2017年8月27日 主日礼拝「主の証人として」

本日の聖書箇所

使徒の働き29章〜

説教題

「主の証人として」

今週の聖句

御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

ヨハネの手紙第一1章7b節
 
 
訳してみましょう。
1921 God’s purpose is not to make us comfortable but conformable—conformable to Christ.
(神の目的は、私たちを快適にしてキリストに似た者に形造らせることではありません。)
1922 Religion may inform and reform, but only Christ can transform.
(宗教は私たちに情報を提供し、私たちを変えるかもしれないが、キリストのみが私たちをすっかり変えることができる。)
 
 
説教メモ
使徒の働きは28章までしかありませんが、29章からは私たち一人ひとりが綴っていくものです。本朝は使徒の働き29章のお話し、「使徒の働き29章を歩む」とはどういうことかをお話ししたいと思います。
 

1.神さまのとき

今日の内容に入る前に、神さまの時とうものを見てみたいと思います。
聖書には「伝道者の書」というものがあります。

天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。
生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。
殺すのに時があり、いやすのに時がある。くずすのに時があり、建てるのに時がある。
泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。
石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。
捜すのに時があり、失うのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。
引き裂くのに時があり、縫い合わせるのに時がある。黙っているのに時があり、話をするのに時がある。
愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦うのに時があり、和睦するのに時がある。
(伝道者の書3:1〜8)

何事にも時があるということを言っています。。
なぜ神さまは今からおよそ2000年前に御子をこの地上にお送りになった、その時をお定めになったのでしょうか。それは当時の時代的背景が大きな関わりがあるのではないでしょうか。新約聖書はギリシャ語で書かれています。ルカのことを学びましたが、彼はギリシャ語に長けていました。ルカが記した書は素晴らしいギリシャ語で書かれています。ギリシャ語は当時の言葉でした。政治形態はローマでしたが、文化はギリシャ文化でした。ギリシャ色一色でした。それが神さまのタイミングと一致しているのではないかと思うのです。ギリシャ語。一つは「便利だ」ということ。イエス様は世界宣教を弟子たちに託しましたが、弟子たちはアジヤからヨーロッパ、そしてローマ、まさに地の果てに至るまで福音を伝達していきました。福音はギリシャ語によって伝達されました。ギリシャ語が用いられました。当時ギリシャ文化が背景にあったということは非常に重要なことでした。もしその時、日本語が世界中に浸透していて、その時代にイエス様が来られていたらどうだったでしょうか。日本語によって福音が伝えられていたらどうでしょう。日本語はとても曖昧な言語です。曖昧でも伝わってしまうのです。しかし神さまのことばを正確に記すには、そんな曖昧な言葉では困ります。ギリシャ語は文法的に非常に厳しく間違いの少ない言語です。単語一つとっても格が何であったり、時制が何であったりと、正確に一つの単語の中に意味を持っています。ですので間違うことがほとんどない言語なのです。ギリシャ語文化が背景の時にイエス様がおいでになったことは、やはり神さまの時だったのでしょう。福音が多くの国に宣べ伝えられて行くきっかけとなりました。
 
私たちはイエス様の証人として生きていきます。

しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
(使徒1:8)

イエス様が言われたこと、その通りになりました。これまで使徒の働きを見て来ました通り、聖霊を受け、12使徒だけでなく他の弟子たちも大胆に福音を宣べ伝え、やがてパウロが救われて、パウロは聖霊の導きによって各地に福音を宣べ伝えました。使徒の働き。使徒行伝です。そして、「地の果てにまで、わたしの証人となります。」このおことばは私たちにも言われています。
 

それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
(マタイ28:19〜20)
それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。
(マルコ16:15)

私たちには「大宣教命令」というものが与えられています。私たちは全世界に出て行って福音を宣べ伝えるのです。イエス様の証人となるのです。
 
 

2.福音の種まき

種は蒔かなければ何もなりません。蒔かなければ芽が出ません。芽が出て来るのは雑草だけ。雑草の勢いはそれは凄いものです。その中で私たちは「福音の種」を蒔いて行かなければなりません。
福音とは何でしょう。パウロが説明しています。

兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。
また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。
私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、
また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。
その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。
その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。
そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。
(Ⅰコリント15:1〜8)

「最も大切なこととして伝えた」こと。それはパウロも受けたこと。また私たちも受けたこと。それはイエス様が聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、そして復活されたことです。そのことを私たちは宣べ伝えて行かなければなりません。それが宣教です。
私たちは自分自身が救われたことを喜んでいます。ですから私たちの宣教によってどなたかが救われたなら、非常な喜びがあるはずです。喜びがあるのですから、宣教は義務などではありません。義務感ではなく、喜びをもって宣教をしていく。それが証人として歩む私たちの歩み方です。
 
ここからもう少し詳しく見ていきます。私たちの罪と、罪からの救いに何が必要だったかということです。
 
 

3.血の価

さて、罪は何色でしょうか。血は何色でしょうか。
罪は緋のような赤色、血は赤色。どちらも「赤い」のです。
これは私が天国に行ったら神さまに聞いてみたいことなのですが、「なぜ神さまは血の価をもって人の罪を赦そうとされたのか?」
神さまは天地の創造の時から人間とはどういう者なのか。その罪深さをご存知でした。罪深い人間のためにご自身の御子イエス・キリストを地上に送ることもご存知でした。そして色々とご準備をなさっていました。

神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。
(創世記3:21)

神さまはアダムとエバのために「皮の衣」を作って着せて下さいました。二人はそれまで裸でした。しかし罪を犯した瞬間、自分が裸であることに気付き、身を隠しました。神さまは二人のために皮の衣を作って着せて下さいました。
動物の毛皮を用いるとは、その動物が犠牲となることです。動物が代わりに血を流しています。
モーセに導かれてエジプトを脱出した際、最初に行ったのが「過越の祭り」でした。それは何を意味していたでしょうか。

主は、エジプトの国でモーセとアロンに仰せられた。
「この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ。
イスラエルの全会衆に告げて言え。この月の十日に、おのおのその父祖の家ごとに、羊一頭を、すなわち、家族ごとに羊一頭を用意しなさい。
もし家族が羊一頭の分より少ないなら、その人はその家のすぐ隣の人と、人数に応じて一頭を取り、めいめいが食べる分量に応じて、その羊を分けなければならない。
あなたがたの羊は傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。
あなたがたはこの月の十四日までそれをよく見守る。そしてイスラエルの民の全集会は集まって、夕暮れにそれをほふり、
その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。
その夜、その肉を食べる。すなわち、それを火に焼いて、種を入れないパンと苦菜を添えて食べなければならない。
それを、生のままで、または、水で煮て食べてはならない。その頭も足も内臓も火で焼かなければならない。
それを朝まで残してはならない。朝まで残ったものは、火で焼かなければならない。
あなたがたは、このようにしてそれを食べなければならない。腰の帯を引き締め、足に、くつをはき、手に杖を持ち、急いで食べなさい。これは主への過越のいけにえである。
その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。わたしは主である。
あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。
この日は、あなたがたにとって記念すべき日となる。あなたがたはこれを主への祭りとして祝い、代々守るべき永遠のおきてとしてこれを祝わなければならない。
(出エジプト12:1〜14)

「二本の門柱とかもいに血をつけなさい。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう」。ここでも動物の血が流されています。
その後、約束の地に入りますと、幕屋では人々が自分たちの罪の贖い為に、祭司のもとに動物を携えてきました。祭司はどの動物を屠りました。そしてその血を神殿の四隅に注ぎました。それによって罪が赦されたことを信じました。それがいけにえでした。そのような旧約の時代は何百年、何千年と続きました。罪が赦されるためには血が必要でした。それは神さまが初めから定めておられたことでした。神さまは罪の解決のために、動物のいけにえ、犠牲を準備してくださっていました。
 
人間の罪の解決、罪の贖いのために、イエス・キリストの血が必要だった。神さまは天地創造の初めから定めておられました。それほど私たちの罪の贖いには血が必要だったということ。血がどうしても必要でした。人間の罪とはそれほどのものなのです。私たちが良いことをした、悪いことをした、そのような次元の罪ではありません。私たちの根本的な罪です。その罪の解決をしなければ誰も天国に入れません。逆に言いますと、どんな極悪な犯罪人であっても、心から悔い改めるのであるならば、神さまはその魂を天国へ迎えてくださいます。しかしその罪の解決が必要で、それには血が必要なのです。血によるのです。私たちが救われる唯一の方法、血による解決を神さまは考えて下さいました。
このような血なまぐさい話し。私たちが福音を語るとき、触れたくはないけれどもどうしても触れなければならないことです。相手に分かっていただかなければなりません。
 

なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。
(レビ17:11)
すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
(ローマ3:23〜24)

「すべての人は、罪を犯したので」聖書によれば、人間はすべて罪人です。十戒を守りきっている人は誰もいません。律法によっては救われません。イエス様もまた「律法を廃棄するためではなく、律法を成就するために来た」と仰っています。
しかし私たちは皆、罪を犯しました。神さまからの栄誉を受けることができません。言い換えれば天国に行くことができません。天国に行くためには、その罪が赦されなければなりません。その罪というのは、律法を犯すことはもちろんのことですが、罪の根本的なことは何でしょうか。天地万物を造られた神さまがおられるのに、その神さまを認めない。それが聖書が言っている一番大きな罪です。その罪が赦された初めて、私たちは天国に行くことが出来ます。私たちの罪の解決が必要なのです。
 

これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。
(マタイ26:28)

「これは、わたしの契約の血」。私たちは聖餐式において、この血にあずかっています。

あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。
(使徒20:28)

「神がご自身の血をもって買い取られた神の教会」という表現があります。私たちはそのような存在です。

ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
(ローマ5:9)

「キリストの血によって義と認められた私たち」。私たちはキリストの血によって義と認められています。きよめられています。これは神さまが定めて下さった、私たちが救われる方法でした。血の解決がどうしてもなされなければならなかったということです。
 
私たちの歩み方。それはこのようなことを証ししていく歩みです。使徒の働き29章の歩み方です。
パウロには秘訣がありました。パウロがどのように復活の主に出会ったか。使徒の働きを読むと分かります。パウロはそれまでクリスチャンを迫害していました。そんな自分が復活の主と出会い、赦して下さった。一方的な神さまの憐れみによって救われた。そのことをどこにおいても証ししていました。自分は罪人の頭であった、そんな自分が救われたのだからあなたがたも救われる。そう証言していました。証言とは実際の体験を話すことです。自分がいかに罪人であったか。緋のように赤い罪を持っていたか。その罪が一方的な神さまの憐れみによって洗い清められて救われたこと。私が救われたのだから、あなたにも救われて欲しい、救われるのだという福音を伝えて行きましょう。
 
私たちは大胆に証しをしていきます。自分の力ではなく、聖霊の力によってです。

神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。
(Ⅱテモテ1:7)

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

コメントを残す