れ落ちた建物の焼け跡から、まるで焼け焦げていないきれいな状態のままの木彫りのみことばの壁掛けが出て来たと言うのです。それは食堂に掛けられていたものだったらしいのですが、そこにはこのようなみことばが彫られていました。「勤勉で怠らず、霊に燃え」。それはローマ人への手紙12章11節の「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい」との1節の一部でした。「草はしおれ、花は散る」。神学校は燃えてしまった。「しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ」(イザ408)。焼け跡からまるで奇跡のように見つかった主のみことば。「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい」。彼らはこれを神からのみことばとしてしっかりと受けとめ、悔い改め、気を引き締め直し、そこからすぐに立ち上がり歩き始めたということです。今でもその壁掛けは食堂に掲げられています。今では半分笑い話のように語り継がれていますが、そのような経験と主のみことばは、今でもそこに集う神学生や教師たちを励まし続けています。大きな失敗を経験し、そこから再び立ち上がらせるのは主のみことば、主の愛、そして主の約束である罪の赦しを信じての真の悔い改めであることを覚えさせられます。失敗を犯してしまった者にとって、主のみことばは時に厳しい叱責のように響いて聞こえてくることもあるでしょう。しかし「世にいるご自分の者たちを愛し、彼らを最後まで愛される」主は、永遠のみことばをもってその人を慰め、励まし、真の悔い改め、軌道修正へと導かれ、そしてそこからその人を再び立ち上がらせ、天の御国に至るまで守り導いてくださるのです。私たちの地上での人生は、その繰り返しなのかもしれません。
さて、1週空きましたが、再びマタイの福音書26章を進めてまいりましょう。26章のはじめでイエス様はこのように言われました。「あなたがたも知っているとおり、二日たつと過越の祭りになります。そして、人の子は十字架につけられるために引き渡されます(裏切られます)」(262)。そして26章17節から、いよいよ種なしパンの祝いの初日の出来事が記されていきます。これは、イスラエルの民が神によってエジプトから脱出することができたことを記念して行われる「過越の祭り」を指しています。この祭りは1週間行われましたが、ユダヤ人たちはこの1週間、パン種(イースト菌)を入れないパンを食べたので、種なしパンの祭りとも呼ばれていました。その第一日目の夜、ユダヤ人は家族揃って、神の定めに従って特別な食事をします。これが「過越の食事」です。
26章17節 さて、種なしパンの祭りの最初の日に、弟子たちがイエスのところに来て言った。「過越の食事をなさるのに、どこに用意をしましょうか。」
26章18節 イエスは言われた。「都に入り、これこれの人のところに行って言いなさい。『わたしの時が近づいた。あなたのところで弟子たちと一緒に過越を祝いたい、と先生が言っております。』」
26章19節 弟子たちはイエスが命じられたとおりにして、過越の用意をした。
ユダヤの慣習によると、過越の食事を用意するのはグループのリーダーであるイエス様の責任でした。イエス様は何も準備をしていなかったわけではなく、弟子たちの知らないところですでにその段取りをしておられました。マルコの福音書14章12節からを見てみましょう。
【マルコの福音書】
14章12節 種なしパンの祭りの最初の日、すなわち、過越の子羊を屠る日、弟子たちはイエスに言った。「過越の食事ができるように、私たちは、どこへ行って用意をしましょうか。」
14章13節 イエスは、こう言って弟子のうち二人を遣わされた。「都に入りなさい。すると、水がめを運んでいる人に出会います。その人について行きなさい。
14章14節 そして、彼が入って行く家の主人に、『弟子たちと一緒に過越の食事をする、わたしの客間はどこかと先生が言っております』と言いなさい。
14章15節 すると、その主人自ら、席が整えられて用意のできた二階の大広間を見せてくれます。そこでわたしたちのために用意をしなさい。」
14章16節 弟子たちが出かけて行って都に入ると、イエスが彼らに言われたとおりであった。それで、彼らは過越の用意をした。
当時は、普通水がめは女の人が運んでいましたから、男の人が運んでいるその姿はすぐに目についたことでしょう。また、ルカの福音書によると、準備のために遣わされたのは、弟子の中でも年長者でありリーダー格であったペテロと、一番年の若かったヨハネの2人でした。2人は席が整えられて用意のできた大広間で、過越の食事の用意をしました。
26章20節 夕方になって、イエスは十二人と一緒に食卓に着かれた。
26章21節 皆が食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ります。」
26章22節 弟子たちはたいへん悲しんで、一人ひとりイエスに「主よ、まさか私ではないでしょう」と言い始めた。
20節に「食卓に着かれた」とありますが、この「着かれた」という語は英語で言うと「リクライニング」です。当時の食卓はお膳のように低く、それを囲んでクッションのようなものに寄りかかった姿勢で食事をしました。ペテロとヨハネは過越の食事の準備中、食卓にイエス様を中心にして人数分のクッションを並べながら、自分はこの席かな、アンデレはこのあたりだろうか、ヤコブはどこだろうと、色々と考えながら並べていたのかもしれません。なぜなら、弟子たちの間でこの席順はとても重要だったからです。ルカの福音書22章24節では、恐らくこの席順のことで「自分たちのうちでだれが一番偉いのだろうか、という議論も起こった」と記されています。「偉くなりたい者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい」(2026-27)と弟子たちに教えられたイエス様のみことばを、彼らは覚えていなかったのでしょうか。いや、後になってちゃんと思い起こしたことでしょう。聖書に記録されたのですから。そしてきちんと悔い改めへと導かれたことと思います。罪を悔いて、考え方や生き方を改めたことでしょう。
この席順の問題について、同じ場面でマタイの福音書には記されていなのですが、ヨハネの福音書に記されているところから、色々と気づかされることがありました。ヨハネの福音書13章21節からをご覧ください。
【ヨハネの福音書】
13章21節 イエスは、これらのことを話されたとき、心が騒いだ。そして証しされた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります。」
13章22節 弟子たちは、だれのことを言われたのか分からず当惑し、互いに顔を見合わせていた。
13章23節 弟子の一人がイエスの胸のところで横になっていた。イエスが愛しておられた弟子である。そこで、シモン・ペテロは彼に、だれのことを言われたのか尋ねるように合図した。その弟子はイエスの胸元に寄りかかったまま、イエスに言った。「主よ、それはだれのことですか。」
23節にイエス様の胸のところで横になっていた「イエス様が愛しておられた弟子」というのは、ヨハネ自身でした。食卓では左腕のひじで頭を支え、右手を伸ばして食べ物を口に運ぶスタイルでした。ヨハネがイエス様の胸元に寄りかかっていたということは、当然イエス様のすぐ右隣に着かせられていたということです。主役の右側の席は最も重要な人が着く場所。そしてそのヨハネにペテロは「誰のことを言われたのか聞け」と合図した。目で合図したのでしょうか。その合図にヨハネは気づき、イエス様に「主よ、それはだれのことですか」と尋ねた。と言うことは、弟子たちの中のリーダー格であるペテロが、イエス様とヨハネから一番遠く離れた対局に着かせられていた。末席、入口に一番近い席、皆に仕える給仕役の者が着く席に座らされていた。あるいは末席のあたりに着かせられていたのでしょう。席順をめぐって「自分たちのうちでだれが一番偉いのだろうか、という議論も起こった」(ルカ2224)。席順をめぐって、自分の立場をめぐって、待遇をめぐって、弟子たち皆が心の中でそれぞれに様々な思いを抱き、ペテロなどは何かくさくさとした悪い思いも出てきていたのかもしれません。一緒に過越の食事の準備をしたヨハネがイエス様の右で、どうして年長者でリーダー格である自分はこんな末席なのか。自分は褒められ報われても良いはずなのに。他の弟子たちも、どうして一番年が若いヨハネがイエス様の右隣に着いているのかと、釈然としない思いがあったのかもしれません。そのような中でイエス様は「みんな聞きなさい。はっきり言っておくけれども、あなたたちのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」と言われたら、当然弟子たちは「主よ、まさか私のことでは」と代わる代わる言い始めるのではないでしょうか。「たいへん悲しんで」とありますが、このギリシア語は「自分で自分を悲しませる、悩ませる、苦しめる、心配する、苛立たせる」というものです。皆イエス様を裏切る原因に心当たりがあるからです。
弟子たちがイエス様に「まさか私のことではないですよね」と尋ねたのは、イエス様の「あなたではないよ」という答えを期待してのことでした。しかしイエス様は、はっきりとそうは言われなかったのです。また、弟子たちのうちの一人が確実にご自分を裏切ることはご存知で、きっぱりそう言われましたが、それがユダであるとは直接口にされませんでした。それは最後まで弟子たちを愛し、またユダを愛し、それぞれに悔い改めの機会を与えたかったからでしょう。
26章23節 イエスは答えられた。「わたしと一緒に手を鉢に浸した者がわたしを裏切ります。
過越の食事には、ナッツや果物をすり潰してソース状にしたものを入れた鉢が用意されており、食べ物をそれに浸して食べました。この鉢には弟子たち全員が手を入れて食べ物を浸したので、まだ誰がイエス様を裏切るのか弟子たちには分かりませんでした。ここでは「誰が」が重要なのではなく、「わたしと一緒に手に鉢を浸した者が」が重要なのです。「わたしと一緒に手に鉢を浸した者」というのはユダヤ人の間での慣用句でもありました。1つの鉢でソースをつけて食べるほど親しく、近い人を指す言い回しです。同じ釜の飯を食うのと同じでしょうか。裏切る者は、遠くの人ではなく最も近い人から出るのだということです。ご自分の弟子から裏切り者が出る。イエス様はどんなにか悲しかったことでしょう。
26章24節 人の子は、自分について書かれているとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るその人はわざわいです。そういう人は、生まれて来なければよかったのです。」
26章25節 すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが「先生、まさか私ではないでしょう」と言った。イエスは彼に「いや、そうだ」と言われた。
24節のイエス様のおことばは、厳しい断罪ではありません。「わざわいだ」と訳されていますが、直訳するならば「ああ、残念!」という深い悲しみ、憐れみの思いが込められ発せられたおことばです。しかしイエス様を裏切ろうとしていたユダに、その思いは届かなかったようです。イエス様は最後の最後までユダを愛し、ユダに悔い改める機会を与えましたが、ユダにはイエス様の思いは届かず、ついには悔い改めようとはしませんでした。ユダはすでに心の中でイエス様を裏切る(引き渡す、売り渡す)ことを堅く決めていました。その心を隠してイエス様に確認したのです。ユダは他の弟子たちのようにイエス様を「主」と呼ぶのではなく、「先生(ラビ)」と呼びました。ここにもユダのいつの間にか、心に燃える火が消えてしまっているような、冷えてしまった心表れているように思います。
ユダはイエス様が何も知らないと思っていたのでしょう、「先生、まさか私のことではないでしょう」とイエス様に質問しました。ユダはそれでもどこかで図々しくも「そうではない」というイエス様の答えを期待したのです。イエス様は「いや、そうだ」と言われました。しかしギリシア語を直訳するなら「それは、あなたが言ったことだ」です。それはわたしが言ったことではない。あなた自身が言ったことなのだから、あなたは自らの決意によって悔い改めることはできるよというものなのではないでしょうか。
しかしユダはこの後、イエス様との親しい交わりの輪の中から立ち上がり、イエス様に背を向け、一人部屋を出て行ってしまいました。この後行われるパンと杯の交わりに加わらず、その中で語られる主の十字架で成し遂げられる罪の赦しの約束のみことばを、イエス様のもとにとどまった弟子たちは聞くことができましたが、出て行ったユダは聞くことができませんでした。
考えてみると、裏切り者というのは、自分の目的を達成するためには、どんなひどいことも平気でするような、たちの悪い性格の人物ではないのではないでしょうか。もちろんそのような人も中にはいるでしょう。しかし実際多くの場合、それはテレビドラマや映画の中で描かれる裏切り者の架空の人物像だと思います。実際はむしろ常識があって有能な人であることが多いのではないでしょうか。日本の歴史上で裏切り者と言えば、有名な明智光秀のことを思い起こしますが、彼も政治家としては非常に優秀な人だったようです。ただ、仕えていた織田信長のぶっ飛んだ政策についていけなかっただけという側面もありました。ユダもこの例に漏れず、弟子たちの中でも非常に真面目で、常識人だったようです。そのため、イエス様一行の会計係に任命されていました。イエス様から大事な献金を預かるという責任が与えられたくらいですから、相当な信頼があったことがうかがえます。そのイエス様の信頼を彼は裏切ることになったのはどうしてでしょうか。今日の過越の食事の時にイエス様が「この中の一人がわたしを裏切る」と言われた時も、ヨハネの福音書では、他の弟子たちは皆「自分はあり得ないけれど、ユダもその次くらいにあり得ない」と思ったのだと伝えられています。大きな事件での街頭インタビューなどで「まさか、あの人が・・・」と言われるのを良く見たり聞いたりしますが、ユダ以上に当てはまる人も他になかなかいないのかもしれません。しかし、実はユダはちゃっかり一行のお金を横領していたとも伝えられています。どうしてそんなことをしてしまったのか。慣れがあったからでしょう。慣れた頃が一番危ないのです。最初は感謝をもって、緊張感をもって様々な事を進めるのですが、徐々に慣れてくると感謝も薄れ、緊張が薄れ油断が生じ、遂にはミスをを犯してしまうのです。また、その慣れの中で、イエス様に対する不満、疑い起こってきて、罪を犯してしまうのです。前回も見ましたが、12人の弟子たちの中で唯一のユダヤ人であるという自負。知識も能力も高いという自負もありました。それなのに、ガリラヤ出身の無学な他の弟子たちばかりが重要な場面で用いられ、民の間で注目されている。イエス様も彼らばかりを愛しておられるようだ。こんなにイエス様を愛し、イエス様のことを考え、女の人によって高価な香油が無駄に注がれた時も、それを良かれと思って指摘したら、逆にとがめられてしまった。
主イエス様に対する裏切りとはどのようなことをきっかけに起こり得るのでしょうか。イエス様のお考えが分からない、理解できない、信じられない。31節に「あなたがたはみな、今夜わたしにつまずきます」とイエス様は言われていますが、イエス様に対するつまずきがイエス様を裏切るきっかけとなるのです。つまずきとは何でしょう。「牧師につまずいた」とか「教会につまずいた」とか「あの兄弟姉妹につまずいた」とか言われることがありますが、もの凄く簡単に言ってしまえば、「もう嫌になった」「もううんざり」ということなのかもしれません。同じように、イエス様のみこころが分からない、言われていること、自分に求められていることが理解できない、信じられない、もう嫌になった。自分が今置かれている立場、今置かれている状況が理解できない、信じられない、もう嫌になった、もううんざりだ。心の中の隠れた思いが、イエス様を裏切ることへと繋がっていくのです。そしてその隠れた思いというのは、恐らく誰の心の中にもあるものなのではないでしょうか。それが表に噴出してしまう危険が高まるのは、「慣れた頃」なのかもしれません。はじめは脇目も振らず主を愛し、私たちの思いをはるかに超越した主のぶっ飛んだ御心であっても主を信じ、一切の疑いもなく主のみことばに従って来た。勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えて来た。御心を慕い求めて来た。しかしずっと一緒に歩む長い時間の中で、3年目の○○ではないですが、エラー、失敗が起こってしまう。主のぶっ飛んだ素晴らしい御心、最善、私たちに対する愛を信じられず疑ってしまう。その原因として何が考えられるでしょうか。慣れがあるでしょう。人間が起こすミス、失敗、ヒューマンエラーは慣れた頃が一番危ないのです。慣れによる思い込み。これくらい大丈夫だろうという思い。肉体的もしくは精神的な疲労を感じ出すのも慣れた頃。慣れによる見落としや確認忘れなどの不注意、判断ミス、手抜き。慣れによって簡単に世の雰囲気に流されてしまう。慣れによって主との適切なコミュニケーションがとれていなかった。慣れによる主との連絡不足。祈り不足。それによって予測できない事態が起こり、慌てふためき、罪を犯してしまう。主を裏切ってしまう。
イエス様につまずき、イエス様を裏切ったのはユダばかりではありませんでした。他の11人の弟子たちもまた、イエス様の予告通りにイエス様につまずき、そして裏切ったのです。しかしユダは後悔しましたが悔い改めることはせず、最終的には自ら命を絶ち滅んでしまいました。他の弟子たちは後悔し、後悔にとどまらずに悔い改め、信仰によってイエス様に赦され、そして永遠のいのちを得て再び立ち上がり、そして前進して行きました。ユダは滅び、他の弟子たちは信仰によって再び立ち上がることができた。その差はどこから来たのでしょう。イエス様をメシアとして信じる信仰によって罪の赦しの恵みを受けた者と、そうでない者の違いです。それでもイエス様にとどまった者と、イエス様のもとを完全に離れてしまった者の違いです。イエス様のもとにとどまり、罪の赦しのみことば、約束のみことば、主の叱責、しかし慰めと励ましのみことばを聞いたか聞かなかったかの違いでしょう。
私たちも彼ら弟子たちと同じです。イエス様との歩みの中で、ついつい慣れてしまい、様々なエラーを起こす者たちです。イエス様につまずいてしまう者たち。そして罪を、大きな罪を、失敗を犯してしまう者たちです。しかしそのたびに、私たちは主のみことばに立ち返り、主を信じ、そこからまた立ち上がらせていただく者でありたいと願います。主はそれを望んでおられるのですから。私たちはきっと慣れの中でまたそのような同じ失敗を繰り返してしまうでしょう。しかし何度でも、主の愛にすがって、主のみことばに叱責され、しかし同じみことばによって慰められ、励まされ、主のみことば、約束を信じ立ち上がらせていただく者でありたいと願います。失敗を何度も繰り返してしまう、そのような弱い罪人である私たちが主の前に進み出るときに必要な信仰は、主が憐れみ深い方であること。悔い改める者の罪の代価を贖うために十字架で死なれ、またよみがえられたことです。それを信じて、主のみことば、主の約束、新しい契約、福音を信じて主の前に悔い改めるなら、私たちは罪の赦しの恵みを確信することができ、そこからもう一度力を得て立ち上がることができます。弱い私たちは今日からも、主を信じ、目を覚まし、勤勉で怠らず、霊に燃え、主のみことば、約束を求め、信じ、主のみことばに叱責され、しかし励まされ、軌道修正をしていただき、「どこまでも主に仕える者としてください、天の御国に至るまでどうぞあなたのみことばをもって守り導いてください」と、へりくだり主に祈り求めるでありたいと思います。